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第一話 削除しますか?
しおりを挟むアカウントを削除。
その一文をタップする寸前、一瞬手が止まった。
惨めにも、ネットに縋ろうとする自分に嫌気がする。
ネットが無ければ、自分には何もないことを実感してため息が漏れた。
消そうと思ってDMやリプを読み返してしまうのは、もう何度目だろう。
一番上は直近までやり取りしてた、一番古くからの友人、海夢だ。
読み方はわからないから、結局勝手にカイムと呼んでいた。
アカウント名も@Sea_dreamだから、間違いはないだろうけど。
海夢から数週間前に届いた『大丈夫?』の一言には、何も返せてない。
すうっとスクロールする。
ずらりと同じアイコンが並んでいて、読み返したことを後悔した。
『湊音くんの声大好きです、婚姻届はどこに出せばいいですか』
『逃げないでくださいよ』
『女フォロワー弄んで最低』
吐き気がするメッセージが、目に入って衝動的にスマホを放り投げる。
スマホが落ちたのを確認すれば、隣の部屋から怒鳴り声で壁をどつく音が聞こえた。
「うっさい!」
心臓がバクバクと音を立てて、激しく脈打つ。
スマホをそろりっと拾い上げれば、また海夢からDMが来ている。
『無理しないでね』
ごめん、ごめん。
俺にはもう無理だ。
あの日から、世界が全部モノクロになったみたいで、生きた心地がしない。
呼吸だけを、浅くヒューヒューと繰り返す。
アカウント削除を押せば、少しだけ、気持ちはマシになった。
それと同時に、海夢と二度とやりとりが出来ないことに、悲しさが募った。
スマホの音で機嫌を損ねてしまったのだろう。
母が「あらあらどうしたのー」と姉に掛けてる声が、微かに聞こえる。
布団に潜り込んで、息を潜めても、俺の部屋の壁を叩く音は止まない。
母はまた「しょうがないわねぇ」と言ってるんだろうか。
布団からそっと抜け出して、スマホをズボンのポケットにむりやりねじ込む。
近くにあった財布をカバンに放り込んで、窓から家を飛び出した。
自分の自転車に跨って、夜の街に繰り出す。
俺以外、この世に存在しないみたいな静寂に包まれていた。
厨二病みたいな感想を鼻で笑って、足を動かす。
この街が、嫌いじゃなかった。
高い建物はないし、市内だって遠い。
不便ばかりが目には付くが、十分も自転車を漕げば海に着ける。
それだけで、この街を好きになるには十分だった。
小声で歌を口ずさみながら、夜道を進む。
時折、街灯にジジッと虫がぶつかる音だけが聞こえる。
どこに向かうかは決めていなかったが、習慣のせいか、気づけば高校の前に着いていた。
真っ暗な校舎は、ホラーが始まりそうな雰囲気で怖いのでパス。
歌っていたせいか、絶え間なく続く吐き気のせいか、喉がカラカラに乾いていた。
近くの水族館まで自転車を飛ばして、自販機にたどり着く。
適当にパインサイダーを買って、自転車もそのまま海へ向かう。
ざぷん。
ザザザァ。
静かな夜の中に、海の波の音だけが響いている。
防波堤の先に足を投げ出して、腰掛けた。
海は、モノクロでも濃淡だけで美しく見える。
夜に見ると、空と海の境界がぼやけて、ますますどこまでが海からわからなくなった。
吸い込まれてしまいそうになって、慌てて体を起こす。
手に持っていたサイダーを思い出して、蓋を開けた。
プシュっ、と軽快な音が鳴る。
パシャン。
不意に海から何かが、顔を出してこちらを見ていた。
背中に寒気が走って、恐怖に足が震える。
ヒィッと情けない声を出しそうになって、ぐっと息を飲み込む。
全身が沸騰したように、バクバクと脈打ってる。
逃げなきゃと立ち上がり掛けたところで、ソレと目が合う。
パッと目を逸らして、立ち上がってから、もう一度振り返った。
女の子……じゃなかったか?
