幼馴染の戌騎士は、婚約破棄を断固として認めない

黒猫子猫

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第一章 戌隊長は、今日も寝不足です

いつまでも待つ男

 夕方になり、検問所が閉まっても、ビアンカの仕事は終わらない。書類の整理も膨大なのだが、一番厄介なのが没収した荷駄の確認だ。
 中身の確認は原則として没収した者がやることになっている。
 そして、あの申の青年が残していった品は膨大で、保管庫の一角に数箱積み上がるほどだった。

 お陰でビアンカは同僚達が全員帰宅する中、最後まで居残らざるをえなかった。
 やっと最後の仕事を終えて、職場を後にした時には夜も更けていた。


 戌の一族は昼間のようにとまではいかないまでも、夜目がきくので、闇夜の中でも怖くはない。
 検問所の職員用の出口を出れば、騎士団員達が住む長屋が続いていて、誰かしら出歩いていたり起きていたりするからだ。

 今日は深夜ということもあって、人の姿はなかったものの、ビアンカにとっては少しありがたかった。

 どうも足元がおぼつかず、右へ左へと、ふらふらとしてしまうからだ。

 仕事の引継ぎや引っ越しの準備などで、睡眠時間を削り続けていたので、疲れも溜まっているのだろうと思った。

 頭もぼんやりするし、気怠いし、鼻もおかしい。

 玉葱に、レモン――――大嫌いな匂いを嗅ぎ続けたせいだ。

「おい、落ちるぞ!」

 いきなり腕を掴まれて引っ張られ、ビアンカは目を見張る。見上げてみれば、相変わらず不機嫌そうな顔をしたシグバードがいた。

「⋯⋯なにが?」
「お前だ。側溝があるのが見えなかったのか?」

 指差されて、のろのろと視線を向ければ、確かに道の脇に側溝があった。

「本当だわ⋯⋯こんな所にいたのね、ご苦労様⋯⋯」
「はあ?」
「あ、違ったわ。ええと⋯⋯貴方も、ご苦労様でした」

 何だかんだ言いながらも、騎士団が控えていてくれる事は大きく、仕事もはかどりやすい。昼間喧嘩別れのようになってしまった最後が悲しかったので、朦朧とする意識のなか、声を振り絞った。

 シグバードはばつの悪そうな顔をした。

「⋯⋯なんだ、気づいていたのか。だったら一人で帰れるなんて、いつも意地張るんじゃね――」
「帰れるわよ」
「待て。おい⋯⋯こら! だから落ちる!」

 シグバードの手を振り払い歩き出したビアンカだが、またしても側溝に向かうものだから、彼は気が気ではない。 
 たまらず後ろから彼女の身体に片腕を回して抱きとめた。

 すんでのところで側溝から落ちずに済んだビアンカは、のろのろと顔を上げて、彼を見つめた。

「あ⋯⋯さ⋯⋯」
「朝?」

 ――ありがとう、さようならの一言が、どうして言えないのかしら。 

 ビアンカは泣きそうになったが、シグバードの目が急に鋭くなり、今度は軽々とビアンカを横抱きにして抱き上げた。
 驚きの余り心臓は飛び出しそうになり、身体は嬉しくて震えたが、出てきた言葉はやはり心とは裏腹なものだ。

