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承安3年(1173年)
花園西陵
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さて讃岐院より託された五部大乗経を手にした私は西行法師に昨夜あったことを話しました。
「讃岐院の望みは讃岐から京に戻り、他の皇族と同じような場所に陵を作り、そこで眠ることのようでありました。」
西行は私に言葉に納得したようにうなずきました。
「なるほど、言われてみれば当然事ではありましたな。
しかし陵を作るとなると朝廷の許可がなければできますまい。
後白河法をうがそのようなことを認めるとも思えぬが」
私はその言葉にうなずきます。
「はい、なので代わりのものとして五部大乗経をお預かりしてきました」
私が崇徳院の血で呪詛の文が書かれた経典を取り出すと西行が顔を青くしました。
「お、お、お、恐ろしい……よくそのようなものを普通に持てるものだ」
あ、そういえばこれってとてつもない呪いが込められたものでしたね。
私自身は皇族や藤原氏、平家などと関わりのないただの信濃の中級貴族娘にすぎないからなのか、貴狐天王の影響なのか、私にはあまり影響はないようなのですが……。
「ま、まあ、これを待賢門院様が眠る法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵へ納めれば、崇徳院の怒りも少しは収まるのではないかと」
「なるほど、そうかもしれぬ。
兵衛佐局殿にもお見せするのが良いかもしれぬが……見たら卒倒するやもしれんな」
兵衛佐局と言うのは讃岐院の寵姫で讃岐に同行された方ですね。
今は京に戻って出家し山科の勧修寺に移り住み、崇徳の菩提を弔う日々を送っているはずですね。
この方は仁和寺の覚性法親王(崇徳上皇の同母弟)が世話をしていたはずです。
「そういうわけなので、西行様にも同行願いたいのです。
私では花園西陵に近づけなくとも西行様であれば赴いて奉納することも可能であろうかと思うのですが」
「わ、私がかね?」
「はい、お願いできないでしょうか」
「う、うむ……承知いたした。
そもそも拙僧がこの庵にて日々を過ごしておるのは讃岐院の慰霊のためであるしなともにまいろうぞ」
私は彼に頭を下げ礼を述べました。
「ありがとうございます、できれば早速京の都へ向かいたいと思いますが、大丈夫でしょうか?」
「うむ、ここは見ての通り何もないしの、すぐに出立するとしよう」
私は西行法師と連れたって供のものとともに山を降りて港へ向かい、船に揺られて瀬戸内の海上を揺られしばらくして神崎の港から川船に乗り換えて宇治川にて水路で川を上ってゆきます。
「天気に恵まれたのは幸いでしたな」
西行法師が言うとおり、今回は天気に恵まれて移動にあまり時間がかからなかったのは幸いでした。
水上の旅は特に天候に左右されますからね。
「はい、そのとおりです、どなたかの籠があったのでしょう、ありがたいことです」
具体的には貴狐天王だと思いますが、あまり公にはできませんしぼかしていっておいたほうがいいでしょうね。
山城国(京都府)へと戻ってきた私たちは一路まずは法金剛院をめざします。
法金剛院は右京区にあり、律宗の唐招提寺に属しているお寺です。
律宗は古い仏教宗派で天平勝宝5年(753年)に、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けたとされます。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いているとされますね。
