本当の価値を知る夜

小川敦人

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夢の中で出会った温かなNPOの世界。目覚めた隆介は、菜緒子の言葉を胸に、自らの価値と向き合い、一歩を踏み出そうと決意する。

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    本当の価値を知る夜

夜、いつものベッドに横たわると、自然と涙がこぼれた。菜緒子の笑顔が、彼女の痛みを隠すためのものだと気づいたからだ。
止めどなく溢れる涙に、隆介は困惑する。
どうしてこんなに苦しいのか、自分でもわからなかった。
布団をかぶり、目を閉じる。
菜緒子の声が頭の中にこだまする。

「昔ね、もう一度ね、頑張ろうと思って、いろいろ挑戦してことがあるのよ」
隆介は、その当時のことを断片的には聞いていた。
「ダブルワークもした。そして、それが私の運命と思ってた。だから、その時から、楽しむことを封印したの」
その言葉の重みが胸に突き刺さる。
自分も同じような経験をしていたからこそ、菜緒子の言葉の裏にある痛みがわかる。
昼は自営、夜はコンビニでのアルバイト。体力的にも精神的にも限界だった日々。
休む暇もなく、ただひたすら働き続けた時間。
「何のために生きているんだろう」と考えた夜も幾度となくあった。
菜緒子も同じ思いを抱えていたのだろう。それなのに、いつも明るく振る舞っていた。
その強さの裏には、どれほどの孤独があったのだろう。
隆介は布団の中で体を丸める。暗闇の中で、これまで気づかなかった感情が次々と押し寄せてくる。
菜緒子の何気ない仕草や言葉の端々に隠されていた疲れや諦めそして、本物の強さ。
それらが今になって、はっきりと見えてくる。
「今は、もう大丈夫よ」と言った彼女の声が、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
隆介は、これまで自分が如何に彼女の心の奥底まで理解していなかったかを痛感する。
枕に顔を埋めながら、隆介は決意を固める。表面的な会話だけでなく、その奥にある本当の想いを受け止めよう。
そして何より、彼女が一人で抱え込まないように、自分の経験も含めて、もっと深く分かち合おう。
涙は、いつしか止まっていた。いつのまにか深い眠りに落ちた。

「菜緒子さん、行政への申請書の確認をお願いします」
事務所の空気が、穏やかに流れている。窓から差し込む柔らかな日差しが、デスクに積まれた書類を照らしていた。
観葉植物の葉が、そよ風に静かに揺れている。
「わかりました、今は手がふさがっているからデスクにおいて下さい」
「月末が締切なので、慌てなくいいですよ」
菜緒子の声は、いつもと変わらず優しい。
キッチンからは和夫の入れた珈琲の香りが漂ってた。
電話が鳴る。
「はい、『NPO dream's』です、ご相談ですね。係りの者と変わります」
受話器を取ったのは、美香だった。
彼女は以前、大手企業でバリバリと働いていたが、過労で倒れた経験から、今は自分のペースを大切にしている。
「お電話変わりました。渚健一と申します」
彼の声には不思議な落ち着きがあった。相談者の話に耳を傾けながら、時折メモを取る姿は頼もしい。
健一は、かつて人間関係で悩んだ過去を、今は相談者との共感に活かしていた。
「はい、お気持ちはよくわかります。一緒に解決策を考えていきましょう」
隣では美香が助成金の申請書を作成している。
彼女の几帳面な性格は、細かな書類作業に最適だった。
時々、窓の外を見ては小さく微笑む。
かつての激務の日々が、嘘のように遠くなっていた。
和夫も加わり、新しい支援プログラムについて話し合っている。元教師の和夫は、不登校の子どもたちと向き合う中で燃え尽きた経験があった。
今は、その経験を活かしながら、ゆっくりと確実に支援の輪を広げている。
「和夫さん、この新しい就労支援プログラム、どう思います?」
「うん、いいね。利用者さんの強みを活かせる内容になってる。みんなが自分らしく働ける場所を作りたいんだ」
小さなNPOの事務所には、温かな空気が満ちていた。
お互いの過去の痛みを知っているからこそ、誰もが相手のペースを尊重し、できることを少しずつ積み重ねていく。
昼食時には、菜緒子の手作りのおにぎりを囲んで、穏やかな時間が流れる。
隆介はその光景を静かに見つめていた。誰もが抱えていた傷が、ここでは優しさに変わっていた。
健一は電話を切ると、深いため息をついた。
「母さん、この相談者の方すごく悩んでいるみたい。でも、きっと道は開けると思うんだよ。僕たちみたいに」
菜緒子は息子を誇らしげに見つめ、優しく頷いた。
彼女の瞳には、かつての苦労を乗り越えた強さと、新しい希望が宿っていた。
「そうね、健一。あなたならきっと、その人の気持ちに寄り添えると思う」

