雲のわすれもの

星羽なま

文字の大きさ
上 下
5 / 5

#5.我儘雨

しおりを挟む
 天界とは、大して幸せな場所ではない。
 それは空冥の地位による因果かもしれないが、それなら地位など必要なかった。
 皆と同じように、普通に過ごしたかった。



 空冥は雫玖と出会う前から、雫玖の存在を知っていた。
 現在は使用を禁止されているが、約一年ほど前、天界で双眼鏡というものが流行した。それを使用すれば空から人間界を見ることができたのだ。
 五年前にも同じようなレンズがあったが、それよりも鮮明に見えるという上物であった。
 とはいえ、天界に住むだけの者には使い道がなく、その流行はすぐに過ぎ去った。
 需要があったのは、空冥と同じ、【アークディアン】と称された者だ。
 アークディアンは、唯一天界から出ることを許され、人間界の上空へ降り立つことが出来る。
 五年前にあったレンズは数個ほどしか存在せず、空冥は持っていなかったが、昊々こうこうという仲間が貸してくれたことがあった。鮮明な記憶はないが、自分は入手できなくてよかったと思った記憶だけはあった。
 しかし、双眼鏡は流行のおかげか大量生産され、空冥の手元にも渡った。
 人間界上空へ降り立った際、結局興味を抑えられず、双眼鏡を覗いた。
 視点を変えながら見ていると、海の付近に反り立つ壁の上いる、ひとりの青年を見つけた。それが雫玖だったのだ。
 初めは、空を眺める不思議な奴だという印象だった。
 暇な時間があれば、雫玖のいる地域の上空へ行っては生成した雲に乗り、雫玖のことを探した。
 雫玖は連日、同じ海の壁の上にいて、空を見上げていた。
 時折空にスマートフォンを向けたが、それ以外特に変わった様子はなかった。
 しかし一度、雫玖が憂いげな表情を浮かべていたことがあった。
 その日の上空には、自然発生している雲が密集していて、雨が地上に降り注がれた。
 すると全身濡れ始めてしまったのにも関わらず、雫玖の顔は、まるで安堵したかのように緩んだのだ。
 その光景を見て、何故か胸の奥がざわついた。
 それ以降、雫玖が暗い顔をすれば、雲を生成してはの雨を降らせた。そうするといつも、表情を和らげていた。
 とある日、良くないと分かりながら、雫玖が海の壁から去った後も目で追ってしまい、雫玖の家も知っていた。
 雫玖は雨の日に海の壁に来ることはほとんどなく、大雨の日、雫玖の家を眺めてみた。
 もちろん家の中まで見えることはなく、諦めようとした時、ベランダに雫玖の姿が現れた。
 そして海の壁にいる時のように、空を見上げていたのだ。
 不思議だと思った奴は、観察したところで余計不思議な奴だと思うだけだった。
 双眼鏡で人間界を覗くことができたのは約三ヶ月ほど。気づいた時には双眼鏡が消えていて、上から禁止命令が出た。
 それ以降は雫玖の姿を見ることはできなかったが、時折、雫玖のことを考えながら雨を降らせた。雫玖の和らぐ顔を思い出しながら、わずかな雨を。


 とはいえ、現在人間界にいるのは望んだからではなく、単に空冥が不手際を起こしたせいであった。
 あの日は、とある少年と話をしていた。
 少年は【グリムテンペスト】という種族で、天界ではなく魔界に住む、空冥らとは敵となる者だった。
 魔神のしもべと呼ばれる彼らは、天界や人間界に災いをもたらす存在である。
 故に、空冥を含むアークディアンは、問答無用でグリムテンペストを討伐する必要があった。
 あの日も天界付近では争いが起き、両者数名の命が犠牲になった。
 激しい争いの中、ひとりだけ逃げようとした者がいた。それが話をしていた少年である。
 討伐義務がある空冥は、少年のことを見逃さず追いかけた。
 追いつくと、少年は黒い積乱雲を一瞬にして発生させた。戦闘に備え、空冥も積乱雲を発生させる。
 しかし、少年は雲を発生させただだけで、攻撃してくる様子はなかった。
「殺してもいいのか」
「はい」
 死を望んだような少年を、殺すことができなかった。
 少年に話しかけようとした次の瞬間、少年は急に雲へ擬態した。
 空冥らは人間界上空にいる際、脳に何かが伝達されたような感覚が走ることがあり、それを合図に雲へ擬態する必要があった。
 これは、人間に姿を見られないようにする為だという。
 空冥は少年を追うことに夢中で、人間界上空に降りていたことすら気づいていなかった。
 そして擬態が遅れてしまい、どこからかは不明だが、雫玖に姿を見られてしまったのだ。


