幼馴染の戌騎士は、婚約破棄を断固として認めない

黒猫子猫

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第二章 戌騎士は、今日もお怒りです

それでいいのか

 広い寝室の大きなベッドに押し倒されて、ビアンカはものすごく焦った。

「ねぇ、ちょっと待って。何するのよ⁉」
「うるせえ。お前は⋯⋯いい加減にしろ!」

 かつてないほど彼が声を荒げたのに驚いて、ビアンカはびくりと身体を震わせた。
 それに気付いたシグバードは、ぎりと唇を噛み締めて、押し倒した彼女を強く抱き締めて、微動だにしなくなった。

 そして、ビアンカもふわりと彼の香が匂ってきて、心が凪ぐ。

 どんな時でも、彼の香は安心するのだ。

「⋯⋯シグ⋯⋯?」

 かつて彼を呼んでいた愛称を無意識に呟くと、シグバードはようやくゆっくりと顔を上げた。
 二人の視線が絡み合い、ビアンカは彼の瞳を見つめて息を呑む。

 こんなにも深く傷ついた目をした彼を、一度だけ見た事がある。聖都から帰って来た彼と、婚約破棄を巡って大喧嘩をしたときだ。

 シグバードを嫌いになったわけでは無い。むしろ昔から変わらず優しい彼に惹かれるばかりだった。

「⋯⋯ごめんね」

 ぽつりと呟いて思わず手を伸ばしかけ、そんな資格は自分にないと気付いて途中で止まったが、その手を取られて掌にキスをされた。

 シグバードは大きく息を吐き、幾分か冷静さを取り戻した顔をしたが、その眼差しは強い。

「もう二度とするな」
「えぇ、分かったわ」

 答えながらも、ビアンカは赤面した。シグバードが額や頬にキスを落としてきたからだ。

「あの⋯⋯それで貴方は、何をしているのかしら?」
「悪いが⋯⋯止まらない。嫌なら今、逃げろ」

 彼の言葉の意味を察して、ビアンカは益々頬を染めたが、何故彼がその気になったのかと困惑する。
 そうしている間にも、シグバードは自分の上衣を脱いで上半身裸になると、焦れたようにビアンカの頬を撫でた。
 触れる手が熱く、幾分か息を乱している。

「⋯⋯早く決めてくれ。俺にお前を犯させるな」

 ぎりと唇を噛み締め、必死で耐えるシグバードの表情が、女の自分よりも遥かに色気がある気がした。
 そして、ビアンカは何故ここまで彼が一気に滾ったのか理解した。

 発情期の雌の放つ匂いは、雄の欲望を触発する。
 シグバードとて若い男だから、性欲を発散したいはずだ。仕事柄、街中を巡回することも多いから、匂いを毎日のように吸い込んでいるに違いない。

 ならば、発情期を迎えていない雌とはいっても、女を前にして欲望に駆られるのは当然だ。
 たとえそうであったとしても、シグバードならば、ビアンカは嫌では無かった。

 小さく頷いて身体の力を抜くのが合図となって、ビアンカはあっという間に彼に奪われた。


 翌日の朝、シグバードは目を覚ました。
 すぐにビアンカの姿を探し、眠りに落ちる前と同じく自分の腕の中で大人しく寝ている彼女を見て、安堵の息を漏らす。
 華奢な身体には至る所に自分が刻んだ痕が残り、シグバードの独占欲を少しばかり満たした。
 彼女を起こさないように、そっとベッドを降り風呂場で身綺麗にして服を着ると、再び寝室に戻って来た。
 深い眠りに落ちているビアンカの額にキスを落とすと、寝室を出て、そのまま家を後にした。


 シグバードが出て行ってから一時間ほど経った頃、ビアンカもまたようやく目を覚ました。
 朦朧としていた意識がしっかりとして、状況を把握するや否や、彼女は忙しいことになった。

