家出少年は雨にうたう ~現代ミステリー短編集

さかなで/夏之ペンギン

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記憶の結晶 ~添田涼子の事件ファイル №3

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佐川信二は江東区の公立中学校に通っていた。勉強はそこそこできるようだったが、友だちはいない、まあ虐められはしていないが孤立している、そういう少年だった。

能登から東京に来たときは住居は転々として、満足に小学校は通えなかったらしいが、現住所に落ち着いてからはちゃんと学校にも通えるようになったようだ。そして中学三年生になったあの日、事件は起きた。信二のとなりのクラスの女子を校舎の三階から突き落としたのだ。

女子生徒は町田香織という名前の生徒で、その日初めて学校に来た転入生だった。とうぜん信二とも面識はないはずなのに、放課後女子生徒を空き教室に呼び出した信二は、犯行に及んだ。取り調べに当たって信二は衝動的に殺したくなったと供述した。

抑圧された自我における排他的暴力…衝動的で自己抑制も効かない心神喪失状態を問われることになった。

刑法39条でいう心神喪失とは精神の障害により、是非の弁別能力または行動を制御する能力を欠くことをいい、刑事責任を問いうるためには、行為者に責任非難を課しうるだけの人格的適性を有しなければならず、これが欠ける場合には、責任無能力者の行為として、責任が阻却される。

女子生徒は全身と頭を強く打って意識不明の重体で、いまも生死の境をさまよっている。いったい二人のあいだに何があったのか。それは信二しか今のところ分からないし、そして信二は頑なにそれを語ろうとはせず、ただ犯行を認める供述だけなのだ。今後争われるのは犯意であり、それが醸成される過程、つまり真実はなにか、なのだ。


「ここね」

県道沿いの小さなラーメン屋だった。駐車場だけがやけにだだっ広い、まあ地方じゃこういうのはよく見かける。

「らっしゃーい!」

威勢のいい声が聞こえた。すぐに若い男が水を持ってきた。話を聞こうとしたが、昼食がまだだったのでついでにすますことにした。メニューはえーと…。

はあ?カニ餃子?ウニラーメン?ぶりチャーハン?なんじゃこりゃ。いくら能登だって大概があるだろう。うまいかどうかは知らないし、観光客を狙ったものかも知らないが、それにしても程ってもんがある。あーなんか食欲が…。まあ、あたりさわりのなさそうなので行くか…。

「お決まりですか?」

若いあんちゃんが気さくにそう声をかけてくる。女が一人、珍しくもないだろう?なにニヤニヤして足見てんだ、ボケ。

「この特製味噌ラーメンっていうのを」
「はい。マスター!特製味噌でーす」
「はいよ」
「お水おかわりは?」
「いいわ」

まだ口付けてねえだろ!カス。

昼にはちょっと早かったのか、店には客は少なかった。運送屋風の男と、漁業関係者らしいのがふたり、そしてタクシーの運転手。漁業関係者らしいのがチラチラとあたしを見ているのがわかる。ふたりとも昼間っからビールを飲んでいる。

「お待ち」

運ばれてきたものを見てぶったまげた。味噌ラーメンにコーンじゃなくイクラが大量に乗っかっていた。

「あの…」
「えへへ、大将がね、サービスだって、イクラ大盛でっす」

ふざけんな!そんなもったいなくて気持ちの悪いことするな!バカじゃないのか?味噌ラーメンにイクラなんかトッピングするか普通!

「うちの人気メニューなんすよ。大阪から来る女子大生なんかキャアキャア言いながら写メ撮りまくりですよ。インスタ映えするとか言って」

味覚と視覚のおかしいやつがいるんだな。世の中って、恐い。あーでも仕方ない。食べるか…しっかし気味悪いな、これ。大学時代、そうめんでこれやったことあるけれど、それはそれでうまかったが、やっぱイクラはご飯の上が一番いいのだ。てかイクラ邪魔。スープに浸ってるところは白くなってるし。これかき混ぜていいのかな?うわー、なまぐさーい。ひと噛みひと噛みいちいち麺にイクラが絡みついて来やがるし、だいいちもやしとの相性が悪すぎる。あたしはどちらかというとラーメンはスープが好きなの。それが味噌の香りをイクラどもが蹂躙しやがってる。こんな鬼畜な食い物ははじめてだ!あーしっかしプチプチプチプチ…。

