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38歳でトライアスロンに挑み、72歳で人生を振り返る男性の喜怒哀楽と未来への希望を描いたエッセイ。
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『鉄人から本の虫へ:人生の折り返し点』
## 佐渡トライアスロンの記憶
1990年(平成2年)9月2日、佐渡島は熱気に包まれていた。この年から9月第1日曜日の開催となった「'90トライアスロン・ジャパンカップ・イン佐渡」に、全国から1,395名のアスリートが集まったのだ。私も、その中の一人だった。
当時38歳。「鉄人会」というチーム名で参加していた。チームには28名の正会員が登録されていた。市役所に勤務していた山下が発起人で、私がこの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのも彼の誘いだった。
「泳ぎを教えてほしい」
当時、市民プールでボランティアとして水泳のコーチをしていた私に、山下はそう声をかけてきた。それが縁で、私自身が競技者として数々のレースに参加することになるとは、その時は思いもしなかった。
## 数字で綴る青春
フルマラソンのタイムは3時間12分程度。スイムは1500mを20分くらいで泳いでいた。バイクが一番苦手な種目で、いつも順位を落とす原因になっていた。それでも、河口湖フルマラソンには12回も出場した。
数字を並べると簡単だが、その裏には無数の汗と涙がある。朝早くから走り込み、仕事の後には泳ぎ込み、休日には仲間とサイクリングコースを駆け抜ける。そんな日々が、気がつけば何年も続いていた。
振り返れば、あの頃の私は休日にほとんど家にいなかった。レースに出場しているか、仲間と練習会を行っているか。それでも、家内や子供たちと一緒に海やスキーに行った写真が残っている。子供たちは私の姿を見て何を思っていたのだろうか。
## 凄い男の歌
「あんたが一番、私は二番」
当時、よくカラオケで歌っていたのはビールのコマーシャルソングだった「凄い男の歌」。この歌詞が妙に気に入っていた。いつも全力で、いつも勝ちにこだわる。でも、家族の前では二番でいい。そんな複雑な気持ちがこの一節に詰まっていたのかもしれない。
仲間との練習の後、喉を潤すビールの味は格別だった。「次は絶対にお前に負けないからな」と笑い合い、また明日からの練習に励む約束をする。その繰り返しが、私にとってのかけがえのない日常だった。
## スポーツ万能の日々
平日は仲間と体育館でバドミントンや卓球。休日はマラソン、スキー、小型ヨット(ディンギー)、ゴルフ、テニス。思い返せば、あきれるほどアクティブな生活を送っていた。
「あいつは何でもやるな」と周囲からは言われていた。確かに、手当たり次第にスポーツに手を出していたように思う。それは、単に体を動かすことが好きだったからだ。体を動かすと心が整理される感覚があった。日々の仕事のストレスも、家庭の小さな悩みも、汗と共に流れ出ていくような気がしていた。
特にトライアスロンは特別だった。スイム、バイク、ランという三種目を一人でこなすことに、ある種の充実感を覚えた。弱点を克服し、強みを伸ばす。その繰り返しが、私を成長させてくれた。
## 佐渡の海と風
佐渡のレースは特に思い出深い。佐渡トライアスロンは4kmのスイム、190kmのバイク、42.195kmのランという過酷な距離設定だった。アイアンマンと呼ばれるに相応しい、タフなコースである。島の美しい自然の中を駆け抜けるコースは、厳しさの中にも癒しがあった。朝日を浴びながら海に飛び込み、島の風を切って自転車を走らせ、地元の人々の応援を受けながら走る。
初めて出場した時のことは今でも鮮明に覚えている。最後の最後まで諦めず、ついにフィニッシュラインを越えた瞬間の喜びは、人生の中で経験したことのない感覚だった。思わず自然と涙があふれてきた。それは達成感や解放感だけではなく、自分自身の可能性を確かめられた証でもあったのだろう。あの時の感動は、72歳の今でも色褪せることなく心に残っている。
