雲のわすれもの

星羽なま

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#4.泡沫

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 雫玖は勃起したことに思いの外落ち込み、便座に座って大きくため息をついた。
 自然現象で男性ならいたって普通のことであり、ましてや好きな人を前にすれば尚更のこと。
 しかし雫玖は、今まで何かに性的興奮して勃起したことがない青年だった。
 これまでは朝勃ちや、疲れによる勃起しか経験がなく、自慰行為もただの作業という感覚であった。
 その為現状に戸惑い、空冥をそういう目で見てしまった自分に落胆した。
 加えて、一緒に寝ようと、空冥は優しさで言ってくれたのにも関わらず、返事もせず突然部屋を飛び出して、失礼な態度を取ってしまったと猛省した。
 とはいえ勃起してしまったことはどうしようもないので、空冥を想像しないようにしながら、いつもの作業のように処理をした。
 部屋に戻ると、空冥は既に寝ているようだった。聞きたいことはたくさんあったが、今の状態で聞けるわけもなく、申し訳なさもあったので正直安心した。
 雫玖は敷いた布団にそっと入り、明日は普通に話せますようにと、心で唱えながら目を閉じた。



 結局雫玖が眠りについたのは深夜一時過ぎで、目を覚ますと九時だった。八時間ほどしっかり眠っていたらしい。
 カーテンは開けられておらず、隙間から光が差し込んでいる。
 少しぼーっとした後ようやく起き上がり、空冥の様子を伺った。
 すると妙に掛け布団に厚みがない。この時点で察してはいたが、念の為布団を上げてみると、そこに空冥の姿はなかった。
 雫玖はこの現実を受け入れられず、放心状態になった。
 空冥の『しばらくは大丈夫』という言葉に安心しきって、明日があるものだと思っていた。今日は聞けなくてもいいやなどと思ってしまったことを酷く後悔した。
 そして不安も募った。
 空冥の姿がここにない理由が、いるべき場所に帰っただけならいい。しかし、例えばこの世界に体が適応できずに消えたのだとしたら…それは死を意味するのではないか。
 後者だとしたら自分が我儘を言ったせいなわけで、後悔、恐怖、不安、絶望、様々な負の感情が頭の中で衝突しては分裂し、数を増していく。
 一度湧き出てしまった感情は簡単に消えることはなく、考えれば考えるほど膨張していく。
 今泣いてしまうことができたなら、一つくらいは涙と共に流れていき、少しは楽になれるのだろうか。
 そうしてカーテンを開けると、日差しが鬱陶しいくらいに部屋を照らし、希望を押し売りされているかのようだった。
 こういう時、太陽の力で無理矢理前向きにしてほしくなどなくて…少しでいい、雨を降らせてほしいんだ。

「雫玖起きてる?今日アルバイトは?」
「え…あっ!!」

 ドアの向こうから聞こえた母の声で、急に現実へと引き戻される。
 雫玖は一年生の頃から、スーパーで惣菜調理のアルバイトをしている。普段は土曜日と日曜日、長期休みは週五日間でシフトを入れている。
 そして今日も、十一時からバイトが入っていた。
 昨日からそんなこと忘れていたが、母のおかげで思い出し、急いで準備をし始める。時間まで一時間半はあったので、余裕で間に合いそうだ。
 準備を終えて外に出ると、灼熱の太陽が頭上に燦々と輝き、空気が熱気に満ちている。直に照りつける光からも、息苦しくなるほどの暑さからも逃げ出してしまいたい。
 避難できるような日陰はなく、バイト先に着くまでの間、嫌になるほど熱を浴びた。
 着いてから水分補給をした後素早く着替え、厨房に入って指示されたことを淡々とこなした。
 雫玖は人と関わることが苦手であるが、与えられた仕事はできる器用なタイプであった。
 惣菜部門ではコミュニケーション能力はさほど必要ではなく、割と上手くやれている。
 バイトを始めた時、学校や家と比べると居心地がいいと感じた。自分の意見は求められず、指示された通りにただ動き、それでも役に立っていて、気が楽だと思えた。
 加えてバイトをしている時は、余計なことを考えずに済んだ。
 故に今日だって、バイトを入れておいて良かったと思う。
「そんな気張らなくていいんだからね~」
 と、社員のおばちゃんに言われるほど、今日は作業に没頭していたらしい。
 しかし感情はどれ一つ消えていることはなく、バイトが終わってしまうとまた、その全てに襲われる。
 バイトは夕方の五時までで、防潮堤に行ったところで短時間しかいられない。家までの通り道でもなく、いつもなら真っ直ぐ家に帰る。
 だが今日は、足が勝手にいつもの場所へと向かっていた。
 そこに行って雲を見れば、少しは感情が消化されるのではないかと期待しながら…
 今日一日中太陽によって照らされ続けていた地上とは裏腹に、雫玖の瞳には曇り空のようにもやがかかっていた。
 そんな瞳に、一筋の小さな光が差し込んだ。
 雫玖は突如走り出し、階段の方へと向かう。必死に階段を駆け上がり、上に着くと息を切らしていたが、防潮堤の上をまた走り出した。

