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2話
重い鉛を引きずるような足取りで、私は王立学園の校門をくぐった。
昨夜、自室の床に散らばった真珠の残像が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
一睡もできぬまま迎えた朝の空気は、春だというのに肌を刺すほど冷たく感じられた。
馬車から降りた瞬間、私は微かな違和感に足を止めた。
いつもなら、公爵家の令嬢である私を見れば、周囲の生徒たちは優雅な一礼を捧げる。
あるいは、親しい友人たちが駆け寄ってきて、昨夜のパーティーの余韻を語り合うはずだった。
しかし、今日、私を待ち受けていたのは――凍てつくような沈黙だった。
視線。
無数の視線が、針のように私の肌を突き刺す。
令嬢たちが一斉に扇を広げ、その影で口元を隠した。
バサリ、という絹の擦れる音が、まるで見えない壁を築く合図のように響き渡る。
「……見て、あの方よ」
「まあ、よくも平気な顔をして登校できたものですわね。昨夜のあられもない醜態を、殿方たちの前で晒しておきながら」
「お姉様のアイギス様が、どれほど心を痛めていらしたか……。同じ公爵家の血を引いているとは思えませんわ」
囁き声は、風に乗って容赦なく私の耳に流れ込んできた。
身に覚えのない罪が、事実として塗り固められていく。
私が昨夜、誰とも知れぬ男と密会し、公爵家の名を汚したという毒。
それはアイギスが昨夜、華やかな光の下で振りまいた死に至る香水。
「違います……私は、そんなことは……」
弁明しようと唇を震わせるが、声は掠れて形にならない。
学園の廊下を歩くたび、私の前で人波が左右に分かれていく。
まるで、触れてはいけない汚物にでも出会ったかのような、露骨な忌避。
昨日まで私に微笑みかけていた令嬢が、軽蔑の眼差しを向けながら、汚いものを見るようにドレスの裾を払った。
その時だった。
「あら、イリス。もう体調はよろしくて?」
回廊の向こうから、取り巻きの令嬢たちを従えたアイギスが歩いてきた。
彼女の歩調に合わせて、周囲の殿方たちが崇拝の眼差しを向ける。
アイギスは私の前で立ち止まると、痛ましそうに眉をひそめて見せた。
その瞳には、慈愛を装った深い侮蔑が、底知れぬ沼のように沈んでいる。
「お姉様……どうして、あんな嘘を……」
「嘘? 何のことかしら。私はただ、あなたがパーティーを欠席した理由を、心配する皆様にありのままにお伝えしただけですわよ」
アイギスはそっと、私の肩に手を置いた。
その指先は氷のように冷たく、私の制服越しに悪寒を走らせる。
「皆様、イリスをあまり責めないであげて。この子はまだ、分別のつかない幼い子供なのです。……たとえ、殿方と夜通し睦み合って、身を滅ぼそうとしていても……妹であることには変わりありませんから」
周囲から、どよめきと嘲笑が漏れた。
「なんて慈悲深いアイギス様……」
「それに引き換え、イリス様の浅ましさといったら。公爵家の恥晒しですわ」
アイギスの「情け」という名の毒液が、私の足元をじわじわと侵食していく。
私は、自分が奈落の底へと滑り落ちていくのを感じた。
ここには、私の味方は一人もいない。
父様も、学園の教師も、昨日までの友人も。
誰もがアイギスの吐き出す「真実」を信じ、私の無実を嘲笑っている。
私は逃げるように教室へと駆け込んだ。
だが、そこもまた、安息の地ではなかった。
机には、鋭利な刃物で刻まれたような誹謗中傷の言葉が並び、私が大切にしていた教科書は、無惨にも水に浸されていた。
突き刺さる視線。
汚らわしいものを見る、無数の瞳。
昨日まで当たり前だったはずの風景が、剥製のように凍りつき、私を拒絶している。
視界が涙で滲み、世界が歪んでいく。
私はただ、震える手で濡れた本を抱きしめることしかできなかった。
まだ一日は始まったばかりだというのに。
