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65. 来訪
しおりを挟む皇宮に戻ると、すっかり秋を迎えていた。
琥珀宮の庭園も、秋の装いへと変化している。
すっかり暑さもなくなり過ごしやすくなったおかげで、重華はまた庭園で絵を描くようになった。
(陛下……?)
その日、重華は珍しく近づいてくる足音に気づいた。
おそらく晧月だろう、そう思って顔をあげたが、そこにいたのは見知らぬ男性だった。
重華には気づいていないのか、辺りをきょろきょろと見渡している。
(誰……?)
この場に、重華の知らない人が来ることなど、非常に稀なことだった。
不思議そうにその姿を眺めていると、向こうも重華の存在に気づいたらしい。
真っ直ぐと重華の方へと向かってくる。
「やっと見つけた。あんたが珠妃?」
問われて重華は目を丸くした。
見知らぬ相手が自身のことを知っていたことにも驚きだったが、知っていて尚、『珠妃様』と呼ばない人間も珍しかった。
(高貴な方なのかしら……?)
相手が誰なのかわからない。
どのように対応するのがよいのかもわからない。
重華はただ、その場で戸惑うことしかできずにいた。
「違うの?」
「い、いえ、違わない、です……」
焦れたように問われ、重華はようやく肯定した。
しかし、もう遅いけれど、明かしてしまってから、これで問題なかったのかという不安にも襲われる。
いろんなことが頭の中でぐるぐると回って、1人混乱の最中にあったけれど、目の前の人物は当然そんなことを汲み取ってくれたりはしない。
「へぇ……これが、あの、李 晧月の寵妃か」
まじまじと見つめられていたたまれない。
思わず視線を逸らすと、許さないとでもいうように顎に手をかけられ、無理やり顔を男性の方へ向けられる。
「ふーん……特別美人ってわけでもないけど、まぁ、悪くもないか……」
重華の顔を少し右に向けたり、左に向けたり。
いろんな角度から値踏みするように、見られている。
重華はただ、されるがままだった。
「あ、あの……っ」
「ああ、俺?李 舜永だよ」
とりあえず、放して欲しいと訴えようとしていたのだが、どうも違う伝わり方をしたらしい。
だが、名前も知らなかったので、これはこれでよかったと重華は思う。
(陛下と、同じ苗字……)
だからといって、関係があるとは限らないが。
態度からして、重華はものすごく高貴な人のような気がしたのだ。
「名前だけじゃわかんない?意外と知られてると思ってたんだけど……第三皇子だよ、先帝の」
「陛下の弟!?」
目の前の舜永まで、驚いて少し身体を引くほど、重華は大げさなほどに驚いた。
(しかも、帝位を争ってるっていう……)
晧月の、そして自身の父の敵、すくなくとも重華の中ではそう認識されている人物だ。
しかし、どこか遠い存在で、こうして自分が出会うことなど、想像もしていなかった人物でもあった。
「別に今さらそんなかしこまらなくてもいいよ。あんたも皇帝の妃ならそこそこ身分は高いわけだし、しかも丞相の娘だろ?」
慌てて立ち上がろうとした重華を、舜永はそう言って制した。
「その代わり、ちょっと話しない?」
できれば、あまりしたくはなかった。
けれど、上手く断れるような理由を見つけられず、重華は力なく頷いた。
「いくつ?」
「今年で、18歳です……」
「へぇ、俺と一緒か」
最初は、そんなたわいもない話題から、重華は舜永に質問攻めにされてゆく。
「ここで、何してたの?」
「絵を、描いてました」
見てわかりそうなものだけれど、そう思いながらも答えると、舜永は絵を覗き込んできた。
隠したいような気持ちも沸き上がってきたけれど、答えた手前そんなこともできず、重華は仕方なく舜永が見えるよう身体をずらした。
「ああ、これか。へぇ、上手いね。絵、描くの好きなの?」
「は、はい」
自分ではちゃんと習ったわけではないし、それほど上手いとも思ってはいない。
