彼は亡国の令嬢を愛せない

黒猫子猫

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25. 人生は誰にでも変えられる

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 二人で暮らす家にセシリアと共に帰ったアッシュは、再び彼女を励ました後、
「少し休んだら、ルーフス軍の様子を見てくる」
 と告げた。

 状況が分からない内に、即座にラズの奪還に動くのは性急だ。一週間近く、睡眠時間を削ってまでラズを探し続けてきた分、疲労も濃い。体力の回復を図ろうとしているのだろうと、セシリアは理解した。

 それでもアッシュは、まだ顔色の悪いセシリアを気遣って、一緒に眠るよう誘い、寝室でベッドに横たわると、セシリアを包み込むように抱きしめた。

「大丈夫だからな」

 アッシュは繰り返す。セシリアの背を優しく擦り、彼自身が眠りに落ちて行くまで、彼女の心を慰めた。

 室内は薄暗い。窓から差し込む月明りが、仄かに照らすのみだ。

 やがて静かなアッシュの寝息が聞こえてくると、セシリアはゆっくりと身体を起こして、ベッドから降りた。いつもならば、セシリアが起き出すとすぐに目を覚ましていたアッシュは、ぴくりとも動かない。

 よほど疲れているのだろう。

 彼の体に毛布を掛け直したセシリアは、窓へ歩み寄った。月の光が彼の眠りを妨げてしまわないよう、カーテンを閉めようとした手が止まる。

 ―――薄くなっているわ⋯⋯。

 飛竜の番の証といわれる紋章は、いつの間にか今にも消えてしまいそうなほど薄くなっていた。飛竜から番の心が離れていく時、結んだ縁が薄くなっていく時、証は失われていくと、セシリアはアッシュから聞いている。

 震える手でカーテンを握り締め、セシリアはそっと閉めた。



 そのまま部屋を後にして、セシリアは居間で身支度を整えた。そして、半年ほど暮らした室内を見つめる。
ラズがいなくなって、静けさが身に染みるとともに、春先であってもひどく寒く感じる。

 何ごともなかったかのように、ひょっこり帰ってきてくれればいいのに――そんな淡い願いを抱きながら、ラズが寝ていたソファーを見て、涙をこらえる。

 だが、目を背けた先にあった物が視界に入った時、堪えきれずに、一筋の涙が落ちた。ゆっくりと歩み寄り、手に取ったのは、ラズがまだ産まれて間もない頃に入っていた籠だ。今はとても入りきれなくなって使っていないが、大切な思い出の品でもあったので、戸棚の上に飾ってあった。

 籠の中には、セシリアが洗濯をして畳んでおいた布がある。今、ラズの首に巻かれているバンダナを作った物の余りだ。両親の形見の品でもあったので、残った物とはいえ、処分するのに忍びなかったのだ。

 ――今度は⋯⋯これで産着を縫えたら良かったわね。

 セシリアは自分のお腹に目を落とし、指先まで冷たくなった細い手で、優しく触れた。月のものが遅れているというだけで、命を感じる動きはまだない。確証はないけれど、確信に変わりつつあった。

「あなたも⋯⋯一緒に⋯⋯いきましょうね」

 寂しげな声で呟いて、セシリアは涙を拭った。



 闇の中で、アッシュの目がふっと開いた。そして、腕の中に確かに包んでいたはずのセシリアの感触が失われていることに気付いた瞬間、彼は跳ね起きた。

「セシリア⁉」

 大声で彼女を呼び、気配を探すが、返って来るものはない。

 以前も抱きしめて寝ていたはずのセシリアがいつの間にか居なくなっていた事がある。あの時は、ただ単に従者たちのもとに戻っていただけだったが、それでもアッシュは酷い焦燥感と不安に駆られた。

 番への執着だったのだろう。

 あれから、無意識に警戒してしまうのか、セシリアと一緒に寝ていても、彼女が起き出すと、勝手に目が覚めていた。セシリアを見失わなくていい、とアッシュは自分の本能を歓迎していたが、今日はどういう訳か、起きられなかった。

 疲れているからだ、というのは言い訳にならないとアッシュは思う。敵軍に囚われたラズや、自分を責めているセシリアの心労も大きい。

 こんな時こそ、自分が気を張っていなければいけなかったというのに――。

 ぎりと唇を噛み、アッシュはベッドから降りると、部屋を飛び出した。

「セシリア、どこだ⋯⋯⁉」

 居間へ向かってみたが、彼女の姿はない。
 ただ、ラズが昔入っていた籠がソファーの上に置かれていて、中にあった布がなくなっていた。

 アッシュの顔から、血の気が引く。

 嫌な予感がした。以前とは比べ物にならないほど、自分が動揺しているのが分かる。番への本能というものではない。セシリアという、一人の女性への想いが、アッシュを駆り立てた。