「シズク」

 近づいてみるとそこにあったのは、紛れもない空冥の姿であった。
 頭の中に隙間がないほど湧き出し続けた負の感情は全て無くなっていて、安心というたった一つの感情だけになっていた。
 昨日出会った時と何も変わらない、白いローブを纏った空冥である。
 ローブが風に揺らされると、胡座あぐらをかいてこちら側に向けられた、左の足裏が僅かに見え、赤くなっているのがわかった。

「クウメイ、怪我してる!」
「この程度、大したはない」

 心配で咄嗟に近くへ駆け寄った雫玖に、空冥は柔らかい表情を浮かべて見せた。

「ひとつ、話があるんだ」

 柔らかかった表情は一瞬で硬くなり、声のトーンも先ほどより少し落として、空冥が話を切り出した。

「私は雲に擬態したり操れると言ったな」
「うん」
「とは言ってもそこに見える雲に住んでいるわけではなく、天界という場所に住んでいる」
「天使とか、そういう…?」

 天界とは、この世界でも物語などで耳にする言葉である。
 しかし天界はいわば空想であり、ファンタジーに興味を抱いたことがない雫玖は、「天界=天使」という抽象的なイメージしかなかった。世間的にもおそらくそれが主流であり、雲などは聞き馴染みがない。

「天使…とは違うが、そういうものが存在する世界もあると聞く。私は、妖精というものに近いような気がするな」
「妖精…」
「まあ、つまり、私は人間界とは全く違う世界に存在するということだ。人間とも普通なら触れ合うことはない」
「じゃあ、どうして」
「シズクが私を見つけたから、来たんだ」

 それはおそらく、あの日見た雲を意味するのだろうと理解した。
 雫玖が見た"雲に乗っていた人"は幻覚なんかではなく、空冥の姿だったのだ。

「本題だが…ここに存在してはいけない私のことを、他に記憶されることは許されない。眠るとシズクの家族からは記憶の一部が消去され、既に『シズクの友達』という存在がなかったことになっているはずだ」

 思い返してみれば、母がバイトのことを話してきた時、泊まったはずの友達のことについては一切触れてこなかった。
 友達が帰った様子もなく雫玖がバイトに出たのなら、普通気にかけてもいいはずだ。
 空冥のこととバイトのことで、そんなこと気づく余裕などなかった。

「翌日私がいれば違和感を覚えるのではないかと思って、勝手に家を出てしまった」
「じゃあ、また一緒に帰れるの?」
「ああ、一緒にいたいな」

 微笑みながらもどこか儚げな表情を浮かべる空冥を見て、"妖精"という言葉に実感が湧いたような気がした。
 人間の姿ではあるが、いつ消えてしまってもおかしくないような雰囲気が漂わせ、「急に現れ消えてしまう」という、雫玖が妖精に抱くイメージに近いと感じた。

「僕、バイトで家にいない時間もあるんだけど、できれば家にいてほしい。部屋にいれば誰も入ってこないから」

 本来は人間ではないが、やはり今は人間の身体からだである。
 夕日に照らされ赤く見えるのだと思っていた空冥の白い肌は、夕日のせいではなく、顔全体が赤く染まってしまっていた。
 一日中太陽の日を浴びたのだから当然である。下手すれば熱中症にもなりかねないと思い、心配性な雫玖は自分の部屋にいるように提案した。

「わかった」


 また今日も、ふたり並んで帰路につく。空冥に靴を貸し、雫玖は靴下で歩く。そして奇異の目を向けられる。
 昨日となんら変わらない。
 しかし、心の距離だけは、ほんの少し変化があったように思う。

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