けれど、盲目的に褒めてくれそうな晧月や、春燕、雪梅など、身近な人以外に褒められたのははじめてで、重華はどこか気恥ずかしそうに頷いた。
「でも、丞相の娘が絵が得意だなんて、聞いたことないな……これだけ上手ければ、自慢しそうなのに」
それはそうだろう、と重華は思う。
丞相が娘と認めるのは、鈴麗ただ1人のみ。
鈴麗が絵が得意だなんて、重華だって聞いたことはない。
とはいえ、さすがに馬鹿正直にそんなことを言うわけにもいかず、重華はなんとかごまかそうと必死になる。
「あ、その……ここに来てから、はじめたので……」
「え?なに?丞相って、絵とか習わせてくれなかったの?」
「あ……その……」
「ま、いいや」
重華にそれほど興味がないのか、舜永はすぐに話題を終わらせてくれた。
しつこく聞かれなかったことに安堵し、重華はほっと息を吐いた。
「晧月から、俺のこと聞いたことある?」
「は、はい……」
皇帝である晧月を、名で呼ぶ人は少ない。
誰のことか思い当たるまでに少し時間を要しながら、重華はこくんと頷いた。
「なんて?」
「えっと、その……」
帝位を争う者同士、そんな言葉がぱっと重華の頭に浮かんだ。
けれど、やっぱりそんなことは言えない。
なんとも答えづらい問答が続く、と思わずにはいられなかった。
「口止め、されてんの?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「ふーん、でも、言えないんだ?」
「あ、あの、その……っ」
答えられない重華に対し、舜永はやっぱりそれ以上問い詰めることはなかった。
その代わり、再度いろんな角度からまじまじと見られる。
「丞相の娘で、最高位の妃。しかも、晧月の寵愛まで受けてる、って割に、想像と雰囲気違うな……」
どこか考えるような仕草で、呟くように言われた言葉だったが、それはしっかりと重華の耳にも届いた。
(どういう想像を、されていたんだろう……)
重華には想像もできないので、首を傾げるしかない。
わかるのは、ただ、自身は想像通りの妃ではなかったということだけだ。
「知ってる?晧月って、今まで、自分の妃嬪たちに見向きもしなかったの」
突然話題が変わったことに驚きながらも、重華はこくんと頷いた。
「それが、珠妃が輿入れした途端、珠妃にご執心だとか」
「えっと、その……」
「どうやって、寵愛を得たの?やっぱり、丞相の娘だから?でも、それだけで、あんたのためだけに、避暑にまで行ったりしないでしょ?」
やっぱり、どうも答えづらい問答が続く、と重華は思った。
(そんなの、私が知りたい……)
自身が寵愛される理由など、重華には未だ検討もつかない。
(避暑だって、別に私のためだけだったわけでは……)
あくまで自身はきっかけにすぎない、と重華は思っている。
けれど、舜永の様子はまるでそうだと確信しているようだった。
「あ、でも、夜のお渡りはあんまないんだっけ?ま、子ができない方が、俺にはありがたいけどね」
夜伽、という言葉が重華の中に浮かび、なぜか顔が熱くなるような気がした。
(私が、こわいって思ってるから……)
夜伽をすることも、子を生むことも、まだまだ重華には想像もつかない。
しかしながら、これもまた伝えるわけにはいかない。
「皇位第一継承者は、俺のままってことだから」
重華はふと、毒を盛られた時のことを思い出した。
(あの時、確か陛下は……世継ぎができないようにって……)
それが、第三皇子のためになるのだということを、重華はようやく理解した。
(陛下に御子ができない限り、次の皇帝はこの人なんだ……)
だったら、尚更、晧月は世継ぎが欲しいのではないかと重華は思う。
重華でも、他の妃嬪でも、とりあえず子を産ませてしまうこともできたはずだ。
(他の人は、敵対しているから駄目だったとして、私は……)
重華以外の妃嬪が力を持つことを歓迎していない、といった類の話は晧月から教えてもらっている。
けれど、丞相の娘であり、寵愛されてもいないのに寵妃だと見せていた自身なら、後宮内で力を持ってもよかったはずなのだ。