ぱちんっと視線があったかと思えば、その子は逃げるように潜ろうとする。
「待って待って、邪魔してごめん。すぐ帰るから」
声をかければ、ぴたりと止まる。
二人の間には、沈黙だけが、てん、てん、てんと続いた。
帰ると言った手前、すぐに立ち去った方が良いのはわかってる。
なのに、女の子から目が離せない。
「いいよ、別に、見られちゃったならしょうがないから」
女の子は、海藻のようにツヤツヤと濡れた髪の毛を、手でぎゅうっと絞るように水を切る。
そして、腕に巻いていた髪ゴムで、ポニーテールにした。
「上がっておいでよ」
気づけば、そんなら誘いをしていた。
女の子は、うーんっと一瞬躊躇った表情をしてから、ゆっくりと近づいてくる。
少しずつ、少しずつ、近づいてくるたびに、ヒレが見えた。
ヒレ……?
パシャっと雫を跳ね上げるのは、確かに、サカナのヒレのようなもの。
キラキラと星を反射して、輝いて見える。
「えっ? え?」
近づくたびに、変な悲鳴をあげそうになった。
まさか、こんな夜中に、え?
頭が真っ白になって、ただ、え、とだけ呟く。
女の子は俺の様子を気にしていないようで、防波堤の階段を飛び跳ねるように上がってくる。
ぺたん、ぺたんと叩きつけるような独特な音と共に。
「あー、サイダー!」
俺の手元のサイダーを見つけて、指さして、またぺたんぺたんと、鳴らしながら近づいてくる。
足は、ない。
正確に言えば、足があるはずの場所は、ヒレになってる。
人魚が存在する……
高校生にもなってアホなことを言ってると、他の人には受け取られるだろう。
でも、どこからどう見ても、彼女は人魚の形をしていた。
「こっちの人ってほんと、パインサイダー好きだよねぇ」
ふざけたように笑って彼女は、俺の隣に座る。
防波堤の先に、ヒレを投げ出したまま。
至近距離で見れば、それが魚のものとは違い人工物なことがわかる。
彼女は、じろじろと見ていた俺の手から、パインサイダーを奪い取ってごくごくと飲み始めた。
「ぷっはぁ! やっぱ泳いでると喉乾くのよね」
「人魚の格好して、なにやってんの?」
「格好してじゃなくて、人魚」
「いやいや、嘘だろ」
即座に否定すれば、ヒレをビタンビタンと防波堤に打ち付ける。
あまりにも自然すぎる姿に、信じてしまいそうだった。
でも、スパンコールも、きらきらと反射する小さい石も明らかに人工物だ。
魚のことなら、普通の人より詳しいことを自負している。
目標があって決めたわけではないけど、これでも水産学校の生徒だ。
それに、父は漁師だから、小さい頃から魚には触れてきた。
何万匹という魚を見てきた俺が、人工物と、見間違えるわけがない。
「あー信じてないな?」
「信じるも信じないも、そもそも、こんな時間に人魚が泳いでいてたまるか!」
「じゃあ、昼に泳げって? 捕まえられちゃうじゃん」
いやん、と言いながら、肩を抱きしめる。
薄暗くてもわかった。
確実に、俺をバカにした表情をしてる。
だから、女は嫌いなんだ。
自分勝手で、相手を見下して、バカにする。
ツンっと顔を背けて、この場から逃げようと立ち上がる。
関わった俺がバカだった。
「ごめんごめん、怒んないで! サイダーも勝手に飲んでごめんなさい、行かないで!」
俺の足をぎゅっと掴んで、人魚は顔を上げる。
必死に謝る仕草は、そういうアピールかと思ったが、本当に困ったように眉毛をハの字にしていた。
ぴたりと、止まって横にしゃがみ込む。
「なに?」
「タオルとか、小さいのでも良い! 持ってない?」
「はい?」
俺の前で両手を「あったら貸して! お願い!」と、擦り合わせている。
人魚設定は、もうどうでも良いらしい。
