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承安3年(1173年)
西行法師と崇徳院の怨念
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さてこの時代の名高き人の中のひとりに西行法師が居ます。
彼は武士であり僧侶であり高名な歌人でもあり鳥羽院や崇徳院とも関係が深い方です。
彼は本名を佐藤義清()といい、祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(皇室の警護兵)とな、20歳の時に御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいました。
西行と清盛との付き合いがどの程度だったかはわからりませんが、西行が出家して高野山にいた時に、清盛に手紙を書いて、願いを聞いてもらっているので、彼は時の最高権力者、清盛とも直に話ができる間柄だったようです。
また、この時の天皇は崇徳院で、西行より2歳年下でした。
この頃の天皇家の皇位継承に関してのゴタゴタはすでに語ったとおりですが、佐藤義清は、上皇・天皇の傍ですべてをみており、そして彼ら父と子のその行く末をすべて予見していたのかもしれません。
北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価されたのです。
また、武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬」の達人であり、さらには「蹴鞠」の名手でもあった
。「北面」の採用には容姿も重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられています。
義清は、馬や弓矢の武芸はもちろん、詩歌・管絃の道にも優れた才能をもっており、和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にもひけをとらないほどであったとされ、また、彼の母方の祖父に源清経なる人物がいて、彼は今様の名手で、蹴鞠にも長じていた彼は、武術・詩歌・管絃・今様・蹴鞠の道に通じた天才であったようですね。
そんな彼は、御殿勤めの女性たちには大変にもてたようです。
鳥羽上皇にもその才能をみとめられ、なぜか中宮待賢門院璋子の覚えもめでたかった。
早くから歌の才能が評価されたものだともいわれている。
下級武士の西行がなぜ、待賢門院璋子に接することができたのか、崇徳天皇とも親しくつきあうことができたのか。
義清の田仲庄は徳大寺家の知行地で、義清も当初は徳大寺家の家人として仕えていた。
その関係で徳大寺(藤原)実能の妹、待賢門院璋子とも彼女に仕える女房たちとも浅からぬ縁があったようなのです。
武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえており、文武両道で美形という彼は、華やかな未来は約束されていたのです
しかし、西行は「北面」を捨て、1140年、22歳の若さで出家します
。
さて、西行の出家後、鳥羽上皇は崇徳天皇を譲位させ、美福門院得子の幼児体仁を近衛天皇として天皇の位につけたのもすでに語りましたが、このことは、崇徳天皇が上皇になって院政をしき、 待賢門院璋子も安泰の日を送ることができるものと考えていた西行にも、衝撃的なできごとだったようです。
崇徳天皇は和歌を愛し、文化振興にも理解が深く、和歌を通して西行とも関係をもっていてました。
西行は、鳥羽上皇の北面武士として鳥羽上皇とは直接の主従関係にあったのですが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らについています。
鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからと、待賢門院璋子はあこがれの人だったからだろうとはおもいます。
そして保元の乱で崇徳院は破れます。
この頃、西行は高野山で修行していましたが、いち早く仁和寺の崇徳院のもとに駆け付けました。
そして讃岐院の崩御の四年後西行は讃岐に渡ります。
ちなみに西行は死者の骨と反魂の法を用いて「人造人間を作った」という記述があるのです。
