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第二話
夜の静寂を切り裂くように、重厚な扉が再び押し開かれた。
去りゆく私の背中に投げつけられていた嘲笑が、一瞬で凍り付く。
会場に流れ込んできたのは、北方の峻烈な冬を思わせる、肌を刺すような冷気だった。
私の腰を強く抱き寄せ、エスコートというにはあまりに独占的な所作で連れ戻したのは、公爵オーディン・ヴァン・アルカディア。
「氷の死神」の異名を持ち、国王ですら一目を置く北の支配者が、なぜこの場にいるのか。
騒然とする貴族たちを、オーディンの氷藍色の双眸が無機質に射抜く。
「……公爵、なぜ貴殿がここに。これは王家とクロムウェル公爵家の私的な問題だ。部外者は立ち去れ」
セドリック王太子が、声を震わせながらも威圧を試みる。
その隣で、リディアがオーディンのあまりの美貌と威厳に、頬を染めながらも怯えたように身を縮めた。
だが、オーディンはセドリックの言葉など、羽虫の羽音ほどにも気にかけていないようだった。
彼は私の肩に、自らの漆黒の外套をふわりと掛けた。
公爵家の紋章が刺繍された上質な生地からは、深みのある香木の香りと、彼自身の体温が伝わってくる。
その温もりに、私の凍えていた指先がじわりと痺れた。
「私的な問題、か。国の至宝を泥に塗れさせ、追放しようという愚行を、ただの私事と片付けるつもりか、セドリック殿下」
オーディンの声は低く、そして驚くほど冷徹だった。
彼は私の腰を抱いたまま、一歩、また一歩と王太子の前へと歩を進める。
その一歩ごとに、会場の空気が物理的な重圧を伴って沈み込んでいく。
「至宝だと? 笑わせるな。この女はリディアを害そうとした稀代の悪女だ。公爵、貴殿もその美貌に騙されているのではないか?」
「……黙れ。その汚らわしい口で彼女の名を呼ぶな」
オーディンの瞳に、一瞬だけ苛烈な殺気が宿る。
セドリックは息を呑み、情けなく数歩後退った。
王族としてのプライドよりも、死の予感が彼の本能を支配したのだろう。
オーディンは嘲笑うように口角をわずかに上げたが、その瞳は一切笑っていない。
彼は会場全体を見渡すように、朗々と、しかし峻厳な宣言を放った。
「アンジェリカ・クロムウェル。彼女がこの国にとってどれほどの価値を持つか、理解できぬ愚か者どもに告ぐ。
本日この時をもって、彼女は我がアルカディア公爵家の庇護下に入る」
その言葉が、雷鳴のように会場に轟いた。
貴族たちの間に、波紋のような動揺が広がる。
「アルカディア公爵家の庇護」――それは、実質的に王権すら及ばない絶対的な安全圏を意味する。
「彼女を魔女と呼び、罪を着せた報いは、いずれ貴殿らの領地の経済指標が証明することになるだろう。
アンジェリカ、行こう。こんな埃っぽい場所は、君のドレスを汚すだけだ」
オーディンは私の返事を聞く前に、軽々と私を横抱きに――いわゆるお姫様抱っこの体勢で抱え上げた。
「あっ……公爵閣下、自分で行けますわ!」
思わず声を上げたが、彼の腕は鋼のように強固で、微動だにしない。
「無駄な抵抗はやめておけ。君は今、国外追放を命じられた身だろう?
ならば、この国の地面を一歩たりとも踏ませるわけにはいかない。私の腕の中だけが、今の君の居場所だ」
あまりに傲慢で、それでいてどこか切実な響きを含んだ言葉。
私は彼の首に手を回すしかなく、顔が火照るのを感じながら、その胸板に額を預けた。
トクトクと、一定のリズムで刻まれる力強い鼓動。
それは、裏切りと絶望に満ちたこの場所で、唯一信頼できる真実の音のように思えた。
背後でセドリックが何かを喚き、リディアが金切り声を上げたような気がしたが、もはやどうでもよかった。
オーディンが私を連れて会場を後にした瞬間、背後の重い扉が再び閉まる。
それは、私が守り続けてきた退屈で過酷な過去との、完全なる決別の音だった。
夜の冷気が頬を撫でる。
待機していた公爵家の馬車は、まるで漆黒の宝石のように闇の中で輝いていた。
オーディンは私を抱いたまま車内へと入り、向かい合わせではなく、自らの隣に私を下ろした。
狭い車内、絹が擦れる音だけが響く。
馬車が動き出すと、窓の外を流れる王宮の灯火が遠ざかっていく。
私は、隣に座る沈黙の男を盗み見た。
整った横顔は、彫刻のように美しく、そしてやはり冷たい。
けれど、私の手を握る彼の掌だけは、火傷しそうなほどに熱かった。
「……なぜ、私なのですか」
ようやく絞り出した問いに、オーディンは視線を窓の外に向けたまま、静かに答えた。
「言ったはずだ。君には利用価値がある。……だが、それ以上に。
二十年前、泥の中で咲いていた私を見つけ出したのは、君だったからだ」
記憶の濁流が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
しかし、その真意を問う前に、オーディンは私の顎を指先でくいと持ち上げた。
至近距離で交錯する、熱を帯びた氷藍色の視線。
「今日から君は、私の城で、私の所有物として生きる。
不満か? アンジェリカ」
逃げ場のない甘い檻。
その問いに対し、私はただ、小さく首を振ることしかできなかった。
失ったはずの未来が、この男の手によって、より鮮烈な色を帯びて塗り替えられていく予感に震えながら。