意外にうまかった。生臭いのも慣れればなかなかいい味に思えてくる。要するに思い込みなのだ。いらない先入観が味覚という知覚にフィルターをかけてしまうのだ。結局汁も残さず全部食べてしまった。ごちそうさん。

「いい食べっぷりでしたねー」

若い男の言葉には答えず、あたしは歯磨き代わりのガムを口に放り込んだ。カウンターで鍋を振っている店の主人に声をかける。

「ねえ、ご主人、佐川信二って子供、ご存じ?」
「え?」

主人は手を止め、あたしをじっと見ている。

「あんたは誰?警察かなんかか?」

ガタンと漁業関係者がふたり立ち上がり、会計しはじめた。まだビール残ってんぞ。警察と聞いて驚いたんだろう。飲酒運転してんじゃねえぞ、ボケ!

「あたしはこういうものです」

名刺を出した。

「家庭裁判所調査官…裁判所の方?」
「そうです。あなたの息子さんと佐川信二君は同級生、ですよね?」
「あ、ああ、そうだけど…知ってることは警察にみんな話したよ」
「野球のことも?」
「もちろん。息子とは馬が合ってたみたいで、年中そこらでキャッチボールしてたよ」
「写真があるとか」
「あ、ああ、えーと、どこだっけ?どこしまったかなー」

ああ、イライラする。こういう時間があたしは一番嫌いなんだ。

「二階じゃねえ?親父」
「あ、ああそうかな。見て来てくれねえか、陽介」
「はいよ」

若い男はタンタンと階段を駆けあがるとすぐに降りてきた。

「ちょっと油でべとべとするけど…」
「きみは?」
「あ、おれ?俺はこの親父の息子。長男だよ」
「信二君は知ってる?」
「知ってるも何も、野球を一緒にやっていたんだ。弟の正敏と。これが町内少年野球大会での写真。これが俺でこれが正敏。そして隣のこいつが…」

佐川信二!見つけた!

「ありがとう!ねえ、これもらってっていい?」
「いいよ。まだパソコンに入っているから」
「パソコンに?じゃあそっちもちょうだいよ。ファイルコピーで」
「しょうがねえなあ。まあ、お姉さん美人だからな、いいよ。いまパソコンでお姉さんの携帯に送るからちょっと待ってて」

言うじゃねえかいっちょ前にガキが。まあこいつは来たかいがあった。

「これを警察は?」

親父に聞くと、そういうのは持って行かなかったという。つまり警察も手にしていない物証なのだ。


最初、違和感があった。それは漠然としたものだった。小学校時代の佐川信二と、中学校時代の佐川信二はどうしてもつながらない、なにかおかしさがあった。大磯裁判官は、それは成長期特有で、そういうことはみんなあると言った。だが何か異質なのだ。それは些細なことかもしれない。でもそれは見逃しちゃいけないことのように、あたしには思えたのだ。

いまの信二の写真とこの写真の信二を見比べる…。まあ顔立ちは似ている。でも何か違和感。なんだろう?髪型かな、やっぱり。校長先生もそう言っていた。髪型?この写真は帽子を被っている。髪型はわからないな。中学生のいまの写真は向かって左から右に流している。だから?考えろ、涼子。

「あのー、お会計を…」
「ああごめん」
「千八百円です」
「たけーな」
「イクラですから。それにサービス盛ですよ、あれ」
「しょうがないわね、ほら」
「二千円から―、毎度ありー」

そう言って大将の息子はレジからお釣りを渡してくれた。器用だわね。左手でレジを操作?あ、ああ!そうか!そういうことか!


日本海の潮の匂いが頭の隅々にまで行き渡る気がした。ああ、そうだ。ここに、もうひとりの信二がいた!



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