レース中の苦しさはあったが、フィニッシュラインを越えた瞬間の達成感は何物にも代えがたかった。
1990年から1995年まで、「トライアスロン・ジャパンカップ・イン佐渡」は毎年開催され、私もできる限り参加した。最後の年である'95大会には1,421名が参加したという記録が残っている。私にとって、佐渡は第二の故郷のような場所になっていった。
## 家族との時間
そんな私を、家族は常に支えてくれていた。特に妻は、私の趣味に対して驚くほど理解があった。
「あなたが輝いている姿を見るのが好きだから」
そう言ってくれる妻の言葉に、私はいつも勇気づけられた。子供たちも父親のレースを見に来てくれることがあった。そんな時の彼らの目は誇らしげで、それが私の何よりの原動力になっていた。
家族との海水浴やスキー旅行も大切にした。スポーツに明け暮れる日々の中でも、家族と過ごす時間は特別だった。子供たちが雪の上で転んだり、波に飲まれそうになったりするたびに手を差し伸べる。そんな何気ない瞬間の積み重ねが、今では愛おしい記憶として残っている。
## 人生の転機
しかし、人生はいつも直線的に進むわけではない。
気がつけば私は50代半ばになっていた。事業の失敗が大きな転機となった。それまで当然のように続けていたスポーツ活動が、徐々に減っていった。経済的な余裕がなくなったこともあるが、それ以上に心の余裕がなくなったのかもしれない。
長年連れ添った妻が病に倒れたのも、その頃だった。彼女の看病に明け暮れる日々の中で、私のスポーツ活動は自然と途絶えていった。かつての仲間たちとの交流も疎遠になり、「鉄人会」の集まりにも顔を出さなくなった。
そして、子供たちは独立し、家を出ていった。彼らには彼らの人生がある。それは喜ばしいことだが、同時に寂しさも感じた。
## 本の世界への没頭
不思議なことに、スポーツから遠ざかった代わりに、私は読書に没頭するようになった。それまでほとんど本を読まなかった私が、毎日のように本屋に通うようになった。時間があれば本を開き、物語の世界に浸る。そんな日々が、いつの間にか新しい日常になっていた。
歴史小説、推理小説、哲学書、伝記。ジャンルを問わず、興味の赴くままに読み進めた。かつてスポーツに情熱を注いだように、今は読書に情熱を注いでいる。体を動かすことから、心を動かすことへ。そんな変化が、いつの間にか起きていた。
## 妻の最期
妻の病状は徐々に悪化していった。彼女との最後の日々は、辛いながらも私たちにとってかけがえのない時間だった。
「あなたはいつも一番よ」
弱々しい声でそう言った彼女の言葉に、私は涙が止まらなかった。かつて「あんたが一番、私は二番」と歌っていた自分が恥ずかしかった。本当は彼女が常に一番だった。そのことに気づくのに、あまりにも時間がかかってしまった。
妻の葬儀の日、かつての「鉄人会」のメンバーたちが大勢駆けつけてくれた。中には遠方から来てくれた者もいた。彼らの存在に、私は言葉にならない感謝の気持ちでいっぱいになった。
## 72歳の今
そして現在、私は72歳になった。人生を振り返ると、前半はスポーツに明け暮れる毎日だった。あきれるほどアクティブだった日々。そして後半は、ばったりとスポーツとは縁のない生活になった。読書が趣味になり、インドア生活になった。
なぜそうなったのかは、自分でもはっきりとはわからない。事業の失敗が一因かもしれないし、経済的な余裕がなくなったせいかもしれない。妻の死や子供たちの独立も大きな転機だった。
でも、今思えば、それも人生の自然な流れだったのかもしれない。若い頃はエネルギーを外に向け、年を重ねるにつれて内側に向けるようになる。そんな変化は、多くの人に共通するものなのかもしれない。
## これからの人生
この先の人生がどんな展開になるのか。正直なところ、怖くもあり、楽しみでもある。
子供たちはたまに訪ねてきてくれる。彼らには彼らの家族ができ、忙しい日々を送っている。孫たちの成長を見るのは何よりの喜びだ。彼らに囲まれる時間は、私にとって最も幸せな瞬間となっている。
かつての「鉄人会」のメンバーとも、時々連絡を取り合っている。みな年を取り、現役を引退したが、当時の思い出話に花を咲かせると、若かった頃の気持ちがよみがえってくる。