西行は友人の西住上人と一緒にいたのですが、やがて彼は『用事が出来たから』と、都へ帰って行ってしまいました。
さみしくなった西行は、花や月の情趣をともにする相手がほしいものだと、鬼が人骨を取り集めて人を作るように、人間を作ろうと思い立ちそのとおりに、野原に出て拾った骨を並べ連ねて造ったのです。
しかしそれは、人の姿に似てはいても、見た目が悪く、まるで人間らしさがなかった。
結局 西行は、それを高野の奥の人も通わないところまで連れて行って捨てたそうです。
酷い話ではありますね。
そして西行は1168年に四国へ来てから、1177年に伊勢二見浦へ移住するまでの9年間、四国に滞在していたはずです、西行庵は吉原の山里にあり崇徳院の鎮魂をいまだ行っているはずです。
彼は『よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん』(かつては天皇の身分とて、死後は誰もが平等ではありませんか。どうか安らかにお眠り下さい)との歌を送っています。
白峰の崇徳院陵墓にはすでにお参りを済ませたとはいえ、西行はそんな簡単なことで院の鎮魂ができたとは思っていないでしょう。
まずは彼とお話をしてみたいと思った私は西行庵を目指します。
火上山にむかう小さな山道を上っていくと、西行庵はありました。
その庵は竹藪の中にひっそりと建っており、庵の直ぐ下に出ると遠くに白峯御陵のある五色台の山々や、瀬戸内海を見渡すことができるようになっています。
私は庵に近づくと中へ声を掛けました。
「失礼いたします、西行法師は御在宅でしょうか?」
私に声に中より男の人が出てきて言いました。
「うむ、このような山の中に人が訪ねてくるとは珍しい。
私が西行だがそちらはどなたかな?」
若いころはかなりの美形であったという西行は50を過ぎ顔には皺が刻まれています。
「私は信濃権守中原中三兼遠が娘の巴と申します」
「ふむ、信濃からはるばる讃岐までやってくるとはのう。
して用向きはいかなるものかな?」
彼の言葉に私は真剣な表情で答えました。
「はい、貴狐天王のお言葉に従い参りました」
私の言葉に西行は驚いていました。
「な、なんとそのようなことが……とはいえ、思い当たる節はある」
彼はしばらく考えた後、言いました。
「讃岐院にはあなた一人でお逢いするほうがよろしかろう。
供の物はその間私とともにここで待っているようにお伝えくだされ」
私はうなずきました。
「はい、ありがとうございます。
ところで一つお聞きしたいことがあるのですが」
西行は首を傾げ
「どのようなことですかな?」
と聞き返してきました。
「はい、あなたが死者の骨を集め反魂の法を用いて蘇らせようとしたお方のことです」
私のその言葉を聞くと彼はさっと顔を青ざめさせました。
「どこでそのようなことをお聞きなさった?」
「人づてにでございます。
あなたが蘇らせようととしたのは長年友誼がありともに旅をしていた西住上人ではありませんか?
それでなければ待賢門院様でありましょうか?」
かれはフルフルと頭を振り
「若さゆえの過ちとは恐ろしいものだ、確かに私は反魂法に手を染めたことがある。
だが名を明かすことはできぬ」
「なるほど、名を明かすことができぬ方であったということですね」
「……讃岐院はそういったこともわかっているのであろうか?」
「おそらくはそうかと、作られた人型を高野山の山奥に捨てたと聞きませれば
よき思いはされないでしょう」
「そうであったな……」
「誰であれ過ちは犯すものです、しかし、犯した過ちは正されなければなりません」
「う、うむ……そうだな」
彼は東へ向かって経を唱え始めました。
「願わくば、かのものの魂に安息のあらんことを」
私も手を合わせ祈りを捧げます。
これで気がかりとなることの一つは対処できたかと思います。
やがて、日が沈んだところで私は白峯御陵へと向かいました。
しかし、途中に通りがかった生前に上皇が住まわれていた「雲井の御所」や崩御される迄過ごされた「鼓ヶ岡行在所」を訪ね歩きますが既に跡形もなくなっており、白峰の御陵も荒れ果てていたのです。
「これでは讃岐院がお怒りになるのもわかりますね」
やがて私が陵の墓所の前にたどり着くと地の底より響くような声が聞こえてまいりました。
『朕の墓所に立ち入りし、汝はなにものぞ』
私は平伏して答えます。
「は、私は信濃権守中原中三兼遠が三女にて巴ともうします」
そう答えた私の前にぼおっと人の姿が現れました。
