『疾風のゆくえ』

小川敦人

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「疾風のゆくえ - 未来への軌跡と挑戦」

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『疾風のゆくえ』
石上の実家は小さなガソリンスタンドを経営していた。
三人兄弟の末っ子として育ったことで物事に拘らないおおらかな性格だ。
長兄が、アマチュアレーサーとして休日は富士スピードウェイでレースに参加していた。
石上も長兄の影響を受け、バイク、車が趣味で部屋には 『オートスポーツ』や 『カーグラフィック』 『ヤングオート』 雑誌が足の踏み場もないほどあった。
またレース用の二台のバケットシートがベットサイドに置かれていた。
「おい、石上! 早く来いって!」
学校帰り、友人の倉田が自転車を立てかけながら大声で呼びかけた。
石上はガレージからオイルで汚れた手を拭いながら顔を出した。
「何だよ、そんな急かして。今ちょうど兄貴のタイロッドエンド直してたとこなんだぞ。」
「そんなことどうでもいいんだよ!」 倉田が笑いながら手招きする。
「スズキの隣の店、ほら、中古のバイク屋になっただろ? 今日、新しいCB400が入ったらしいんだ。見に行こうぜ!」
石上の目が輝いた。「CB400? 本気かよ。俺、次に乗るなら絶対それって決めてたんだ。」
「なら行くっきゃないだろ!」 倉田はにやりと笑う。
二人は急いで自転車にまたがると、ペダルを思い切り漕ぎ始めた。夕焼けのオレンジが街並みを照らす中、風を切るように進んでいく。
中古バイク店に着くと、確かにそこには真新しいCB400が展示されていた。メタリックブルーのボディが夕陽を反射して輝いている。
「すげぇ…。」 石上はため息をついたように呟いた。
「触るなよ、買うわけじゃないんだからな!」 店主のおじさんがカウンターから軽口を叩いた。
「そんな、わかってますって!」 石上が笑い返す。「けど、これ本当に乗りたくなるバイクですよね。
兄貴が言ってたんですよ、これの性能は本物だって。」
「お前の兄貴、アマチュアレーサーだろ?」 店主は目を細める。
「こいつのポテンシャルを活かせる腕があるんなら話は別だが、普通のライダーにはちょっとオーバースペックだな。」
「だからこそ憧れるんだよな。」 石上は夢見るようにバイクを見つめた。
店を出ると、石上と倉田は川沿いの土手に腰を下ろした。
「お前、本当にバイク好きだよな。」 倉田が笑いながら言う。「けど、お前の兄貴みたいに本気でやるつもりなのか?」
石上は少し考え込んだ。
「正直、兄貴みたいにレースには出たいけど、あの世界って金もかかるしさ、何より俺みたいな適当な性格じゃ無理なんじゃないかって思う時があるんだよ。」
「おいおい、そんなこと言うなよ。」 倉田が肩を叩く。
「お前の兄貴だって最初からプロ並みの腕じゃなかっただろ? 大事なのは好きかどうかじゃねえの?」
その言葉に石上は小さくうなずいた。「そうかもしれないな。」
その夜、石上はいつものように部屋で『オートスポーツ』をめくりながらふと考えた。自分の将来、兄貴のように何かに打ち込む日が本当に来るのだろうか――。
彼の目に映るのは富士スピードウェイで兄が駆け抜ける姿と、憧れのCB400のメタリックブルーの輝きだった。
(続けるべきか、諦めるべきか。走り出すには、何が必要なんだろう――。)
次第に夜は深くなり、外では小さな風が吹き始めた。石上は静かに目を閉じ、夢の中でエンジンの轟音を聞くのだった。