「な、なにするのよ⋯⋯」
「妙な匂いがする。嗅ぐぞ、大人しくしろ」

 不機嫌そうに言われ、ビアンカは納得した。

 彼も戌の一族だから、嗅覚が鋭い。自分の身体に残る嫌な匂いに気付いたのだろう。

「さっきまで荷物の整理をしていたから⋯⋯玉葱かしら? それともレモン?」
「違うな⋯⋯なんだ?」

 耳の下の首筋に顔を近づけられ、ビアンカは頬を染めた。彼にしてみれば仕事の一環かもしれないが、吐息が耳の近くにかかり、身体が熱い。

 嫌な匂いで気分が悪い中、大好きな男の匂いが仄かに香ってくるのは、あまりに甘美な誘惑だ。

 ――――⋯⋯シグだってやっていると言い訳が出来るかしら⋯⋯っ。

 ビアンカは、こっそりとシグバードの香りを吸い込んだ。
 爽やかな甘い匂いにうっとりとしたが、次いで身体の奥がじんわりと熱くなって、何だか汗が出てくる。  

 さらに彼の髪が首筋に僅かにあたっただけで、身体が震えた。

「ひ、ぁ⋯⋯っ⁉」
「⋯⋯野郎⋯⋯混ぜやがったな」
「混ぜ⋯⋯?」

 シグバードは顔を離すと、頬を真っ赤に染めて、蕩けそうな顔をしているビアンカを見返した。

 匂いと言い、彼女のこの様子と言い、間違いない。
 媚薬だ。しかも、匂いを嗅いだだけでこれだから、かなり強烈なものだろう。

 あの悪辣な申が考えそうなことだ、とシグバードは舌打ちする。

 ビアンカが荷物の整理をすることを見越し、買収した新米隊員に手引きさせて、媚薬に堕ちた彼女を襲おうとしていたのだろう。
 新人は朝一番に出勤して鍵を開け、帰りも最後に施錠するからだ。

 自分が叩きのめした新人を見て、忌々しげな顔をしていたからそれは諦めたのだろうが、あの男が近くに留まって、機会を伺っているとも限らない。

「俺の家に来い。他の雄は見るな、叩き斬りたくなる」
「うん⋯⋯?」

 生返事をした彼女を抱き上げたまま、シグバードは帰路を急いだ。



 自宅に入り、自分の寝台に彼女を寝かせたまでは良かったが、シグバードはすぐに悩むことになった。
 帰るまでの間に、更に媚薬が効いてきたらしきビアンカが、甘い声ばかりを漏らすのだ。

「⋯⋯ん、シグ⋯⋯いい匂い⋯⋯」

 蕩けそうな極上の笑顔を向け、ほんのりと頬を染めて、自分の寝台の上で完全に力が抜けきった無防備な姿で横たわっている。

 襲えと言っているようなものだが、シグバードはぎりと奥歯を噛み締め、鋭い目で睨んだ。

「いいから、さっさと寝ろ。明日の昼、発つんだろうが」
「⋯⋯そうよ⋯⋯寂しい?」
「別に」

 素っ気なく返すと、ビアンカの目が潤んだものだから、彼の眉間の皺は深くなる。

「⋯⋯お風呂も一緒に入った仲なのに」
「昔のことだ」

「身体も舐め合ったじゃない」
「子犬の頃だろうが⋯⋯っ」

「分かってるわよ⋯⋯」

 拗ねたように言いながら、ビアンカは彼の枕を手繰り寄せて、ぎゅっと抱き締めた。

 そして、安心したように表情を緩めたものだから、シグバードの手は落ち着かなげにさまよった。

「⋯⋯何してる」
「ほんとうは⋯⋯寂しいの」

「⋯⋯⋯⋯」
「でも、いいのよ⋯⋯我慢する。頑張るわ」

 柔らかく笑う彼女に、シグバードは天を仰いだ。

 自分の理性がもつ事を祈りつつ、靴を脱いで彼女の隣に滑り込み、抱き寄せた。

「⋯⋯降参だ。好きに使え」

 そう言うと、ビアンカは枕を放って、彼のお腹にこてんと頭を乗せた。

「ふふふ⋯⋯かたいお腹⋯⋯」
「鍛えたんだ」

「そう。どこまで筋肉かしらねぇ?」

 相当媚薬で酔っているらしく、鼻歌まじりに割れた腹部を撫でられる。
 シグバードはぎりと奥歯を噛み締め、腹に力を入れて欲望を堪えつつ言った。

「言っておくが、聖都で礼儀作法もきっちり学んできたからな。お前は馬鹿や弱虫は嫌なんだろ⋯⋯おいっ!」

 穏やかな寝息が聞こえてきて、シグバードは抗議の声を上げたがもう遅い。
 ビアンカは、大変気持ちよさそうに眠ってしまっていた。

 彼は呻き、視線を泳がせ、やがて大きく息を吐いて気を落ち着かせると、腕を伸ばして毛布を手繰り寄せ、彼女の身体にかけてやった。

 そして、散々迷った挙句、そろそろと手を伸ばして、ビアンカの髪を撫でて、慰めるように呟いた。

「頼むから⋯⋯もう一人で頑張るな」
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