「水着でそのまま来ちゃったから、帰るに帰れなくて」
人魚の言葉に、ポカンとすれば、恥ずかしそうに「えへへ」と頭を掻いた。
「えへへ、じゃなくて、はい?」
「だから、さすがに濡れたまま帰るのは嫌で……」
真剣に困った顔をするから、ぷっと笑い出す。
久しぶりに、声を出して笑った気がする。
お腹を抱えて笑えば、拗ねたように人魚は目を逸らす。
リュックを開けて、大きめのタオルを取り出して渡せば、嬉しそうに頬を緩ませた。
タオルで体を拭きながら、人魚は俺を見上げる。
「ありがとう! 助かる。今度会った時、お礼するよ」
「お礼はいいよ、名前は?」
「マリン!」
「マリンね、覚えた」
夏だというのに、少し肌寒い風が体に吹き付ける。
マリンの格好を見れば、いくらタオルで拭いても、夜風に晒されたら冷えてしまうだろう。
リュックから予備のウィンドブレーカーを取り出して、ポンっと投げる。
「わっ」
驚きながらもうまくキャッチして、広げて確認し始めた。
ヒレをモゾモゾさせながら、こちらに顔を向けた。
「これは」
「さすがにその格好だと寒いだろ、使って」
「やさしー! あ、名前、私は聞いてない! なんていうの?」
「ソウ」
「ソウくんね、覚えた! 発音的には、見たのSawと一緒だね」
独特な例えに、愛想笑いをする。
マリンは気にせず、俺にニシシと笑位返した。
そして、ウィンドブレーカーを纏う。
「あったかぁーい!」
嬉しそうな声をあげて、すりすりと頬擦りしてる。
ウィンドブレーカーを着た人魚というチグハグに、ふっと笑い声が出た。
「下は大丈夫なわけ?」
ヒレを指して聞けば、ビタンビタンと防波堤にまた打ちつけ始める。
「大丈夫って何が?」
「いや、帰るのに」
「これで帰るよ?」
人魚設定はまだ継続してたらしい。
問いただすのも変だから「あっそ」と小さく、答えた。
置いて帰ろうと、振り返って水族館の方を向く。
マリンは俺の動向を気にもせずに、話を続けた。
「人魚、初めて見たの?」
しょうがなく振り返れば、防波堤の上で、ごろんっと横になってるウィンドブレーカーを着た人魚。
脳みそキャパオーバーな情報量に、はぁっとため息を吐き出す。
――変な女の子。
「生まれてこの方、見たことないな」
「やったぁ、じゃあソウの初めての人魚は私だ!」
「大体、みんな見たことねーよ」
ついツッコめば、マリンはポニーテールにした髪の毛を揺らして、ドヤ顔をする。
「可愛いでしょ、人魚」
そして、浜辺に打ち上げられたトドのように、バタバタとヒレを動かした。
トドと言ったら、烈火の如く怒ることは簡単に想像できる。
だから、こくこくと黙って頷く。
「思ってないな!」
「まぁ、普通の女の子だなって感じ」
こんな薄暗い中では顔はほとんどわからないし、かろうじて分かる範囲は、ヒレがついてることくらいだ。
マリンは、「もう」っとわざとらしく口にして、腰に手を当てる。
「もっと、優しくしてよ!」
「ウィンドブレーカーも貸したし、タオルもあげた。サイダーもあげたけど?」
「たしかにー! 優しくしてもらってた!」
今気づいたと言わんばかりの、声色だ。
本当に不思議な女の子。
立ってるのも疲れてきたから、マリンと少しだけ距離を開けて座り込む。
まだまだ、話は続きそうだった。
「ソウくんはこんな時間に、どうして海に来たの? ここらへん、家だってすぐはないよね」
「人魚なのに街のことに詳しいことで」
「それくらい知ってるよ、人魚って海の情報通なんだよ」
本当かどうかは、置いておく。
人魚設定をあくまで、通し続けるつもりらしい。
あえて否定するのも面倒で「あーはいはい」と流す。
「それで、なんでここにいたの?」