1970年代、石上の兄が出場していたのは、ニッサンサニーのカテゴリーのレースだった。
兄はアマチュアながら地元では有名な存在で、その精悍な走りは多くの若者たちの憧れだった。
倉田や石上も例外ではなく、特に倉田は「石上の兄貴みたいなレーサーになりたい」といつも口にしていた。
ある日曜日、石上の兄が富士スピードウェイで行われる地方レースに出場するという話を聞いた倉田は、いてもたってもいられなくなった。
「石上、お前の兄貴のピットとか見られないのか?」
「え? いや、ピットなんて俺たちみたいな外野が入れるわけないだろ。」 石上は首を横に振った。
「いや、そこを何とかならないか? 一生に一度でいいから、あのサーキットの裏側ってやつを見てみたいんだ!」
倉田の熱意に押されて、石上は渋々兄に頼んでみることにした。
幸運にも、兄は「ピットには入れないけど、クルーの控室くらいなら連れて行ってやるよ」と言ってくれた。
こうして二人は、レース当日に富士スピードウェイへ向かうことになった。
サーキットに到着すると、耳をつんざくエンジン音と焼けるオイルの匂いが二人を出迎えた。
コースには色とりどりのレーシングカーが並び、観客席からは熱狂的な声援が飛んでいる。
「これが本物のレースか…!」 倉田は目を輝かせながら呟いた。
石上の兄に案内され、二人はピットエリア近くの控室に入ることができた。
控室は狭い空間ながら、工具やスペアパーツが所狭しと並んでおり、そこだけでプロフェッショナルな雰囲気を漂わせていた。
「まあ、ここで大人しくしてろよ。絶対に邪魔するなよ。」 兄が念を押してピットに戻っていくと、二人は控室の隅からその様子を窺い始めた。
ピットの中はまるで戦場のようだった。
クルーたちは各々の役割を完璧にこなし、無駄のない動きで作業を進めていく。
タイヤ交換に、燃料補給、エンジンの調整――どれもが秒単位、いや0.1秒を削り取るようなスピード感で進んでいた。
倉田が驚きの声を上げた。「すげぇな、これ…! まるで別の世界じゃないか。」
石上も圧倒されていた。「兄貴、あのクルーたちと一緒にやってるんだな…。
俺、今まで兄貴が一人で走ってるだけだと思ってたけど、あれだけの人たちが支えてくれてるんだ。」
その時、突然ピット内で声が飛び交った。「ドライバー、戻るぞ! タイヤ交換準備!」
目の前をレーシングカーが滑り込むように入ってきた。
クルーたちは一瞬の迷いもなく作業に取り掛かる。
ジャッキアップ、タイヤ交換、燃料補給――わずか20秒ほどで車は再びコースに飛び出していった。
その一連の動きに、倉田も石上も言葉を失った。
「これが、兄貴の世界か…。」 石上が呟いた。
倉田は興奮したように言った。
「なあ、石上。これ見ちまったら、俺たちも何かやらないとダメだろ? こんなにカッコいい世界があるなんて知らなかった。
俺たちも何かのクルーになれないかな?」
「そうだな。でも、俺たちがこんな世界に入れるのかな。」 石上は不安そうだったが、その目にはどこか決意の色が宿っていた。
その日の帰り道、夕陽を背にして二人は自転車を漕ぎながら話した。
「お前の兄貴、本当にすげぇな。」 倉田が言った。「俺もいつか、ああいう世界で働きたい。」
石上は笑った。「俺もさ。兄貴にはまだまだ追いつけそうにないけど、今日のことは一生忘れられないよ。」
0.1秒の世界――それは、二人にとって日常では味わえない熱気と緊張感に満ちた特別な空間だった。
この体験が、二人の未来に何か大きな影響を与えることになるのかもしれない。そんな予感を胸に、彼らは家路を急いだ。