私の心は、すでに限界を迎えようとしていた。
昨夜、自室の床に散らばった真珠の残像が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
一睡もできぬまま迎えた朝の空気は、春だというのに肌を刺すほど冷たく感じられた。
馬車から降りた瞬間、私は微かな違和感に足を止めた。
いつもなら、公爵家の令嬢である私を見れば、周囲の生徒たちは優雅な一礼を捧げる。
あるいは、親しい友人たちが駆け寄ってきて、昨夜のパーティーの余韻を語り合うはずだった。
しかし、今日、私を待ち受けていたのは――凍てつくような沈黙だった。
視線。
無数の視線が、針のように私の肌を突き刺す。
令嬢たちが一斉に扇を広げ、その影で口元を隠した。
バサリ、という絹の擦れる音が、まるで見えない壁を築く合図のように響き渡る。
「……見て、あの方よ」
「まあ、よくも平気な顔をして登校できたものですわね。昨夜のあられもない醜態を、殿方たちの前で晒しておきながら」
「お姉様のアイギス様が、どれほど心を痛めていらしたか……。同じ公爵家の血を引いているとは思えませんわ」
囁き声は、風に乗って容赦なく私の耳に流れ込んできた。
身に覚えのない罪が、事実として塗り固められていく。
私が昨夜、誰とも知れぬ男と密会し、公爵家の名を汚したという毒。
それはアイギスが昨夜、華やかな光の下で振りまいた死に至る香水。
「違います……私は、そんなことは……」
弁明しようと唇を震わせるが、声は掠れて形にならない。
学園の廊下を歩くたび、私の前で人波が左右に分かれていく。
まるで、触れてはいけない汚物にでも出会ったかのような、露骨な忌避。
昨日まで私に微笑みかけていた令嬢が、軽蔑の眼差しを向けながら、汚いものを見るようにドレスの裾を払った。
その時だった。
「あら、イリス。もう体調はよろしくて?」
回廊の向こうから、取り巻きの令嬢たちを従えたアイギスが歩いてきた。
彼女の歩調に合わせて、周囲の殿方たちが崇拝の眼差しを向ける。
アイギスは私の前で立ち止まると、痛ましそうに眉をひそめて見せた。
その瞳には、慈愛を装った深い侮蔑が、底知れぬ沼のように沈んでいる。
「お姉様……どうして、あんな嘘を……」
「嘘? 何のことかしら。私はただ、あなたがパーティーを欠席した理由を、心配する皆様にありのままにお伝えしただけですわよ」
アイギスはそっと、私の肩に手を置いた。
その指先は氷のように冷たく、私の制服越しに悪寒を走らせる。
「皆様、イリスをあまり責めないであげて。この子はまだ、分別のつかない幼い子供なのです。……たとえ、殿方と夜通し睦み合って、身を滅ぼそうとしていても……妹であることには変わりありませんから」
周囲から、どよめきと嘲笑が漏れた。
「なんて慈悲深いアイギス様……」
「それに引き換え、イリス様の浅ましさといったら。公爵家の恥晒しですわ」
アイギスの「情け」という名の毒液が、私の足元をじわじわと侵食していく。
私は、自分が奈落の底へと滑り落ちていくのを感じた。
ここには、私の味方は一人もいない。
父様も、学園の教師も、昨日までの友人も。
誰もがアイギスの吐き出す「真実」を信じ、私の無実を嘲笑っている。
私は逃げるように教室へと駆け込んだ。
だが、そこもまた、安息の地ではなかった。
机には、鋭利な刃物で刻まれたような誹謗中傷の言葉が並び、私が大切にしていた教科書は、無惨にも水に浸されていた。
突き刺さる視線。
汚らわしいものを見る、無数の瞳。
昨日まで当たり前だったはずの風景が、剥製のように凍りつき、私を拒絶している。
視界が涙で滲み、世界が歪んでいく。
私はただ、震える手で濡れた本を抱きしめることしかできなかった。
まだ一日は始まったばかりだというのに。
私の心は、すでに限界を迎えようとしていた。
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