もとは平安時代の天長七年(830年)に時の右大臣清原夏野がこの地に山荘を建立し、その死後、双丘寺と称したのがはじまりで、境内に花々を植えて、歴代天皇が花を愛でに行幸しこの地の花園の地名の由来になったそうです。
仁明天皇はその美しい景勝から、境内にある山に、五位の位を授けられ、この山を五位山と呼ぶようになりました。
その後、天安ニ年(858年)に文徳天皇の勅願により大伽藍が建てられ定額寺(簡単に言うと、貴族や僧侶などが建立した寺で、国家により公認されお墨付きを受けた寺)になり、天安寺と称して大伽藍を建てることになります。
その後一時衰えますが、大治四年(1129年)に、末法思想が広がるなか、鳥羽上皇の中宮、藤原璋子(後の待賢門院)が、仁和寺に御堂建立のため、境内を占わせたところ天安寺跡と決まりここに御堂の建立を決め、浄土世界から連想された法金剛院という名前で天安寺を復興を決定します。
翌大治五年(1130年)に「仁和寺の御堂」として復興を勧め、修理大夫・藤原基隆が造営を行いました。
養父で寵愛を受けた白河法皇追善のためであり、寺号も法金剛院と改め、落慶法要が行われました、完成した寺院には、五位山を背景にして、中央に池を堀り、池の周囲に御堂を建造した優雅なものでした。
この庭園は、極楽浄土を再現する目的で造園させた池泉回遊式浄土庭園で、庭園の北にある「青女の滝」は、林賢と静意という石立僧が作ったもので、2m近い巨石を並べたもので日本最古の人工滝と言われています。
境内には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所が建てられ、待賢門院は晩年をこの地で過ごしました。
そして待賢門院の「花園西陵」は五位山の中腹に東面して建っております。
山岳信仰の山寺、例えば富士山、立山、白山、比叡山、御嶽山、高野山、出羽三山などは女人禁制とされますが、法金剛院は待賢門院が開基であることも考えて大丈夫でしょう。
私達はようやく法金剛院へと到着しました。
紅葉の季節である今は赤く染まる楓や紅葉に加わって、茜や女郎花、菊、金木犀、千日紅、芙蓉、竜胆などの花が華を添えています。
「蓮の花の咲く夏が一番美しいのでしょうけど、秋の花にも風情がありますね」
私の言葉に西行法師もうなずきます。
「うむ、四季折々の景観の美しさは他にないのう」
とは言え本日の目的はこちらではありません。
しかし、それらしい道が見当たりません、私は西行法師に聞きました。
「ところで、待賢門院陵にいくにはどこを通れば……?」
「ああ、こちらの寺院から直接は行けぬのですよ。
この裏の道を行くと行けますよ」
「なるほどお寺そのものが墓所ではなく、陵は管理管轄が違うので道を分けているのですね」
「そういうことになります、まあ陵を荒らすようなものは居ませんがな」
京の都では怨霊などを非常に恐れていますから、天皇の墓所である陵に手を付ける賊徒も居ないのでしょうね。
奈良の方では推古天皇陵・成務天皇陵・聖武天皇陵の盗掘事件が発生しているみたいですが。
私たちは回り道をして花園西陵に歩いてゆきます。
「こちらですか……」
たどり着いた陵は法金剛院とは違い小さく質素ながらも、綺麗に整備されておりました。
「讃岐院の陵とは扱いが異なりますね」
「うむ、まあ場所の違いもあるのじゃろう」
私は陵に近づくと袖より崇徳院の血で呪詛の文が書かれた経典を取り出しました。
ぼおっと讃岐院の姿が浮かび上がるとともに、陵より絶世の美女がぼおっと浮かび上がりました。
讃岐院はフラフラとその女性、すなわち母親である待賢門院に近づいてすがりつきました。
『母君、大変……大変おあいしとうございました……』
『お、おお、まさか顕仁親王、そなたに会えるとは……』
『母君、母君が皇后得子を呪詛したというの本当なのでしょうか?