突然、目覚まし時計の音が鳴り響いた。
隆介は目を開けた。NPOの事務所も、健一も、美香も和夫も、すべては夢の中の出来事だった。
しかし、胸の中には確かな温もりが残っていた。
…ゆめ?…
隆介はまばたきを数回繰り返しながら、天井を見上げた。
しばらくの間、夢の余韻に浸りながら、現実と夢の境界が曖昧なまま動けずにいた。
しかし、目覚まし時計の無機質な電子音が、それを無情にも断ち切る。
静まり返った部屋。陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいるが、外の世界の温かさとは裏腹に、部屋の中には冷えた空気が満ちていた。
「夢、だったのか…」
呟く声が、自分の部屋に寂しく響いた。
隆介は起き上がり、机の上の書類の山を見つめた。どれも期限が迫っているが、手をつける気力が湧かない。
仕事も人間関係も、何もかもが重くのしかかる。
現実には、あのNPOのような温かい空気も、支え合う仲間もいない。
ただ一人、どうしようもない孤独と向き合うしかなかった。
ふと、スマホの画面を確認すると、未読のメッセージがいくつかあった。
仕事関係の催促や、上司からの指示。どれも返す気になれない。
それでも、無理やり体を動かし、冷え切ったコーヒーをすすった。
苦味が口の中に広がる。ぼんやりとした頭の中で、夢の中の菜緒子の姿を思い出す。
彼女はただ優しいだけではなかった。現実の苦しみを知り、それでも家族を支えようとする意志の強さがあった。
それに比べて、自分はどうだろうか。
仕事に追われ、日々のストレスに押し潰され、何かを変えようとする気概すらなくしていた。
自分の弱さを知っているのに、それを見ないふりをしていた。
責任を逃れるために、環境のせいにし、他人の優しさに甘えてばかりいた。
「…俺はずるいな」
独り言が、乾いた部屋の空気に溶けた。
ふと、夢の中のNPOの事務所での光景を思い出した。
あの夢の中では、誰もが過去に傷を負いながら、それでも前に進もうとしていた。
弱さを受け入れ、それを力に変えようとしていた。
それができるのなら、自分にも何かできるのではないか。いや、そうしなければならないのではないか。
隆介はスマホを手に取り、メッセージを一つずつ開き、返信を始めた。
無機質な画面の向こうにいる相手を想像しながら、短くても丁寧に言葉を紡ぐ。
少しずつでいい。今はまだ、自分に何ができるのか分からない。
でも、ただ逃げるのではなく、何かを変えていきたい。
コーヒーの残りを飲み干し、隆介はカーテンを開けた。
外の光が部屋を照らし、冷たい空気に少しだけ温もりが混ざった気がした。
まだ希望が見えるわけではない。それでも、前に進むための一歩を踏み出す。
それが、今の自分にできることなのかもしれない。
昨日の夢の続きのように脳裏に言葉が次々と浮かぶ

『価値のない人間はいない、そう言うけれど、私たちは、産まれたときから、人から比べられ見えない境界線を引かれて、あちらと、こちらに分けられる。
誰かが決めた価値観の中で私達は、値踏みされ価値のないものとなる。
もし誰もが価値のある人間ならば、粗末に扱われる人間がいていいわけがない。
見下されていい人なんているはずがないんだ。
そもそも誰にとっても価値のある人間であろうとするなんて、無理があるんだ。
価値観は人それぞれなんだから。
たまたま今、あなたの周りにあなたの価値が分からない人がいるだけなのかもしれない。
あなたが駄目なんかじゃない、あなたに価値がないわけじゃない。
あなたの価値に気が付かない人にたまたま出会っただけ。
自分に価値があるかどうかなんて、考えても答えが出ないことは、考えなくても大丈夫だ。
確実に言えることは、誰かにとって尊いあなたが粗末に扱われたり見下されていいはずがないと言うこと。
それはあなた自身にもいえることだ、あなたは自分を粗末にしていない?自分を見下していない?』

この言葉を胸に、隆介はもう一度深く考え始めた。
夢の中の菜緒子からのメッセージのように感じられるその言葉は、彼の心に染み渡っていく。
これまで自分を責め続け、価値がないと思い込んでいた日々。
でも、その考え方自体が間違っていたのかもしれない。
誰かと比べて自分の価値を決めつける必要なんてなかったのだ。
スマートフォンの画面に映る自分の送信したメッセージを見つめ直す。
たった数行の文章だけれど、そこには確かに自分なりの誠実さがあった。
それは小さな一歩かもしれないが、意味のないことではない。
窓から差し込む朝日が、机の上の書類を優しく照らしている。
昨日までは重荷にしか感じなかったそれらの書類も、今は少し違って見える。
一つ一つの書類の向こうには、必要としている誰かがいるのかもしれない。
「そうか...」と隆介は小さくつぶやいた。
夢の中のNPOのように、すぐには理想的な環境は作れないかもしれない。
でも、今の自分にできることから始められる。自分を粗末に扱うのをやめることから。
頭の中に浮かんだ言葉は、まるで菜緒子が隆介に向けて語りかけているかのようだった。
自分の痛みを抱えながらも他者の苦しみに寄り添い続けてきた彼女だからこそ、その言葉には重みがあった。
表面的な優しさではなく、深い苦しみを経て得た本質的な強さが、その一言一言に染み込んでいる。
その声は優しく、でも力強い。それは慰めのための言葉ではなく、自身の経験を通して見出した、生きていく上での確かな真実のように感じられた。
苦しみの中でも人としての尊厳を失わず、むしろそれを他者への理解へと昇華させてきた菜緒子だからこそ、語れる言葉なのかもしれない。
朝日の中で、隆介は深くため息をつく。それは重たい息ではなく、何かが晴れていくような、清々しい息だった。
目の前の現実は何も変わっていない。しかし、その現実を見つめる自分の目は、確実に変わり始めていた。
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