『おお、我が願いを聞きやってきたか。
皇を取って民とし民を皇となさん日ももはや近い。
ククククク……フハハハハハハハハー!』
と哄笑をあげたのです。
「は、確かにその日は近づいているように愚考いたします。
しかしながら、讃岐院の願うことは、京の都への帰還ではございませぬでしょうか?」
『う、うむ、そのとおりである。
だが後白河と清盛がいる限り朕は京の都へ戻ることはかなわぬであろう』
「はい、その代わりと申しては何でございますが五部大乗経をお預かりし、鳥羽院様や白河院様、待賢門院様の陵に収めること可能かもしれません。
もちろんすぐとは参りませんが」
『ふむ、まずは母上の墓所に収めてくれれば他は後でもよいぞ』
「かしこまりました。
陵は法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵でございましたね」
『うむ、朕は期待しておるぞ』
「は、西行殿にもご助力いただき、必ずや陵へと納めさせていただきます」
『うむ、では、朕の呪力を五部大乗経を通してそなたに分け与えようぞ。
それぞれ呪術炎火、呪術風雷、呪術氷水、呪術泥土、呪術鋭金の力を込める故、うまく用いるがよい、これがあれば天候を操ることも可能だ』
「は、ははぁ、ありがたき次第でございます」
えーと、とんでもないものをもらう事になったのは私の気のせいではないでしょう。
満足したらしい讃岐院の姿が薄れていきます。
『早く母上と会いたいものよな……』
そして、陵は沈黙に包まれたのです、私の手の中には血で呪詛の文が書かれた経典が残されていました。
私は西行庵へと戻り、その日は休むことにいたしました。
「しかしまあ、どうしますかね、これ」
貴狐天王が出てきて私に答えました。
『まずは、あやつの願いをかなえられるだけは、かなえてやるが好かろう』
「そうですね、それで今後が変わるのかどうかはわかりませんが……」
母に会いたいというささやかな願いくらいは叶えて差し上げたいものです。
彼は武士であり僧侶であり高名な歌人でもあり鳥羽院や崇徳院とも関係が深い方です。
彼は本名を佐藤義清()といい、祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(皇室の警護兵)とな、20歳の時に御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいました。
西行と清盛との付き合いがどの程度だったかはわからりませんが、西行が出家して高野山にいた時に、清盛に手紙を書いて、願いを聞いてもらっているので、彼は時の最高権力者、清盛とも直に話ができる間柄だったようです。
また、この時の天皇は崇徳院で、西行より2歳年下でした。
この頃の天皇家の皇位継承に関してのゴタゴタはすでに語ったとおりですが、佐藤義清は、上皇・天皇の傍ですべてをみており、そして彼ら父と子のその行く末をすべて予見していたのかもしれません。
北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価されたのです。
また、武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬」の達人であり、さらには「蹴鞠」の名手でもあった
。「北面」の採用には容姿も重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられています。
義清は、馬や弓矢の武芸はもちろん、詩歌・管絃の道にも優れた才能をもっており、和歌の道にかけては、業平や貫之などの古の歌仙にもひけをとらないほどであったとされ、また、彼の母方の祖父に源清経なる人物がいて、彼は今様の名手で、蹴鞠にも長じていた彼は、武術・詩歌・管絃・今様・蹴鞠の道に通じた天才であったようですね。
そんな彼は、御殿勤めの女性たちには大変にもてたようです。
鳥羽上皇にもその才能をみとめられ、なぜか中宮待賢門院璋子の覚えもめでたかった。
早くから歌の才能が評価されたものだともいわれている。
下級武士の西行がなぜ、待賢門院璋子に接することができたのか、崇徳天皇とも親しくつきあうことができたのか。
義清の田仲庄は徳大寺家の知行地で、義清も当初は徳大寺家の家人として仕えていた。
その関係で徳大寺(藤原)実能の妹、待賢門院璋子とも彼女に仕える女房たちとも浅からぬ縁があったようなのです。