 シグバードにされた事を思い出して真っ赤になり、挙句にベッドから降りても腰が砕けて、動けるようになるのに時間がかかった。文句を言おうにも彼の姿は無い。

 そして、時計を見て青ざめもした。今日が返済の期日で、申の青年ランスが先週と同じ場所で待っている時間も近い。

「い、行かなきゃ⋯⋯!」

 気怠い身体を叱咤しながら、ビアンカは支度を整えると、彼の部屋を飛び出した。

先週、故意に遅れてみてもビアンカが大して反応しなかったのを見て、申の青年ランスは今回は時間よりも前に喫茶店を訪れていた。
 傍にはいつものように彼の秘書や護衛が数人控えていたこともあって、周囲の客達の視線を大いに集めていたが、彼はおかまいなしだ。椅子にゆったりと腰かけて、いっそ優雅な彼に、その本性を知らない女性達は見惚れていたものだが、その彼の元にやって来た長身の男を見るや、全員が一斉に目を逸らした。

 護衛達が全員身構える程、凄まじい殺気を放っていたからだ。

 そんなシグバードを見ても、ランスは全く動じない。むしろ足を組んで更にくつろいだ姿になり、自分を見下ろした彼に冷淡な笑みを浮かべた。

「誰かと思えば⋯⋯ビアンカはどうしました?」
「話は聞いた。借金の上乗せとは、随分と舐めた真似をしてくれたな」
「それで貴方は力で解決する気ですか? どうぞ」
「なんだと」
「これでも何度か修羅場をくぐっているんです。刺されかけた事も何度かありますからね、珍しくもない」

 シグバードは彼の背後にずらりと並び、威圧してくる護衛達を一瞥する。

「だろうな」
「そんな中でビアンカは本当に真摯でした」
「あいつは真面目だから――」
「実に、憎らしい」
「⋯⋯⋯⋯」

 意表を突かれたのか黙り込んだシグバードに、ランスは目に狂気すら滲ませ、冷徹な笑みを浮かべた。

「この世に汚いことなど幾らでもあるのに、あの娘は知ろうともしない。私はああいう善良な、無垢な子を見ていると堕としてやりたくなるんですよ」
「貴様⋯⋯」

 シグバードが怒りのあまり握りしめた長剣からは、鞘がミシミシと音をたてた。それに気付いたランスは近衛兵団の紋章が刻まれた剣を見て、冷笑した。

「ただ、あの金額をすぐに耳を揃えて返せるとは、私も思っていません。彼女がうなだれて来るところをいびろうと思いましたが、気が変わりました。貴方が払ってくれてもいいですよ」

 シグバードが息を呑み、彼が言葉を発する前に、ランスはすかさず続けた。

「その代わり、今すぐここで私の前で這いつくばりなさい」
「なんだと⋯⋯?」
「そして、店中に響き渡るくらいの大声で、自分が借金を返済する旨と、貸主である私への感謝の言葉をお願いします。ビアンカの名は出さなくていいですよ? 貴方の借金になるんですからねぇ」

 ランスは笑みを浮かべたまま、吐き捨てるようにシグバードに更に告げた。

「よい気味です。私は、貴方のように日の当たる場所で、見るからに順風満帆な人生を歩いている男を見ていると、反吐が出るんですよ」

 ランスは最初から今の豊かな生活をしていたわけではない。申の一族は智慧の回る者が多く、金稼ぎが上手い。だが、その分貧富の差も他族に比べて大きく、ランスも最下層から這いあがってきた男だった。
 悪徳と陰口を叩かれても仕方のない事もした。生き抜くために必要であった事で、悔やんでもいない。

 ただ、シグバードは大して手を汚さずに、真っすぐに生きることが出来ている。あろうことか、自分が強い関心を寄せるビアンカの心をも手に入れようとしている。

 この男は、ビアンカよりも遥かに腹立たしい。

「それが出来たら、もうビアンカに借金の取り立ては勿論のこと、いたぶるような真似も一切しないとお約束しましょう」

 ランスは、シグバードが己の自尊心と彼女への恋情を天秤にかけて苦悩する姿を思い浮かべ、愉悦の笑みを浮かべた。
 悪辣な提案をする己に敵意でも向けてくれると、更に追い詰めがいがある。

 そんな期待は――――見事に裏切られた。

「それでいいのか」

 気が抜けたような、あっさりとした返答に、ランスは耳を疑った。
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