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黎明

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「うぎゃあああ、ほ、ほんとに気がおかしくなりそうだ!」

ぼくは鎧を脱ぎ捨てたくなった。鎧の重みが心にまで重くのしかかっていたからだ。早く脱ぎ捨てたい。鎧も、ぼくの身体さえも。そうして軽くなりたかった。そうすればすべて楽になる、そういう気がものすごくした。

「悪魔に翻弄されるな!これがやつの呪いだ。鎧を捨て、身体を捨てれば死ぬ。それがわからんか!」
「死んだほうがましってことだね」

そうだよな。いまの状況ならそう考えない方がおかしいよ。この苦しみときたら、もう死んだっていいと思えてくる。

「気力を持たせろ!あと少しなのだ!」
「も、もう…いやだ…おしっこ、ちびっちゃったし…」
「いや、そんなことふり絞って言うな、アホ」
「だけど…どうしても届かないんだ…あと少しなのに…」

本当にあと少しで剣が届く…。あと少し…だがそれははるかに遠く感じた。ああもうムリだ。急に聖獣の力が緩まって、少し後ずさりをした。

「少年…わたしもこれまでだ。もう力が残っていない。すまなかった…許してくれ」
「ぼくもごめん。力になれなかったよ。もうみんな終わりなんだね」
「すまん…」

ああ、ほんとうにぼくらはおしまいなんだ。ぼくのスキルもまだ使えない。これで終わりなんだ。そうだよね?ねえ、そうだよね?

「あっ?」
「な、なんだ?」

急に力が入った。いや、すごい力で押されている?あ、ゴーレムくんだ!ステルスゴーレムくんがぼくらを押してくれている。

「こんなやつがいたのか?なんなんだこいつは」
「いや話すと長いから。いいぞゴーレムくん、その調子!」
「い、いや待て少年!こいつは霊力で動いているはずだ。そんなものがこの呪いの中で動けるものか」
「え?マジで」
「悪魔の呪いは恐ろしいほどの精神感応波だ。微弱な霊力など吹き飛ぶ」
「そんな…」

なにしてる?やめろ、ゴーレムくん!

「ゴーレムくん、やめて!きみが破壊されてしまう!」

それでもゴーレムくんはぐいぐいぼくらを押してくる。腕がもげ、身体にひびが入ろうとも…。

「やめろって言ってんだ!いうこと聞け―っ!」

ついに片足がもげた。だがゴーレムくんはまだ押すのをやめない。ただ、ぼくにしっかり顔を向けて、最後の力を振り絞っている。

「少年!届くぞ!剣を突き刺せ!」
「でも」
「こいつを無駄にするのか?こいつに心があるかは知らないが、健気な行いに報いようとは思わないのか!」

ハッとした。聖獣はぼくに責任を果たせと言っているのだ。いつもぼくを守ってくれた。いつもぼくの道を切り開いてくれた。いつもぼくのそばにいてくれた。ぼくが作った、ぼくの大切な友だち…。

「こんちくしょう!」

ぼくは剣を、そのおぞましい臓器のようなものに突き立てた。それこそおぞましいドロドロとしたなにかが噴出して、ぼくは気を失いそうになった。

「気を確かに持て!もうひと突きするのだ!」
「ああ、もっと力がほしいよ!」

ぼくの剣を握る手に、ゴーレムくんの透明な手が重なった。それは大きな力だった。『ケイオスの印』はおかしな脈動を始め、痙攣のような震えが全体を覆っていった。そうして端から溶け流れていく…。

「ゴーレムくん!」

ゴーレムくんは、もうすでに崩れ始めていて、その透明で硬い体ももうすでに形をなしていなかった。ただぼくの手を握ってくれていた感触だけが、ずっと残っていた。『ケイオスの印』は消えた。でもかわりにぼくは大切なものを失ってしまった。こんなくだらないもののために、ぼくの大切な友だちが、死んだ。

「悲しむな。あのものはおまえを生かし、お前と生きることを選んだ。お前が生きる限り、あのものは死なん」
「でも…」

それなに言ってるかわかんないですよといまここで言ったら、きっとこの聖獣は気を悪くするだろうと思って黙ってることにした。とにかくこれでラフレシアの病気を治せるんだと、現実的に考えることにしなくちゃね。

「いいから背に乗れ。じきここは噴火するだろう。『ケイオスの印』の残骸ごとここはなくなる」
「はい」

ぼくは聖獣の背に乗って火山の噴火口を出た。噴火口の外では卵を抱えた火焔竜夫婦とリヴァちゃんが待っていた。

「パパ、やったね」
「ああ、ありがとうリヴァちゃん!みんなのおかげだ」
「勇者よ、みごとだ」

火焔竜が目を細めてそう言った。

「だから勇者じゃないって」
「そこは譲らんやつだな」
「パパはパパだから、いいのよ、おじさん」
「そういうもんかな」

ドラゴンたちが笑っている。まあ不思議な光景だが、麒麟に乗っかっているぼくがもうとやかく言うことじゃないと思った。ああ、早くみんなのところに行かなくちゃ。




「いやー、たかが人間が、あの『ケイオスの印』本体を破壊できるとは思わなんだ」

そう感慨深げにでかニャンコのクロスが言った。

「思わないでぼくをあんなところに向かわせたのかよ」

ぼくは荷馬車の馭者台で前を歩くニャンコを睨みつけた。

「それが大賢者さまのご命令だったから仕方なかろう。だがまさか聖獣さまがあらわれるとは、さしもの大賢者さまでも予想できなかっただろう」
「それは違うわね」

ミローネがつまらなそうに言った。またビスケスを食い散らかしている。

「違うって?」
「あんたにさんざん旅させたのはこんな魂胆があったんでしょ。大賢者ってあれよね、なんでもお見通しって感じだから」
「いくら精霊女王でも言いすぎですよ、ミローネさん」

ニャンコが生意気にたしなめた。

「ふん」
「でも、あたしたちがこうしているのは大賢者の思惑とは別」
「ネクロ、どういうこと?」
「あたしたちはあんたについていくってことよ。大賢者のためなんかじゃない。ねえそうでしょ、ラフレシア」

ラフレシアはちょっと顔を赤らめて、黙って頷いた。いまは真っ白なドレスを着ている。いつもの鎧はどうした。

「ではわたしはここまでだ。わたしはこれより各地に散らばった『ケイオスの印』の残滓の魔法陣を破壊しに行く」
「もう行っちゃうの?麒麟…」
「麒麟じゃない!聖獣だ」
「まあどっちでもいいけど、もう少しぼくらと…」
「もう力がなくなったとはいえ、残滓にまだ囚われている人間がいる。一刻も早く救わんとな」

そう言って聖獣はペコリと頭を下げた。

「ありがとう、また会えるかな?」
「勇者が望めば、必ず」
「勇者じゃないって!」
「言ってろ、少年」
「デリア、だよ」
「ああ、デリア…また、な」

そう言って聖獣の麒麟は消えた。また溶岩流をたどって世界各地に向かうのだろう。

「いいやつだったじゃない。クズのあんたにはもったいないわ」
「な、なんだラフレシア。クズって誰のことだよ」
「クズ」
「クズ」
「クズ」
「おまえらまで言うな!」

そうしてみんな笑った。笑ったけど、ラフレシアの目には涙が光ってた。

「ちょっと!あ、あれなあに?」

ミローネが食べかけのビスケスをポロリと落としてそう言った。前方に真っ黒い渦が広がっていたからだ。

「あっ!」

飲み込まれたのは一瞬だった。もう目の前は真っ暗になった。息ができるのか、いや生きているのかさえ分からなくなった。


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