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承安3年(1173年)

保元の乱と讃岐配流 

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 保元元年(1156年)7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。

これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられます。

 この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西であったとされます。

 この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したため、忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなったのです。

 7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入ったのです、この時には重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のもので、崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われます。

 翌10日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結するのですが、上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じたのです。

 天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」として武士を動員しました。

 11日未明、後白河天皇方が崇徳院方の白河北殿へ夜襲をかけました。

 白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらました。

 このとき、為朝らが状況打開のためには夜討しかないと進言したが、頼長は一言のもとに退けた。頼長は学問があったために実戦に馴れた武士との間が円滑にいかなかったことも、崇徳院方の敗因の一つとなったのです。

 頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実に対面を拒絶され、やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去しました。

忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかったのでしょう。

 逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するのですが、しかし覚性法親王はその申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれたのです。

 崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降しました、このとき上皇方の中心人物とみなされた教長は厳しい尋問を受け、「新院の御在所に於いて軍兵を整へ儲け、国家を危め奉らんと欲する子細、実により弁じ申せ」と自白を強要されたといいます。

 敗残の武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(くすこのへん)を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首されました。

 死刑の復活には疑問の声も上がったのですが、法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかったのです。

 貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。

 ただ一人逃亡していた弓の名手である為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられ、その武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたがそこでも大暴れをしたと言われています。

 こうして後白河天皇方は崇徳上皇などの反対派の排除に成功したのですが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、武力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなり、慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じています。

 保元、元年(1156年) 7月23日、崇徳上皇は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へと配流されました。

 天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だったのです。

 崇徳上皇は罪人とされて讃岐の直島という田も畠もない無人島同然の島に流され、日々写経三昧の生活を送ることになってしまいました。

 門は鎖でつながれ、人の出入りも許されず、わずかな数の女房が身の回りの世話をする寂しい暮らしであったといいます。

 崇徳上皇は深く仏教に帰依しながらもそのあまりの寂しさや自分の現在の境遇を思い、毎日嘆き暮らしていました。

 その様子を哀れに思った讃岐の国司らが取りはからって、やがて直島から志度の鼓の岡というところに御所を移されます。

 しかしそれでも、崇徳上皇の嘆きが収まることはありませんでした。

 毎日胸が裂けるように我が身を嘆き、京の都のことを思う崇徳上皇はある日「五部大乗経」という経本を書写して、今は亡き鳥羽法皇の御陵に奉納することを思いつきます。

 鳥羽法皇は実の父ではないという噂があったにせよ、公式には亡き父であることは確かです。

 その父の御陵に「五部大乗経」の写本を奉納すれば、もしかしたら誰かが自分の恩赦を取りはからって京の都に戻れるかも知れない。

 崇徳上皇はそう考えて写経に取りかかります。一説には、自分の小指を噛みちぎって、その血で写経を行ったという話もあります。

 保元の乱の死者への供養と自らの反省の気持ちも含め、崇徳上皇はこの五部大乗経を完成させ朝廷へと送りますが、後白河天皇の側近の信西はこの経本には呪詛が込められているのではないかと疑い、突き返してしまうのです。

 この仕打ちに崇徳上皇は激しく怒りました。

「この経を魔道に回向す」と血で書き込みさらには「彼の科(とが)を救はんと思ふ莫太の行業を、併三悪道に投こみ、其力を以て、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」と、舌を噛み切って流れ出た血を墨に混ぜて送り返された五部大乗経に書いたと言われています。

 その姿も、髪に櫛を通すことなく、爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったといいます。

 そして生霊として平治の乱を引き起こし、その後、1164年に崇徳上皇は46歳で讃岐の地に亡くなります。

 後白河天皇はその死を無視し、葬儀は讃岐の国司らの手で行われ朝廷は関与しませんでした。

 崇徳上皇は亡くなって後も罪人とされていたのです。
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