最近は、図書館で読書会に参加するようになった。そこで出会った人々との交流が、新たな刺激となっている。スポーツを通じた人間関係とは異なる形の繋がりが、今の私には心地よい。
## 過去と未来
かつて走り抜けた佐渡の海岸線。汗を流した河口湖のコース。仲間と笑い合った練習場。そんな場所を思い出すと、今でも胸が熱くなる。あの頃の私は、確かに「凄い男」だったのかもしれない。少なくとも、そう思いたい自分がいる。
でも、今の私もまた別の形で「凄い男」なのかもしれない。スポーツ万能から本の虫へ。外向的な生活から内省的な日々へ。そんな変化を受け入れ、新たな自分を発見する旅を続けている男。それもまた、「凄い」ことなのではないだろうか。
## 老いと向き合う
体力の衰えは避けられない。階段を上るのがきつくなり、長時間の歩行も負担になってきた。かつてトライアスロンをこなした体が、こんなにも変わってしまうものかと驚くこともある。
それでも、私は今の自分の体を大切にしている。無理はせず、でも可能な範囲で体を動かすことは続けている。朝の散歩や、簡単なストレッチは日課だ。かつてのようなハードなトレーニングはもうできないが、ゆっくりと体を動かすことの心地よさを再発見している。
## 残された時間
人生の残り時間を考えることもある。統計的に見れば、あと10年、長くても15年だろうか。その限られた時間をどう過ごすか。それは私に残された最後の課題かもしれない。
欲張りすぎず、でも諦めすぎず。日々の小さな喜びを大切にしながら、でも時には新しい挑戦も。そんなバランスを取りながら生きていきたい。
## 完走を目指して
トライアスロンでは、記録を競うよりも楽しく完走することが何よりの目標だった。人生も同じかもしれない。立派な成績を残すことよりも、自分のペースで最後まで走り切ることが大切なのだろう。
かつて佐渡の海に飛び込み、島を駆け抜けた日々。その記憶は今も私の中に生きている。あの頃の熱い思いを胸に、人生という最後のレースを完走したい。
フィニッシュラインの向こうには何があるのだろう。それはまだ誰にもわからない。ただ、そこに向かって走り続けることが、今の私にできる唯一のことだ。
怖くもあり、楽しみでもある。この矛盾した感情を抱きながら、私は今日も一歩ずつ前に進んでいる。
## 佐渡トライアスロンの記憶
1990年(平成2年)9月2日、佐渡島は熱気に包まれていた。この年から9月第1日曜日の開催となった「'90トライアスロン・ジャパンカップ・イン佐渡」に、全国から1,395名のアスリートが集まったのだ。私も、その中の一人だった。
当時38歳。「鉄人会」というチーム名で参加していた。チームには28名の正会員が登録されていた。市役所に勤務していた山下が発起人で、私がこの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのも彼の誘いだった。
「泳ぎを教えてほしい」
当時、市民プールでボランティアとして水泳のコーチをしていた私に、山下はそう声をかけてきた。それが縁で、私自身が競技者として数々のレースに参加することになるとは、その時は思いもしなかった。
## 数字で綴る青春
フルマラソンのタイムは3時間12分程度。スイムは1500mを20分くらいで泳いでいた。バイクが一番苦手な種目で、いつも順位を落とす原因になっていた。それでも、河口湖フルマラソンには12回も出場した。
数字を並べると簡単だが、その裏には無数の汗と涙がある。朝早くから走り込み、仕事の後には泳ぎ込み、休日には仲間とサイクリングコースを駆け抜ける。そんな日々が、気がつけば何年も続いていた。
振り返れば、あの頃の私は休日にほとんど家にいなかった。レースに出場しているか、仲間と練習会を行っているか。それでも、家内や子供たちと一緒に海やスキーに行った写真が残っている。子供たちは私の姿を見て何を思っていたのだろうか。
## 凄い男の歌
「あんたが一番、私は二番」
当時、よくカラオケで歌っていたのはビールのコマーシャルソングだった「凄い男の歌」。この歌詞が妙に気に入っていた。いつも全力で、いつも勝ちにこだわる。でも、家族の前では二番でいい。そんな複雑な気持ちがこの一節に詰まっていたのかもしれない。