武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえており、文武両道で美形という彼は、華やかな未来は約束されていたのです
しかし、西行は「北面」を捨て、1140年、22歳の若さで出家します
。
さて、西行の出家後、鳥羽上皇は崇徳天皇を譲位させ、美福門院得子の幼児体仁を近衛天皇として天皇の位につけたのもすでに語りましたが、このことは、崇徳天皇が上皇になって院政をしき、 待賢門院璋子も安泰の日を送ることができるものと考えていた西行にも、衝撃的なできごとだったようです。
崇徳天皇は和歌を愛し、文化振興にも理解が深く、和歌を通して西行とも関係をもっていてました。
西行は、鳥羽上皇の北面武士として鳥羽上皇とは直接の主従関係にあったのですが、出家後は、むしろ崇徳天皇や待賢門院璋子らについています。
鳥羽上皇の崇徳天皇・璋子への嫌がらせや徹底して排除していこうとするやり方に、嫌悪を感じたからと、待賢門院璋子はあこがれの人だったからだろうとはおもいます。
そして保元の乱で崇徳院は破れます。
この頃、西行は高野山で修行していましたが、いち早く仁和寺の崇徳院のもとに駆け付けました。
そして讃岐院の崩御の四年後西行は讃岐に渡ります。
ちなみに西行は死者の骨と反魂の法を用いて「人造人間を作った」という記述があるのです。
西行は友人の西住上人と一緒にいたのですが、やがて彼は『用事が出来たから』と、都へ帰って行ってしまいました。
さみしくなった西行は、花や月の情趣をともにする相手がほしいものだと、鬼が人骨を取り集めて人を作るように、人間を作ろうと思い立ちそのとおりに、野原に出て拾った骨を並べ連ねて造ったのです。
しかしそれは、人の姿に似てはいても、見た目が悪く、まるで人間らしさがなかった。
結局 西行は、それを高野の奥の人も通わないところまで連れて行って捨てたそうです。
酷い話ではありますね。
そして西行は1168年に四国へ来てから、1177年に伊勢二見浦へ移住するまでの9年間、四国に滞在していたはずです、西行庵は吉原の山里にあり崇徳院の鎮魂をいまだ行っているはずです。
彼は『よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん』(かつては天皇の身分とて、死後は誰もが平等ではありませんか。どうか安らかにお眠り下さい)との歌を送っています。
白峰の崇徳院陵墓にはすでにお参りを済ませたとはいえ、西行はそんな簡単なことで院の鎮魂ができたとは思っていないでしょう。
まずは彼とお話をしてみたいと思った私は西行庵を目指します。
火上山にむかう小さな山道を上っていくと、西行庵はありました。
その庵は竹藪の中にひっそりと建っており、庵の直ぐ下に出ると遠くに白峯御陵のある五色台の山々や、瀬戸内海を見渡すことができるようになっています。
私は庵に近づくと中へ声を掛けました。
「失礼いたします、西行法師は御在宅でしょうか?」
私に声に中より男の人が出てきて言いました。
「うむ、このような山の中に人が訪ねてくるとは珍しい。
私が西行だがそちらはどなたかな?」
若いころはかなりの美形であったという西行は50を過ぎ顔には皺が刻まれています。
「私は信濃権守中原中三兼遠が娘の巴と申します」
「ふむ、信濃からはるばる讃岐までやってくるとはのう。
して用向きはいかなるものかな?」
彼の言葉に私は真剣な表情で答えました。
「はい、貴狐天王のお言葉に従い参りました」
私の言葉に西行は驚いていました。
「な、なんとそのようなことが……とはいえ、思い当たる節はある」
彼はしばらく考えた後、言いました。
「讃岐院にはあなた一人でお逢いするほうがよろしかろう。
供の物はその間私とともにここで待っているようにお伝えくだされ」
私はうなずきました。
「はい、ありがとうございます。
ところで一つお聞きしたいことがあるのですが」
西行は首を傾げ
「どのようなことですかな?」
と聞き返してきました。
「はい、あなたが死者の骨を集め反魂の法を用いて蘇らせようとしたお方のことです」
私のその言葉を聞くと彼はさっと顔を青ざめさせました。
「どこでそのようなことをお聞きなさった?」
「人づてにでございます。
あなたが蘇らせようととしたのは長年友誼がありともに旅をしていた西住上人ではありませんか?