「姉ちゃんの機嫌悪くて」
「お姉さん?」
「大学受験に失敗してから家でいっつも機嫌悪いわけ。だから邪魔しないように、プチ家出中」
姉は、この街が嫌いだった。
俺と違って、どうしてもこの街を出たいと親に懇願して、他の県の大学を受験した。
親は「女の子なんだから」とか「お姉ちゃんはずっと家に居ていいのよ」と、見当違いな説得をしていたけど。
結局、受験勉強は俺のせいで捗らず、不合格。
姉曰く、だけど。
俺が居るせいで気が散るらしい。
家に居場所がない、とは言いたくなかった。
ただの厨二病みたいに聞こえるから。
それでも、俺の言葉を噛み締めるように、マリンは答える。
「夜の海は静かで、いいもんね……」
意味深な物言いに、マリンの横顔を見つめる。
月に照らされて、うっすら見えた目はクリクリとしていて可愛く見えた。
どきんっと跳ねた心臓を押さえて、普通のフリをする。
「マリンは?」
「人魚のどこも、夏休みでさ。ある人を探しに来たの」
「ふーん?」
「興味なさそう返事だなぁ、もう」
ある人を探しに来たの。
そう呟いた表情は、恋する乙女そのものだった。
薄暗いから頬や耳の色はわからない。
けど、きっと薄紅色に染まってるだろう。
簡単に、想像ができた。
「人魚姫みたいだな」
御伽話の、王子様に恋をして陸に上がった哀れな人魚姫。
最後は、王子様との恋が叶わず、海の泡となって消えていく。
そんな儚さも、マリンは持ち合わせていた。
「人魚姫だったら、よかったのにね」
「意味深じゃん」
「私、めっちゃ音痴なの!」
恥ずかしそうに顔を両手で押さえて、首を横に振る。
いちいち大袈裟な反応に、くくっと笑うのを堪えきれない。
「だから、声を代償に足は貰えないんだよねぇ。どうしよう」
「どうしようって、対価は絶対必要なのかよ」
「必要じゃない場合もあるか」
「交渉次第だろ、そんなの」
人魚姫は、声があれば、王子に自分が助けたと言えたのに。
無知だから、それを捨て去った。
「ソウくんって不思議な考え方するね」
「マリンほどじゃないけどな」
夜中の海で、人魚の真似事をするほどではない。
きっぱりと言い切れば、にししとまた笑って「たしかにそうかも」と小さく答えた。
ちょっと、純粋すぎるマリンに、心配が募る。
決して、気になってるとか、そういうのではなくて、放って置けないだけ。
「一人で帰れんの?」
いくら、人魚とは言え一人で、この夜道を返すのは忍びない。
マリンの返答を待たずに「送っていこうか」と言いかけた。
「うん、大丈夫。ソウくんはもう帰る?」
「そろそろ帰るかな、寒くなってきたし」
潮風に当たり続けたせいか、体がひんやりと冷えていた。
ぶるりと震わせて答えれば、マリンはもう引き止めない。
「たまぁにでいいから、夜に海来てね。私も多分居るから、一ヶ月くらい」
「期間限定かよ」
「言ったでしょ、人魚もこの時期は夏休みなの」
そう言えばそんなことを言ってたな、と思う。
俺の学校はまだ、夏休みには入ってないけど。
あと数日で、夏休みなことには変わりない。
マリンと約束をしなくても、どうせまた夜の海には来る。
姉の機嫌から逃れられる場所は、限られているから。
「来るよ」
そう答えれば、マリンは細い小指を俺に向けて差し出した。
あまりにも人間らしい仕草に、また設定忘れてるぞと言いたくなる。
それでも、小指を絡めて「約束だ」と、返した。
マリンに会えば、何にもないこの世界が、ほんのわずかだけでも楽しくなる気がする。
応援ありがとうございます!
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