 そして現在、自分が犯した失態のを行うべく、神からの命令でここにいる。
 対象のすぐ傍に降ろすと言われたが、降り立った際、見慣れた場所に驚いた。
 顔を見ずとも、空冥の姿を見た者が、自分が空からよく見ていた青年だと理解した。
 すぐに去るつもりだったが、その青年だと知り、思わず声をかけてしまった。
 青年のことを少し知ることができたなら帰ればいい…そう思っていたはずが、しばらくここにいるという約束まで交わしてしまった。

 自分が降り立った時、側からどのように見えていたのかは分からないが、おそらく音などはしなかったのだろう。雫玖は空冥が現れたことに全く気づいていない様子だった。
 空冥が声をかけてやっと、雫玖が空冥の存在に気づく。
『くも?』
 空冥の姿を見ると、雫玖はそう呟いた。
 姿形は人間そのものの空冥に対して、核心をつくような発言をしたことに驚いた。
 雫玖に対する興味が膨れ、空が好きなのかと尋ねる。
『雲が好き』
 返ってきた言葉にまた少し驚く。
 空を好きだと思っていた青年は雲が好きだと言い、饒舌に雲について語り始めたからだ。

 空冥は自分が持つ能力を必要だと思ったことがなく、能力を持って生まれた自分が嫌いだった。
 雲に擬態し、雲を生成し、雲を操り、雲を武器に変え、それら全てを駆使して戦う。
 天界を守り、皆の役に立っているはずなのに、それを知らない天界の住民からは感謝されることもない。むしろ、アークディアンは忌み嫌われていた。
 同士には、周りの声などただの妬み嫉みだと一蹴する者が多かったが、空冥は消化しきれずにいた。
 命を賭して戦う同士を間近で見てきたのだ、住民の態度を不服に感じて当然であった。
 しかし、空冥が住民に対して制裁を下すことは許されない。何かしてしまえば、それは神に逆らうことを意味した。
 この生活が変わることがないのなら、やはりこの能力を持ちたくなどなかった。
 次第に空冥は、雲を見ると自分の姿を見ているかのようで、雲そのものに嫌悪感を抱くようになっていた。

 それ故に、雫玖の雲が好きだという言葉が気になった。そしてその言葉で、僅かに心が軽くなった気がした。
 話ぶりから雲が本当に好きなのだと伝わり、『雲だと言ったら信じるか』などという、いかにも嘘臭い真実を、信じないだろうと思いながら言ってみた。
 しかしそれを聞くなり、声を高くしながら湧き出た疑問を素直にぶつけ、空冥の方へ目を向けた。
 その瞳には、太陽の光を目一杯に含ませ、輝いていた。人間はこれほど美しいものを持ち合わせているのかと感動した。
 人間のことを、雫玖のことを、もっと知りたいと思ってしまった。

『雲さんって、すっごく綺麗だね』
 雲ではなく、空冥のことを綺麗だと言ってくれた雫玖に、自分の名前を教えた。
 するとかっこいいと褒められ、雫玖の名前を聞いた後、空冥もいい名前だと褒め返した。
 こんな照れ臭くなるような会話は初めてしたかもしれない。
 そもそも最近では、誰かと関わること自体殆どないような暮らしだった。同士とも戦闘に備えて話す程度で、誰かとそれ以外の会話をすることすら久しぶりのことだ。
 雫玖の質問に答える程度の会話だが、心が弾むという感覚を、初めて理解できたような気がした。
 天界へ帰ったなら、朝起きて飯を食べ、天界を出て偵察をし、用意した飯を食べ、また偵察をし、帰って飯を食べ、風呂に入って寝る。召集がかかれば時間は問わず任務へ向かう。
 娯楽など一つもない、機械的な日常に戻るだけだ。
 雫玖に興味が湧いたこともひとつの理由である。
 しかしそれよりも、天界に住むアークディアン以外の者は皆、毎日誰かと普通に話せる幸せを得ているのだと思うと、嫉妬なのか、帰ることが少し嫌になってしまった。


 しばらくは大丈夫だと言ったのは空冥の独断で、決して許されることではないだろう。
 しかしここへ来る前、天界付近も人間界上空も異常は見られなかった。グリムテンペストも一度乱を起こすと、一定期間は音沙汰も無くなる。
 ならしばらく自分がいなくとも、問題はないと判断した。
 それに、今まで空冥は天界の為に尽力してきたのだ。これぐらいの自由はもらってもいいだろう。

 神よ、しばし雫玖と共にいることをお許しください。
 そう、天を仰いだ。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...