(それでも、待ってくださっているんだ……)
本当に大切にしてもらっている、重華はあらためてそう実感させられた気がした。
「やっぱり、寵愛のきっかけは方容華の一件?」
毒を盛られた時のことを思い出していただけに、舜永の言葉に重華は少しばかりびくりと肩を揺らしてしまった。
けれど、舜永はあまり気にしていないようだった。
「方容華様のこと、ご存知なのですか?」
「容華に敬称つけんの?自分が妃だって、自覚ある?」
「あ……っ」
しまった、と重華は慌てて口を押さえる。
すると舜永は、くすっと笑った。
(今の、ちょっと陛下に似てるかも……)
一目で兄弟とわかるほど、似たところがある二人ではなかったけれど。
笑った顔だけは、重華の中で晧月と重なるところがあるように思えたのだ。
「変わってるね、あんた」
そんな言葉さえ、口調は違うけれど聞き覚えがある気がした。
(陛下も、そんなこと、言ってたかも……)
一度思い起こせば、何かと晧月と重ねてしまうようだ。
「俺、後宮のことは、だいたい知ってるよ。情報は、いろんなところから入ってくるんだ」
舜永は非常に得意気だった。
「君が方容華に毒を盛られたことも、晧月が罰として同じ毒を食べさせようとしたのに、まさかの君が止めたことも。その結果、方容華が大事な情報を君に渡して、殺されちゃったことも」
「え……?ころ、された……?」
重華は一瞬、時が止まったような気がした。
舜永が何を言っているのか理解できない、理解したくない、そんな気持ちでいっぱいになる。
(ちがう、方容華様は出家されただけ……)
晧月は確かにそう言った、だから舜永の言葉は信じない、信じる必要がない、重華はすぐにそう自身に言い聞かせた。
すると、舜永は肩をすくめて笑みを漏らした。
「あ、そっか。表向きには、自殺ってことになったんだっけ?君にはそっちで教えられてるのか」
重華が聞いたのは、自殺ですらない。
どっちにしても、それだと方容華は死んでしまっている。
方容華は、今もどこかで元気に生きているはずなのだ。
(何を、言ってるの……?)
舜永の言葉は、明らかにおかしい。
重華はそう思うけれど、自信満々な様子の舜永を見ていると不安に襲われる。
「教えてあげよっか?方容華の、死の真相」
「ま、待ってくださいっ!方容華様は、出家されたはずでは……」
その先を聞いてしまうと、なぜか戻れない気がして、重華は慌てて止めた。
重華はまだ、方容華が死んだとは認識していない。
けれど、その先を聞いてしまうと、死を認めたことになってしまうような気がしたのだ。
(こいつ、晧月から知らされてないのか?)
一方の舜永は、わずかながらその表情に驚きの色を見せた。
晧月が今の今まで、死そのものを重華に隠しているなど予想だにしなかったのだ。
「晧月に、そう聞いたの?」
「はい」
「へぇ……」
おもしろいものを見つけた、と言わんばかりの表情で、舜永は再度まじまじと重華を見つめた。
重華はその視線に落ち着かさなを感じてもいたが、それ以上に他のことが気になって心中穏やかではなかった。
「隠した理由はなんだろうね?信用できないから?それとも、寵愛してるからこそ?」
やはり重華にとっては答えづらい、というかそもそも答えを知らない質問だった。
けれど、重華が答えを返せなかった理由は、別にあった。
認めたくなかったけれど、やはり方容華は死んでしまったというのが事実なのだと、重華は思わざるを得なかった。
その後、舜永は聞いてもいないのに、死の真相とやらを喋り始めたが、重華の頭の中には内容がほとんど入ってこなかった。
「あ、でも、この件の前から、寵愛されてたっけ?」
一通り話し終えた舜永が、ふと気づいたように問いかけてくる。
しかし、やはり重華は返答できなかった。
ただ、頭の中が真っ白になっていく感覚だけが、重華の中にあった。
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