去りゆく私の背中に投げつけられていた嘲笑が、一瞬で凍り付く。
会場に流れ込んできたのは、北方の峻烈な冬を思わせる、肌を刺すような冷気だった。
私の腰を強く抱き寄せ、エスコートというにはあまりに独占的な所作で連れ戻したのは、公爵オーディン・ヴァン・アルカディア。
「氷の死神」の異名を持ち、国王ですら一目を置く北の支配者が、なぜこの場にいるのか。
騒然とする貴族たちを、オーディンの氷藍色の双眸が無機質に射抜く。
「……公爵、なぜ貴殿がここに。これは王家とクロムウェル公爵家の私的な問題だ。部外者は立ち去れ」
セドリック王太子が、声を震わせながらも威圧を試みる。
その隣で、リディアがオーディンのあまりの美貌と威厳に、頬を染めながらも怯えたように身を縮めた。
だが、オーディンはセドリックの言葉など、羽虫の羽音ほどにも気にかけていないようだった。
彼は私の肩に、自らの漆黒の外套をふわりと掛けた。
公爵家の紋章が刺繍された上質な生地からは、深みのある香木の香りと、彼自身の体温が伝わってくる。
その温もりに、私の凍えていた指先がじわりと痺れた。
「私的な問題、か。国の至宝を泥に塗れさせ、追放しようという愚行を、ただの私事と片付けるつもりか、セドリック殿下」
オーディンの声は低く、そして驚くほど冷徹だった。
彼は私の腰を抱いたまま、一歩、また一歩と王太子の前へと歩を進める。
その一歩ごとに、会場の空気が物理的な重圧を伴って沈み込んでいく。
「至宝だと? 笑わせるな。この女はリディアを害そうとした稀代の悪女だ。公爵、貴殿もその美貌に騙されているのではないか?」
「……黙れ。その汚らわしい口で彼女の名を呼ぶな」
オーディンの瞳に、一瞬だけ苛烈な殺気が宿る。
セドリックは息を呑み、情けなく数歩後退った。
王族としてのプライドよりも、死の予感が彼の本能を支配したのだろう。
オーディンは嘲笑うように口角をわずかに上げたが、その瞳は一切笑っていない。
彼は会場全体を見渡すように、朗々と、しかし峻厳な宣言を放った。
「アンジェリカ・クロムウェル。彼女がこの国にとってどれほどの価値を持つか、理解できぬ愚か者どもに告ぐ。
本日この時をもって、彼女は我がアルカディア公爵家の庇護下に入る」
その言葉が、雷鳴のように会場に轟いた。
貴族たちの間に、波紋のような動揺が広がる。
「アルカディア公爵家の庇護」――それは、実質的に王権すら及ばない絶対的な安全圏を意味する。
「彼女を魔女と呼び、罪を着せた報いは、いずれ貴殿らの領地の経済指標が証明することになるだろう。
アンジェリカ、行こう。こんな埃っぽい場所は、君のドレスを汚すだけだ」
オーディンは私の返事を聞く前に、軽々と私を横抱きに――いわゆるお姫様抱っこの体勢で抱え上げた。
「あっ……公爵閣下、自分で行けますわ!」
思わず声を上げたが、彼の腕は鋼のように強固で、微動だにしない。
「無駄な抵抗はやめておけ。君は今、国外追放を命じられた身だろう?
ならば、この国の地面を一歩たりとも踏ませるわけにはいかない。私の腕の中だけが、今の君の居場所だ」
あまりに傲慢で、それでいてどこか切実な響きを含んだ言葉。
私は彼の首に手を回すしかなく、顔が火照るのを感じながら、その胸板に額を預けた。
トクトクと、一定のリズムで刻まれる力強い鼓動。
それは、裏切りと絶望に満ちたこの場所で、唯一信頼できる真実の音のように思えた。
背後でセドリックが何かを喚き、リディアが金切り声を上げたような気がしたが、もはやどうでもよかった。
オーディンが私を連れて会場を後にした瞬間、背後の重い扉が再び閉まる。
それは、私が守り続けてきた退屈で過酷な過去との、完全なる決別の音だった。
夜の冷気が頬を撫でる。
待機していた公爵家の馬車は、まるで漆黒の宝石のように闇の中で輝いていた。
オーディンは私を抱いたまま車内へと入り、向かい合わせではなく、自らの隣に私を下ろした。
狭い車内、絹が擦れる音だけが響く。
馬車が動き出すと、窓の外を流れる王宮の灯火が遠ざかっていく。
私は、隣に座る沈黙の男を盗み見た。
整った横顔は、彫刻のように美しく、そしてやはり冷たい。
けれど、私の手を握る彼の掌だけは、火傷しそうなほどに熱かった。
「……なぜ、私なのですか」
ようやく絞り出した問いに、オーディンは視線を窓の外に向けたまま、静かに答えた。
「言ったはずだ。君には利用価値がある。……だが、それ以上に。
二十年前、泥の中で咲いていた私を見つけ出したのは、君だったからだ」
記憶の濁流が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
しかし、その真意を問う前に、オーディンは私の顎を指先でくいと持ち上げた。
至近距離で交錯する、熱を帯びた氷藍色の視線。
「今日から君は、私の城で、私の所有物として生きる。
不満か? アンジェリカ」
逃げ場のない甘い檻。
その問いに対し、私はただ、小さく首を振ることしかできなかった。
失ったはずの未来が、この男の手によって、より鮮烈な色を帯びて塗り替えられていく予感に震えながら。
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