 家の中にセシリアの気配がないと察したアッシュは、玄関へと急ぐ。彼女に許された行動範囲は限られているから、見つけるのは簡単なはずだった。

 だが、自分がどれほどの時間眠りに落ちてしまったのか、分からないぶん、不安が増す。
 玄関の扉を開け放ち――アッシュは大きく息を吐いた。

 セシリアが一人、扉の傍で立っていたからだ。

 彼女は背を向けていなかった。家の前で、中に入ろうか、どうしようか、悩んでいたように立ち尽くしていたように見える。

 アッシュは安堵の息を吐き、数歩進んで、セシリアを抱きしめた。

「脅かさないでくれ。またいなくなったから、どこに行ったかと思ったぞ」
「⋯⋯ごめんなさい」

 ぽつりと、セシリアは呟いたが、身体は強張ったままだ。アッシュが腕を緩めて彼女を見返すと、セシリアの顔は今にも泣きだしそうだった。

「どうした?」
「⋯⋯⋯⋯。布が⋯⋯風で飛ばされてしまって」
「なに?」

 セシリアが指さしたのは、家の近くにある木だった。以前、リンが登って隠れていた場所でもある。セシリアを伴って、アッシュは木の傍まで向かい見上げてみると、木の枝に布が引っかかっていた。登らなければ取れないような場所だが、竜化するほどでもない。

 アッシュはセシリアに待つよう告げて枝に足を掛けて攀じ登り、布を掴むと、そのまま地面へと飛び降りた。セシリアのもとに戻って手渡すと、ようやく彼女の顔が少し綻ぶ。

「ありがとう」

 セシリアは、小さく呟いた。

 家を出た後、セシリアが向かおうとしたのは、ロイのもとだ。ラズが囚われ、最悪の状況に陥った場合、背リシアは集落を出て行く約束をしている。彼と再び話をしなければならないだろうと思っていた。
 彼が暮らす館に行くには、小川を越える必要があった。
 小さな橋もかかっていたし、アッシュはそこまで迂回するのを面倒くさがって、飛び越えることも多い。

 ただ、川を前にして、セシリアの足が止まった。
 以前、この川の流れを見つめるなかで、自分の人生を省みたことを思い出したからだ。

 人々が懸命に人生を動かそうと、流れに身を投じているというのに、自分だけが立ち止まり、時間を止めている、と。

 あの時と、何も変わっていないのではないか――。

 そんな思いに駆られた時、急に強い風が吹いて、手にしていた布が舞い上がってしまった。慌てて後を追うと、木の枝に引っかかって止まった。

 登ってとれない場所ではない。だが、月明りがあるとはいえ、夜だ。もしも、足を滑らせて落ちたら、お腹の子は無事ではすまないだろう。

 そう思うと、言葉に言い表せない恐怖と悲しみを覚えた。

 贈ってくれた両親も、嬉しそうに包まっていたラズも、そしていつも深い愛情をもって接してくれたアッシュも。誰も喜ばない。誰も幸せにならない。
 大切な家族の顔が次々に過った。

 セシリアは悩んだ。
 アッシュのもとを離れなければ、彼は群れの中の立場と、自分たちへの想いで、悩むことになると分かっていたからだ。

 それでも――気づけば家に、アッシュのもとに、向かっていた。


 震える手で布を握り締めたセシリアを見つめ、アッシュは静かに問いかけた。

「どうしてこんな事になったか、教えてくれるか?」
「⋯⋯⋯⋯」

 うつむいたセシリアに、アッシュは小さくため息を吐く。それだけでも、びくりと身を強張らせた彼女に、アッシュは察するものがあった。ほろ苦い顔を浮かべ、身を屈めて彼女の顔を覗き込み、そっと手を伸ばす。

 頬を伝ったセシリアの涙を優しく拭い、顎を軽く引いて、自分と視線を合わさせた。

「セシリア。あの日も、お前は見知らぬ俺に勇気を出して叫べたじゃないか。たとえ、自分のためではなかったとしても諦めずに、なんとか状況を変えようとしただろう――」

 あの日、セシリアはアッシュに向かって叫んだ言葉がある。我が身を犠牲にしてもいい、何をされてもいいと、自分を省みなかった。

 それでも、彼女は人生を変えようとした。勇気のある行動だと、アッシュは今でも思う。

「――生き方は、自分の手でいくらでも変えられる。俺の妹シュリのように、どんなに弱いものでも⋯⋯自分で決められるんだ。お前が教えてくれたことだぞ」
「⋯⋯⋯⋯」

「今度は自分の人生を変えるために、少しだけ勇気を出すといい。お前はもう、俺に言えるはずだ」

 セシリアは涙が止まらなかった。自分でもこんなに泣くことがあるのだと、驚くほどだ。それでも、優しく見つめるアッシュに、心からの言葉がでた。

「⋯⋯助けて⋯⋯」
「ラズだけじゃないな?」

 包み込むような温かい彼の声に、セシリアはやっとの事で頷く。

 生きたい。生きていたい。
 アッシュやラズ、そして産まれてくる子供と共に暮らす未来を、諦めたくない。飛竜たちも住処を失ってほしくないし、従者たちも心穏やかに過ごしてほしい。

 全部ほしがるなんて、自分はわがままだ。

 それでも――自分の心は、アッシュの前では偽れない。いつも真っすぐに、自分を想ってくれる男性だから。


 アッシュはいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、セシリアを抱きしめた。

「もちろんだ⋯⋯と思うんだが、なんだかそれだけを言うのは、違う気がする」
「え⋯⋯?」

「なんだろうな⋯⋯。こんな状況で不謹慎なんだろうが⋯⋯途方もなく俺は今、嬉しい」

 アッシュは少し考えた後、自分の腕の中にいてくれるセシリアに、微笑んだ。

 お前の人生から、俺を追い出さずにいてくれて。
 セシリアが自分の身を惜しんでくれて。

「ありがとう、だな」
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