法金剛院の法橋信朝は母君の乳母子、検非違使に拘束された源盛行は待賢門院判官代、妻の嶋子も母君に仕える女房でありましたが』
『いえ、いえ、決してそのようなことはありませんよ』
『で、では、朕は白河院の胤だという噂の方も?』
『おお……確かにその様な噂がありました、しかし、決してその様な事はありません。
関白忠通と美福門院が私を陥れるためにながしたものです。
しかし、白河院の庇護を失った私にはどうすることもできませんでした』
『母君……ありがとうございます。
朕はその言葉を聞きたかったのです
そして、しばしの間は母君と一緒にいとうございます』
『ええ、ゆっくりとしていくがいいでしょう』
『母君……』
二人は抱き合うようにして消えていきました。
「これでよかったのですよね……」
後白河法皇と平清盛の讃岐院への扱いが変わらぬ限り、彼らに大しての讃岐院の恨みは消せないでしょうが。
「讃岐院の良き心がこちらに移動したことが吉となるか凶となるかはわかりませぬな」
「……そうですね」
悪しき心はまだ讃岐に残っているでしょうからね。
「讃岐院の望みは讃岐から京に戻り、他の皇族と同じような場所に陵を作り、そこで眠ることのようでありました。」
西行は私に言葉に納得したようにうなずきました。
「なるほど、言われてみれば当然事ではありましたな。
しかし陵を作るとなると朝廷の許可がなければできますまい。
後白河法をうがそのようなことを認めるとも思えぬが」
私はその言葉にうなずきます。
「はい、なので代わりのものとして五部大乗経をお預かりしてきました」
私が崇徳院の血で呪詛の文が書かれた経典を取り出すと西行が顔を青くしました。
「お、お、お、恐ろしい……よくそのようなものを普通に持てるものだ」
あ、そういえばこれってとてつもない呪いが込められたものでしたね。
私自身は皇族や藤原氏、平家などと関わりのないただの信濃の中級貴族娘にすぎないからなのか、貴狐天王の影響なのか、私にはあまり影響はないようなのですが……。
「ま、まあ、これを待賢門院様が眠る法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵へ納めれば、崇徳院の怒りも少しは収まるのではないかと」
「なるほど、そうかもしれぬ。
兵衛佐局殿にもお見せするのが良いかもしれぬが……見たら卒倒するやもしれんな」
兵衛佐局と言うのは讃岐院の寵姫で讃岐に同行された方ですね。
今は京に戻って出家し山科の勧修寺に移り住み、崇徳の菩提を弔う日々を送っているはずですね。
この方は仁和寺の覚性法親王(崇徳上皇の同母弟)が世話をしていたはずです。
「そういうわけなので、西行様にも同行願いたいのです。
私では花園西陵に近づけなくとも西行様であれば赴いて奉納することも可能であろうかと思うのですが」
「わ、私がかね?」
「はい、お願いできないでしょうか」
「う、うむ……承知いたした。
そもそも拙僧がこの庵にて日々を過ごしておるのは讃岐院の慰霊のためであるしなともにまいろうぞ」
私は彼に頭を下げ礼を述べました。
「ありがとうございます、できれば早速京の都へ向かいたいと思いますが、大丈夫でしょうか?」
「うむ、ここは見ての通り何もないしの、すぐに出立するとしよう」
私は西行法師と連れたって供のものとともに山を降りて港へ向かい、船に揺られて瀬戸内の海上を揺られしばらくして神崎の港から川船に乗り換えて宇治川にて水路で川を上ってゆきます。
「天気に恵まれたのは幸いでしたな」
西行法師が言うとおり、今回は天気に恵まれて移動にあまり時間がかからなかったのは幸いでした。
水上の旅は特に天候に左右されますからね。
「はい、そのとおりです、どなたかの籠があったのでしょう、ありがたいことです」
具体的には貴狐天王だと思いますが、あまり公にはできませんしぼかしていっておいたほうがいいでしょうね。
山城国(京都府)へと戻ってきた私たちは一路まずは法金剛院をめざします。
法金剛院は右京区にあり、律宗の唐招提寺に属しているお寺です。
律宗は古い仏教宗派で天平勝宝5年(753年)に、鑑真が6度の航海の末に唐から招来され、東大寺に戒壇を開き聖武上皇や称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けたとされます。
後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いているとされますね。
もとは平安時代の天長七年(830年)に時の右大臣清原夏野がこの地に山荘を建立し、その死後、双丘寺と称したのがはじまりで、境内に花々を植えて、歴代天皇が花を愛でに行幸しこの地の花園の地名の由来になったそうです。
