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谷底の城

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真っ白な霧…いや蒸気の中にぼくらは突っ込んで行った。五里霧中…そんなどうでもいい熟語が頭に浮かんだ。

「ちょっとデリアっ!聞いてんの?ねえ、熱いんだけど!」

そりゃ蒸気のなかだ。火傷するくらい熱いだろうね。

「ミローネ!精霊の力で水蒸気に冷気を」
「はーい」

落ちながらけっこう冷静だな。ま、まわりが何も見えないからね。まるで宇宙遊泳みたいなもんだ。それでもミローネが冷気を起こし水蒸気を消すと、ようやく真っ黒な谷底が見えてきた。ああ、確実にぼくらは落っこちている。

「ぎゃあああああああっ!」

うん、そうなるよね、ラフレシア。などと感心している場合じゃない。なんとかしなくちゃ。ええい、しょうがない。

「うわっ!なに!」

全員が柔らかいものに降りた。いや、降りたというより捕まった、という方がいいかも。だってこれって『一日一回スキル』で出したクモの巣なんだもんね。

「きゃああっ、これなんかのネットみたいだけどベトベトするっ!」

そらそうでしょう、クモさんの獲物の捕食用なんですから。

「でも助かったわ。危うくみんな谷底に落ちてグッチャグチャになるところだった」
「そういう表現はちょっと…」
「なによこれでも優しく言ってるのよ?まさか五臓六腑地面にぶちまけて真っ赤な臓器の上に真っ白な脳みそをアレンジトッピングで添えるなんていくらあたしでも言えないわよ」
「ごめん、吐きそうになった」

と、とにかく一応助かった。クモの巣はみんなの重みでゆっくりと伸びている。しばらくすれば底に降りられるだろう。

「と、とにかくみんな落ち着いて。いまゆっくり降りている。もし底に熱床帯があったらミローネが凍らせてくれる。とにかく慎重にね」
「それは理解しているわ。でもちょっと問題があるかなー」
「どうしたのラフレシア?なにかあった?」
「あった、というよりいた、と言うべきかしら?」
「いた?なにが?」
「あそこにおっきいアレが」

ラフレシアの指さす先に、それはそれは巨大なクモがいた。いやいや、ぼくはクモの巣と願ったんだし!まさかクモまでセットでついてくるなんて願ってないし!

「なあご主人」
「なんですか、ネクロくん」
「あいつお食事モードみたいだぞ?」
「お食事って…まさか…ぼくらを頭からバリバリと?」
「まさか」
「なんだよ、おどかすなよ」

そうだよな。ぼくが願って出したクモだ。まさかぼくらが食われるなんてありえないからな。

「クモは獲物を食べるんじゃなくて体液を吸い尽くすんだぞ。それはそれはチューチューとおいしそうにだ」
「俺らは夏の盛りのマッ〇シェィクか!バニラかストロベリーかチョコか!」
「落ち着けマスター。言っている意味が分からん。なんだマッ〇シェィクって?」

とりあえず何とかしなくては、って言ってもあんなバケモノどうすることもできん!あー、まさか自分がマッ〇シェィクになるとは思わなかった!

「とにかくみんな下がって。ぼくが何とかする」

大賢者がくれた剣と鎧にいまはすがるしかない。どれだけ戦えるか知らないが、何もしないで死ぬよりはまし…いやそれはちがうな。何かして死ぬより何もしないで死ぬ方がニートとして健全なんじゃないか?いやそうじゃない、それはぼくひとりだったらだ。いまはみんながいる。みんなを死なせてはいけない!

「さあ来い!化けグモ!」

あれ?剣も鎧も現れない?なんでやねん!

「だからマスター」
「今忙しいのっ!あとにして!」
「戦う気満々のところ大変申し訳ないんだが」
「はあっ?なによミローネ!」
「あいつと話をした」
「あいつ?あのクモくんと?」
「正確にはクモさんだな。あの子はメスだ。女の子だ」
「あの巨大化け物グモに女の子表現はなかなかシュールな発想だ」
「とりあえずいうことは聞かせた。わたしたちを襲うことはない」
「あー」

そういやこいつら魔獣や魔物を手なずけるんだったな…。

「そ、それはご苦労。なら安心だね。ぼくの田舎じゃクモは害虫を食べてくれるいい虫で、みな殺さずそっと見守っている。ぼくもクモは殺したくないんだ」

まあぼくがエサになる前提ならそれは無効ですけどね。

シャー

「おい、あの子シャー言うとりますがな!」
「落ち着けマスター。どうやら怪しいやつがいる。近くに危険なやつがいるみたいだ。クモが反応している」
「危険なやつ?ぼくにはあのクモさん以外に危険なやつなんて見えないんですけど!」

底にクモの巣が伸び切って着いたみたいだ。そんなに暑くない。うまい具合に熱床帯は避けたようだった。

「これはこれはひさびさのお客様、と思えばなにやら恐ろし気なものとご一緒…。これはいかがしたものでしょうか」

こいつは強い!声を聞いただけでそれがわかった。何ものかは知らないが、こんなところにいちゃいけないとぼくのニートが囁いた。

「ちょっと!どこに隠れてるか知らないけれど、コソコソしないで出てきたら!」

い、いやラフレシア、ぼくの考えは違うぞ。このままコソコソと隠れていてほしいと、ぼくはいま真剣に思っているところなんだ!

「これは威勢のいいお嬢さまだ。そして精霊ガイスト死霊使いトーター、おやおや小さなドラハンまで。いったい何なんですか、あなたたちは?」

そう言って真っ暗なところから現れてきたのは、真っ黒な簡易礼服を着こんだ、そう、どう見ても吸血鬼にしか見えない!そうして霧が少し晴れると、岩盤に刻まれたように荘厳なそれが浮かび上がっていた。

「これは…城?」
「いかにも。ようこそいらっしゃいました、わが城『ドンケルス暗黒ブルーマンシュラース花城』に」

恐いネーミングつけりゃあいいってもんじゃないよ!

「そしてわたしが当主の、ハイネンリヒ・リードフォルゲンでございます」

どう見てもまともじゃないよね?どう見ても魔族だよね?あらゆる角度から見ても吸血鬼だよね?

「さあ、今宵はひさびさのお客様…おもてなしをしなくては。どうか一夜を、ぜひお過ごしください」
「いやぼくらは先を急ぎますので、お言葉だけでごちそうさまです」
「そうおっしゃいますな。何しろお客など三百年ぶりのこと。外界のお話など、お聞かせいただけないでしょうか?ごちそうも沢山ありますよ?」
「まことにありがたい話ですが、急用がありますから!」
「ほら何してんのデリア、先行っちゃうわよ」
「マスター、置いてくわよ」
「メシメシ」
「リヴァはきくらげ苦手なの。ごちそうにきくらげ入ってないよね?」
「おまえら…」

こいつらごちそうに釣られて?いやマジありえねえ!

「あなたが彼女たちのご主人?ふうん、どうやら先ほどの気配は…まあいいです。さあ、あなたも。なあに、取って食べたりはしませんよ、じゅる」
「よだれ拭いてから言え!」
「失礼」

ごちそうって、ぼくらのことなんだと、このときぼくはそう思った。


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