それでなければ待賢門院様でありましょうか?」
かれはフルフルと頭を振り
「若さゆえの過ちとは恐ろしいものだ、確かに私は反魂法に手を染めたことがある。
だが名を明かすことはできぬ」
「なるほど、名を明かすことができぬ方であったということですね」
「……讃岐院はそういったこともわかっているのであろうか?」
「おそらくはそうかと、作られた人型を高野山の山奥に捨てたと聞きませれば
よき思いはされないでしょう」
「そうであったな……」
「誰であれ過ちは犯すものです、しかし、犯した過ちは正されなければなりません」
「う、うむ……そうだな」
彼は東へ向かって経を唱え始めました。
「願わくば、かのものの魂に安息のあらんことを」
私も手を合わせ祈りを捧げます。
これで気がかりとなることの一つは対処できたかと思います。
やがて、日が沈んだところで私は白峯御陵へと向かいました。
しかし、途中に通りがかった生前に上皇が住まわれていた「雲井の御所」や崩御される迄過ごされた「鼓ヶ岡行在所」を訪ね歩きますが既に跡形もなくなっており、白峰の御陵も荒れ果てていたのです。
「これでは讃岐院がお怒りになるのもわかりますね」
やがて私が陵の墓所の前にたどり着くと地の底より響くような声が聞こえてまいりました。
『朕の墓所に立ち入りし、汝はなにものぞ』
私は平伏して答えます。
「は、私は信濃権守中原中三兼遠が三女にて巴ともうします」
そう答えた私の前にぼおっと人の姿が現れました。
『おお、我が願いを聞きやってきたか。
皇を取って民とし民を皇となさん日ももはや近い。
ククククク……フハハハハハハハハー!』
と哄笑をあげたのです。
「は、確かにその日は近づいているように愚考いたします。
しかしながら、讃岐院の願うことは、京の都への帰還ではございませぬでしょうか?」
『う、うむ、そのとおりである。
だが後白河と清盛がいる限り朕は京の都へ戻ることはかなわぬであろう』
「はい、その代わりと申しては何でございますが五部大乗経をお預かりし、鳥羽院様や白河院様、待賢門院様の陵に収めること可能かもしれません。
もちろんすぐとは参りませんが」
『ふむ、まずは母上の墓所に収めてくれれば他は後でもよいぞ』
「かしこまりました。
陵は法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵でございましたね」
『うむ、朕は期待しておるぞ』
「は、西行殿にもご助力いただき、必ずや陵へと納めさせていただきます」
『うむ、では、朕の呪力を五部大乗経を通してそなたに分け与えようぞ。
それぞれ呪術炎火、呪術風雷、呪術氷水、呪術泥土、呪術鋭金の力を込める故、うまく用いるがよい、これがあれば天候を操ることも可能だ』
「は、ははぁ、ありがたき次第でございます」
えーと、とんでもないものをもらう事になったのは私の気のせいではないでしょう。
満足したらしい讃岐院の姿が薄れていきます。
『早く母上と会いたいものよな……』
そして、陵は沈黙に包まれたのです、私の手の中には血で呪詛の文が書かれた経典が残されていました。
私は西行庵へと戻り、その日は休むことにいたしました。
「しかしまあ、どうしますかね、これ」
貴狐天王が出てきて私に答えました。
『まずは、あやつの願いをかなえられるだけは、かなえてやるが好かろう』
「そうですね、それで今後が変わるのかどうかはわかりませんが……」
母に会いたいというささやかな願いくらいは叶えて差し上げたいものです。
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