仲間との練習の後、喉を潤すビールの味は格別だった。「次は絶対にお前に負けないからな」と笑い合い、また明日からの練習に励む約束をする。その繰り返しが、私にとってのかけがえのない日常だった。
## スポーツ万能の日々
平日は仲間と体育館でバドミントンや卓球。休日はマラソン、スキー、小型ヨット(ディンギー)、ゴルフ、テニス。思い返せば、あきれるほどアクティブな生活を送っていた。
「あいつは何でもやるな」と周囲からは言われていた。確かに、手当たり次第にスポーツに手を出していたように思う。それは、単に体を動かすことが好きだったからだ。体を動かすと心が整理される感覚があった。日々の仕事のストレスも、家庭の小さな悩みも、汗と共に流れ出ていくような気がしていた。
特にトライアスロンは特別だった。スイム、バイク、ランという三種目を一人でこなすことに、ある種の充実感を覚えた。弱点を克服し、強みを伸ばす。その繰り返しが、私を成長させてくれた。
## 佐渡の海と風
佐渡のレースは特に思い出深い。佐渡トライアスロンは4kmのスイム、190kmのバイク、42.195kmのランという過酷な距離設定だった。アイアンマンと呼ばれるに相応しい、タフなコースである。島の美しい自然の中を駆け抜けるコースは、厳しさの中にも癒しがあった。朝日を浴びながら海に飛び込み、島の風を切って自転車を走らせ、地元の人々の応援を受けながら走る。
初めて出場した時のことは今でも鮮明に覚えている。最後の最後まで諦めず、ついにフィニッシュラインを越えた瞬間の喜びは、人生の中で経験したことのない感覚だった。思わず自然と涙があふれてきた。それは達成感や解放感だけではなく、自分自身の可能性を確かめられた証でもあったのだろう。あの時の感動は、72歳の今でも色褪せることなく心に残っている。
レース中の苦しさはあったが、フィニッシュラインを越えた瞬間の達成感は何物にも代えがたかった。
1990年から1995年まで、「トライアスロン・ジャパンカップ・イン佐渡」は毎年開催され、私もできる限り参加した。最後の年である'95大会には1,421名が参加したという記録が残っている。私にとって、佐渡は第二の故郷のような場所になっていった。
## 家族との時間
そんな私を、家族は常に支えてくれていた。特に妻は、私の趣味に対して驚くほど理解があった。
「あなたが輝いている姿を見るのが好きだから」
そう言ってくれる妻の言葉に、私はいつも勇気づけられた。子供たちも父親のレースを見に来てくれることがあった。そんな時の彼らの目は誇らしげで、それが私の何よりの原動力になっていた。
家族との海水浴やスキー旅行も大切にした。スポーツに明け暮れる日々の中でも、家族と過ごす時間は特別だった。子供たちが雪の上で転んだり、波に飲まれそうになったりするたびに手を差し伸べる。そんな何気ない瞬間の積み重ねが、今では愛おしい記憶として残っている。
## 人生の転機
しかし、人生はいつも直線的に進むわけではない。
気がつけば私は50代半ばになっていた。事業の失敗が大きな転機となった。それまで当然のように続けていたスポーツ活動が、徐々に減っていった。経済的な余裕がなくなったこともあるが、それ以上に心の余裕がなくなったのかもしれない。
長年連れ添った妻が病に倒れたのも、その頃だった。彼女の看病に明け暮れる日々の中で、私のスポーツ活動は自然と途絶えていった。かつての仲間たちとの交流も疎遠になり、「鉄人会」の集まりにも顔を出さなくなった。
そして、子供たちは独立し、家を出ていった。彼らには彼らの人生がある。それは喜ばしいことだが、同時に寂しさも感じた。
## 本の世界への没頭
不思議なことに、スポーツから遠ざかった代わりに、私は読書に没頭するようになった。それまでほとんど本を読まなかった私が、毎日のように本屋に通うようになった。時間があれば本を開き、物語の世界に浸る。そんな日々が、いつの間にか新しい日常になっていた。
歴史小説、推理小説、哲学書、伝記。ジャンルを問わず、興味の赴くままに読み進めた。かつてスポーツに情熱を注いだように、今は読書に情熱を注いでいる。体を動かすことから、心を動かすことへ。そんな変化が、いつの間にか起きていた。