石上と倉田がサーキットを訪れてから一週間後、ガソリンスタンドの作業場で兄は石上に話しかけた。
「あの日、富士で何を感じた?」
エンジンオイルを交換している最中だった石上は、手を止めて兄を見上げた。
「兄貴が走らせてたサニーのことなんだけど…あれ、すごかったよ。
コーナーの切り方も、ストレートの伸び方も、他のメーカーの車とは明らかに違って見えた」
兄は満足そうに頷いた。「そうなんだ。実はな、俺たちレーサーの間では『技術のニッサン』って呼ばれてるんだよ。
ただのキャッチフレーズじゃない。本物なんだ」
石上は興味深そうに兄の言葉に耳を傾けた。
「例えばサニーのエンジンルームを見てみろ」と兄は続けた。
「パーツの配置が絶妙なんだ。メンテナンスのしやすさを考えて設計されている。
耐久性も抜群で、レース中のトラブルが極めて少ない」
「それって、すごいことなんじゃないの?」
「ああ。ニッサンの車は基本に忠実なんだ。速く走る、安全に曲がる、確実に止まる――この三つを完璧にこなすように設計されている。レースでそれが如実に現れる」
その週末、倉田が石上の家に来た時、二人は作業場の隅でその話を続けた。
「へえ、そんな技術力があるんだ。じゃあ、街中でもニッサンの車ばっかり走ってるはずじゃん?」
石上は首を傾げた。「でも、実際はそうでもないよな」
「ああ」と声が響いた。兄が作業場に入ってきていた。「それが今のニッサンが抱える最大の矛盾なんだ」
兄は壁に寄りかかりながら話し始めた。
「技術力は確かにある。それは間違いない。
でも、市場での競争となると別の話になる。
人々が車に求めるものは、必ずしも技術的な完成度だけじゃないんだ」
「どういうこと?」と倉田が聞いた。
「デザイン、快適性、そして何より価格だな。競合他社は消費者の心をつかむ戦略を展開している。
一方、ニッサンは技術にこだわるあまり、そういった要素をおろそかにしてきた部分があるんだ」
石上は考え込むように言った。
「確かに、最近はトヨタやホンダの車をよく見かけるようになった」
「ああ。市場シェアを見ても、ニッサンは年々苦戦を強いられている。
技術者たちの誇りと、実際の商業的成功の間にある溝が広がっているんだ」
作業場の窓から差し込む夕陽が、床に置かれた工具の影を長く伸ばしていた。
「でもさ」と倉田が口を開いた。「レースで勝てるってことは、その技術力は本物なわけでしょ?」
兄は苦笑いを浮かべた。「皮肉なものだよ。サーキットではニッサン車が圧倒的な強さを見せる。
設計思想の正しさは、タイムという数字が証明している。でも、それが直接的な販売につながらない」
石上はオイルで汚れた手を拭きながら言った。「なんか、もったいないよな」
「ああ。今のニッサンを見ていると、まるで二つの顔を持っているようだ。
サーキットでの輝かしい姿と、市場での苦戦。その差が年々広がっているように感じる」
倉田が突然立ち上がった。
「でも、それって変えられるんじゃないですか?技術力があるってわかってるんだから!」
兄は少し驚いたような表情を見せた後、優しく微笑んだ。
「その通りだ。ただ、企業として変革するのは簡単じゃない。
長年築き上げてきた文化や、意思決定の方法を変えるのは、大きな車の向きを変えるより難しいかもしれない」
石上は黙って兄の言葉に聞き入っていた。技術の素晴らしさと、それを活かしきれない現実。
その矛盾に、どこか自分自身の姿を重ねているようだった。
「でもな」と兄は続けた。「俺はサーキットを走り続ける。
ニッサンの本当の力を、走りを通じて伝えていきたいんだ。
いつか必ず、この技術力は正当に評価される時が来る」
夕暮れが深まり、作業場の明かりが一層鮮やかに感じられた。
「兄貴」と石上が呼びかけた。「俺も、そういう世界に関わってみたいな」
「ああ」と兄は頷いた。
「技術を理解し、その価値を伝えられる人間が必要とされている。お前たちなら、きっとできる」
その夜、家に帰る途中の石上と倉田は、いつもより長く空を見上げていた。
技術の追求と市場の現実。その狭間で揺れ動くニッサンの姿は、彼らの将来の選択にも何かしらの示唆を与えているようだった。
まだ若かった二人には、その全てを理解することはできない。
しかし、技術の持つ本質的な価値と、それを世に伝えることの難しさを、かすかに感じ取っていた。
そして彼らは、いつか自分たちなりの答えを見つけられることを信じていた。夜風が優しく二人の背中を押していた。