仁明天皇はその美しい景勝から、境内にある山に、五位の位を授けられ、この山を五位山と呼ぶようになりました。
その後、天安ニ年(858年)に文徳天皇の勅願により大伽藍が建てられ定額寺(簡単に言うと、貴族や僧侶などが建立した寺で、国家により公認されお墨付きを受けた寺)になり、天安寺と称して大伽藍を建てることになります。
その後一時衰えますが、大治四年(1129年)に、末法思想が広がるなか、鳥羽上皇の中宮、藤原璋子(後の待賢門院)が、仁和寺に御堂建立のため、境内を占わせたところ天安寺跡と決まりここに御堂の建立を決め、浄土世界から連想された法金剛院という名前で天安寺を復興を決定します。
翌大治五年(1130年)に「仁和寺の御堂」として復興を勧め、修理大夫・藤原基隆が造営を行いました。
養父で寵愛を受けた白河法皇追善のためであり、寺号も法金剛院と改め、落慶法要が行われました、完成した寺院には、五位山を背景にして、中央に池を堀り、池の周囲に御堂を建造した優雅なものでした。
この庭園は、極楽浄土を再現する目的で造園させた池泉回遊式浄土庭園で、庭園の北にある「青女の滝」は、林賢と静意という石立僧が作ったもので、2m近い巨石を並べたもので日本最古の人工滝と言われています。
境内には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所が建てられ、待賢門院は晩年をこの地で過ごしました。
そして待賢門院の「花園西陵」は五位山の中腹に東面して建っております。
山岳信仰の山寺、例えば富士山、立山、白山、比叡山、御嶽山、高野山、出羽三山などは女人禁制とされますが、法金剛院は待賢門院が開基であることも考えて大丈夫でしょう。
私達はようやく法金剛院へと到着しました。
紅葉の季節である今は赤く染まる楓や紅葉に加わって、茜や女郎花、菊、金木犀、千日紅、芙蓉、竜胆などの花が華を添えています。
「蓮の花の咲く夏が一番美しいのでしょうけど、秋の花にも風情がありますね」
私の言葉に西行法師もうなずきます。
「うむ、四季折々の景観の美しさは他にないのう」
とは言え本日の目的はこちらではありません。
しかし、それらしい道が見当たりません、私は西行法師に聞きました。
「ところで、待賢門院陵にいくにはどこを通れば……?」
「ああ、こちらの寺院から直接は行けぬのですよ。
この裏の道を行くと行けますよ」
「なるほどお寺そのものが墓所ではなく、陵は管理管轄が違うので道を分けているのですね」
「そういうことになります、まあ陵を荒らすようなものは居ませんがな」
京の都では怨霊などを非常に恐れていますから、天皇の墓所である陵に手を付ける賊徒も居ないのでしょうね。
奈良の方では推古天皇陵・成務天皇陵・聖武天皇陵の盗掘事件が発生しているみたいですが。
私たちは回り道をして花園西陵に歩いてゆきます。
「こちらですか……」
たどり着いた陵は法金剛院とは違い小さく質素ながらも、綺麗に整備されておりました。
「讃岐院の陵とは扱いが異なりますね」
「うむ、まあ場所の違いもあるのじゃろう」
私は陵に近づくと袖より崇徳院の血で呪詛の文が書かれた経典を取り出しました。
ぼおっと讃岐院の姿が浮かび上がるとともに、陵より絶世の美女がぼおっと浮かび上がりました。
讃岐院はフラフラとその女性、すなわち母親である待賢門院に近づいてすがりつきました。
『母君、大変……大変おあいしとうございました……』
『お、おお、まさか顕仁親王、そなたに会えるとは……』
『母君、母君が皇后得子を呪詛したというの本当なのでしょうか?
法金剛院の法橋信朝は母君の乳母子、検非違使に拘束された源盛行は待賢門院判官代、妻の嶋子も母君に仕える女房でありましたが』
『いえ、いえ、決してそのようなことはありませんよ』
『で、では、朕は白河院の胤だという噂の方も?』
『おお……確かにその様な噂がありました、しかし、決してその様な事はありません。
関白忠通と美福門院が私を陥れるためにながしたものです。
しかし、白河院の庇護を失った私にはどうすることもできませんでした』
『母君……ありがとうございます。
朕はその言葉を聞きたかったのです
そして、しばしの間は母君と一緒にいとうございます』
『ええ、ゆっくりとしていくがいいでしょう』
『母君……』
二人は抱き合うようにして消えていきました。
「これでよかったのですよね……」
後白河法皇と平清盛の讃岐院への扱いが変わらぬ限り、彼らに大しての讃岐院の恨みは消せないでしょうが。
「讃岐院の良き心がこちらに移動したことが吉となるか凶となるかはわかりませぬな」
「……そうですね」
悪しき心はまだ讃岐に残っているでしょうからね。
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