## 妻の最期
妻の病状は徐々に悪化していった。彼女との最後の日々は、辛いながらも私たちにとってかけがえのない時間だった。
「あなたはいつも一番よ」
弱々しい声でそう言った彼女の言葉に、私は涙が止まらなかった。かつて「あんたが一番、私は二番」と歌っていた自分が恥ずかしかった。本当は彼女が常に一番だった。そのことに気づくのに、あまりにも時間がかかってしまった。
妻の葬儀の日、かつての「鉄人会」のメンバーたちが大勢駆けつけてくれた。中には遠方から来てくれた者もいた。彼らの存在に、私は言葉にならない感謝の気持ちでいっぱいになった。
## 72歳の今
そして現在、私は72歳になった。人生を振り返ると、前半はスポーツに明け暮れる毎日だった。あきれるほどアクティブだった日々。そして後半は、ばったりとスポーツとは縁のない生活になった。読書が趣味になり、インドア生活になった。
なぜそうなったのかは、自分でもはっきりとはわからない。事業の失敗が一因かもしれないし、経済的な余裕がなくなったせいかもしれない。妻の死や子供たちの独立も大きな転機だった。
でも、今思えば、それも人生の自然な流れだったのかもしれない。若い頃はエネルギーを外に向け、年を重ねるにつれて内側に向けるようになる。そんな変化は、多くの人に共通するものなのかもしれない。
## これからの人生
この先の人生がどんな展開になるのか。正直なところ、怖くもあり、楽しみでもある。
子供たちはたまに訪ねてきてくれる。彼らには彼らの家族ができ、忙しい日々を送っている。孫たちの成長を見るのは何よりの喜びだ。彼らに囲まれる時間は、私にとって最も幸せな瞬間となっている。
かつての「鉄人会」のメンバーとも、時々連絡を取り合っている。みな年を取り、現役を引退したが、当時の思い出話に花を咲かせると、若かった頃の気持ちがよみがえってくる。
最近は、図書館で読書会に参加するようになった。そこで出会った人々との交流が、新たな刺激となっている。スポーツを通じた人間関係とは異なる形の繋がりが、今の私には心地よい。
## 過去と未来
かつて走り抜けた佐渡の海岸線。汗を流した河口湖のコース。仲間と笑い合った練習場。そんな場所を思い出すと、今でも胸が熱くなる。あの頃の私は、確かに「凄い男」だったのかもしれない。少なくとも、そう思いたい自分がいる。
でも、今の私もまた別の形で「凄い男」なのかもしれない。スポーツ万能から本の虫へ。外向的な生活から内省的な日々へ。そんな変化を受け入れ、新たな自分を発見する旅を続けている男。それもまた、「凄い」ことなのではないだろうか。
## 老いと向き合う
体力の衰えは避けられない。階段を上るのがきつくなり、長時間の歩行も負担になってきた。かつてトライアスロンをこなした体が、こんなにも変わってしまうものかと驚くこともある。
それでも、私は今の自分の体を大切にしている。無理はせず、でも可能な範囲で体を動かすことは続けている。朝の散歩や、簡単なストレッチは日課だ。かつてのようなハードなトレーニングはもうできないが、ゆっくりと体を動かすことの心地よさを再発見している。
## 残された時間
人生の残り時間を考えることもある。統計的に見れば、あと10年、長くても15年だろうか。その限られた時間をどう過ごすか。それは私に残された最後の課題かもしれない。
欲張りすぎず、でも諦めすぎず。日々の小さな喜びを大切にしながら、でも時には新しい挑戦も。そんなバランスを取りながら生きていきたい。
## 完走を目指して
トライアスロンでは、記録を競うよりも楽しく完走することが何よりの目標だった。人生も同じかもしれない。立派な成績を残すことよりも、自分のペースで最後まで走り切ることが大切なのだろう。
かつて佐渡の海に飛び込み、島を駆け抜けた日々。その記憶は今も私の中に生きている。あの頃の熱い思いを胸に、人生という最後のレースを完走したい。
フィニッシュラインの向こうには何があるのだろう。それはまだ誰にもわからない。ただ、そこに向かって走り続けることが、今の私にできる唯一のことだ。
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