その日の夜遅く、石上は兄の部屋を訪ねた。週末のレースの準備をしていた兄は、デスクの上に広げられた走行データから目を上げた。
「どうした?まだ起きてたのか」
「兄貴、スカイラインGT-Rってどんな車なの?」
石上の質問に、兄の目が輝きを帯びた。
「ああ、あれは伝説だな。市販車の限界を超えた存在だ」
兄は引き出しから古い雑誌を取り出した。表紙には漆黒のR32 GT-Rが、夕陽を背に佇む姿が映っている。
「この車はな、市販車でありながら、本気のレーシングカーと互角に戦える化け物なんだ。
RB26DETTという心臓を持って、ATTESAという四輪駆動システムを搭載している。単なるスペックの高さじゃない。技術の結晶なんだ」
「でも、市販車でレースに出て勝てるの?」
「1990年、オーストラリアのバサーストでの話を知ってるか?」兄は懐かしそうに語り始めた。
「GT-Rは市販車ベースのグループAマシンとして参戦した。
対するのは、本気で勝ちにきた各国のメーカーだ。
結果はどうだったと思う?」
石上は首を傾げた。
「圧勝さ。それも3年連続で。あまりに速すぎて『ゴジラ』というニックネームまでついた。
オーストラリアの新聞は『日本から来た怪物』って書き立てた」
兄は続けた。「当時のニッサンは、市販車の開発にレース部門の技術を惜しみなく投入していた。
GT-Rはその集大成だった。エンジンルームを開けると、まるでレーシングカーのような美しさだ。
配管一つ、ボルト一つに至るまで、技術者たちの執念が詰まっている」
石上は雑誌のページを一枚一枚めくった。そこには様々なレースシーンが収められていた。
サーキットを駆け抜けるGT-R、表彰台の上で笑顔を見せるドライバーたち、そして誇らしげな表情のエンジニアたち。
「でもな」と兄は少し表情を曇らせた。「栄光は永遠じゃない」
「どういうこと?」
「あれから30年以上が経った。GT-Rを作り上げた技術者たちの多くは会社を去り、若い世代は違う価値観を持っている。
マーケットも変わった。環境規制は厳しくなり、電気自動車の時代が迫っている」
窓の外では、街灯が静かに明滅していた。
「技術の追求か、それとも市場のニーズか。その選択を迫られたとき、多くの企業は後者を選んだ。
ニッサンも例外ではない。GT-Rのような、技術者の夢と情熱の結晶を作る余裕は、もはやないのかもしれない」
「それって、寂しいよね」石上が呟いた。
「ああ。でもな、これが企業の宿命なんだ。栄枯盛衰は避けられない。
GT-Rが一世を風靡した時代、技術者たちは自分たちの理想を追い求めることができた。
その時代が終わりを迎えようとしている今、私たちにできることは、その精神を次の世代に伝えることだけかもしれない」
兄は立ち上がり、窓際に歩み寄った。外では、時折車のヘッドライトが通り過ぎていく。

『技術に終わりはない。限界を決めるのは人間の想像力だけだ。GT-Rはその証明だった。不可能を可能にした車だった』


石上は黙って兄の言葉に聞き入った。
「今、自動車業界は大きな転換期を迎えている。電動化、自動運転、車のサブスクリプション化。
全てが急速に変化している。その中で、かつてのような技術への純粋な追求は、もはや時代遅れなのかもしれない」
「でも、技術の本質は変わらないんじゃないの?」石上が問いかけた。
兄は微笑んだ。「その通りだ。形は変われど、技術者の魂は受け継がれていく。
GT-Rは確かにその時代の最高峰だった。
しかし、これからの時代には新しい『最高峰』が必要とされる。
それを作り出すのは、お前たちの世代かもしれない」
深夜の静けさの中、二人は長く語り合った。
スカイラインGT-Rという伝説の車が体現した技術の粋、そしてその時代の終焉。
それは単なる一台の車の物語ではなく、技術の追求と市場の現実との間で揺れ動いた、一つの時代の記録でもあった。
翌朝、石上は早くに目を覚ました。作業場に向かう途中、ふと空を見上げる。
昨夜の会話が頭の中で反芻される。技術の素晴らしさと、それを活かしきれない現実。
その狭間で、自分は何を選択すべきなのか。
答えはまだ見つからない。しかし、GT-Rが切り開いた道は、確かにそこにある。
それは技術者たちの夢と情熱が形となった証だった。そして今、新しい時代の幕開けを前に、若い世代には新たな挑戦が待っている。
その手の中に、未来への確かな希望を感じながら。
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