上 下
2 / 6
第一章 夏への扉

あぜ道に響くカエルの歌

しおりを挟む
 あぜ道の両脇には無限とも思える田んぼが広がっていた。

 その向こうには抜けるような青空と、真夏を象徴するような入道雲が浮かんでいる。
 重なり合うカエル達の合唱の中を翔太と少女は歩く。
 バス停を後にした少女は微塵の躊躇いも無く、バス道から直角に外れるように山道に入っていった。山道はとても狭く、人が通行するのがやっとの幅であった。
 一緒に歩き出してすぐに気がついたのだが、少女は翔太より少し背が高かった。同学年の平均身長より背が低く、それにコンプレックスに感じている翔太は、自分より背が高い少女に僅かな羨ましさと負い目を感じた。

 彼女はそれに気づくふうも無く淡々と歩き続ける。
 少しの勾配を登り切って降りるとすぐに目の前が開け、今歩いているあぜ道にあたった。 もし車なら、歩いてきた山を大きく迂回することになり――そう考えると彼女の言った『歩くととっても近い』は、その言葉の通りなのだろう。

 「深沢さんは、どこから来たんですか?」

 隣を歩く少女が、ふと思いついたように質問をした。

 「東京から、だけど……」
 「東京? 随分と遠いところから来られたんですね」
 「うん……あ、でも、飛行機で来たからそれほどでも……」
 「そうなんですか」
 「う、うん……」

 翔太が曖昧に答えると二人の間の会話が途切れる。
 年が近いであろうという以外、少女との間に何の接点も無く、会話を続けようしてもどうしたらいいのかわからなかった。
 何とか話の糸口を探そうとするが、学校でもクラスの女子と喋るのが苦手な翔太にとって、それは想像以上に高いハードルであった。

 ――何かきっかけになるようなことを見つけなきゃ……

 そう焦れば焦るほど袋小路に入り込んでいく。
 沈黙の中に響き渡るカエル達の声に焦燥感を煽られる。

 追い込まれた翔太がふと少女に目をやった、その時――

 少女の麦わら帽子にあるものを発見すると大きく目を見開く。
 それは河童であった。
 少女の麦わら帽子の白いリボンには、可愛らしい河童のマスコットがつけられていた。
 マスコットは頭の上にあるお皿のお陰で河童と認識できるが、それが無ければ丸々とした緑色のヒヨコにも見えなくもなかった。
 翔太は考える間もなく言葉を発していた。

 「それ、可愛いね」
 「えッ?」

 唐突で大胆な翔太の発言に少女は驚きの表情を返す。
 どうやら彼女には『可愛いね』の部分しか聞こえていなかったらしく、翔太が河童のマスコットのことを言っているのに気がついていないようであった。

 「いや、あの……」

 自分に向けられた戸惑いと不安の視線に慌てて手を振ると、翔太はゆっくりと少女の麦わら帽子を指差す。
 その指の動きを目で追う少女は翔太の意図を理解したのか……確かめるようにゆっくりと問いかけた。

 「河童……ですか?」
 「うん」

 正解、というように翔太は頷く。
 少女は安堵に胸を撫で下ろすと、勘違いに頬を染めた自分を恥ずかしがるように小さく口元を綻ばせた。

 「箕里のマスコットなんです」
 「マスコット?」

 おうむ返しに問う翔太に、少女が頷いてみせる。

 「最近、箕里で河童を見たって言う人がいっぱい出てきて……昔から河童の言い伝えはあったんですけどね」

 少女は笑みを浮かべたまま先を続けた。

 「雑誌とかテレビの取材とかもいっぱい来て……じゃあ、いっそのこと箕里の名物にしてしまおうっていうことになったんです」
 「そうなんだ……」
 「ぬいぐるみにストラップ、河童まんじゅう……来月には、ゆるキャラの『カッパー君』なんていうのもデビューするって言ってたけど、いつまで続くのか……」

 楽しげに説明していた少女が僅かに瞳を曇らせると、溜息交じりに締めくくった。
 彼女の見せた微かな憂いに気づくふうもなく、翔太が真剣な眼差を少女に向ける。

 「それ、なんだ」
 「それって?」
 「僕がここに来た理由」

 怪訝な眼差しで見る少女に答える。

 「ネットの都市伝説のサイトで、ここの河童の目撃情報を見つけたんだ。最近、目撃者が急増してて、ちょっとしたブームになってるって……」
 「それで、東京から来たの?」

 少女が好奇を隠すことも無く問うと、翔太は大きく頷く。

 「僕、昔から超常現象とかSFとか科学とか、そう言うのが大好きで……ちょっとしたオタクなんだ」

 瞳を輝かせて熱く語る翔太とは対照的に、少女はキョトンとした表情を浮かべていた。

 「そうなんですか……」
 「うん、痛い人に思うかもしれないけど……」

 恥ずかしそうに頭を掻くと、勢いに任せて話し過ぎたことを後悔した。
 これまでに何度となくこの手の話をしてきた翔太は、その受け手がどんな顔をし、どのようなリアクションを取るのかを身を持って知っていた。
 興味深く聞いてくれる人も稀にはいたが、大抵の人は冷やかな目を向けると、複雑な笑みを残して自分との距離を置こうとした。わかりやすく言えばドン引きである。
 今、少女が自分に向けている視線もその類なのだろうか……
 自身が、自嘲気味に例えた『痛い人』を通り越して『変人』や『近寄ってはいけない人』レベルまでいかなければいいのだが……
 出会ったばかりで嫌われることだけは何とか回避したい。
 そう危惧する翔太に対して、少女は予想外に思える穏やかな笑顔を向けた。

 「なんか納得しました」
 「納得?」
 「こんな何もないところに東京から一人で来た理由……です」

 緊張気味に問う翔太に、少女は無邪気に笑う。

 「大阪だったらやっぱりUSJとか、そっちに行くんじゃないかって思ってたから……」
 「だよね……」

 素朴な疑問を口にした少女に、少しほっとしたようにはにかんでみせる。
 最悪なケースを避けられたことへの安堵、翔太の『オタク』に対し、彼女が今のところ特別な感情を抱いていないこと――あと、自分のことを僅かでも気にかけていてくれたことが嬉しくなって零した笑みであった。
 そんな翔太の心情を知る由もなく、少女が笑みを重ねると、二人の間に和やかな空気が流れた。
 『河童』という共通のキーワードのお陰で会話が弾むと、翔太の中にも少しの余裕が出てくる。

 「あの、本当はね……」

 翔太が意味ありげにそう切り出すと、少女は好奇心に満ちた瞳で覗き込む。

 「本当は?」
 「本当は……」

 その瞳に応えようと口を開いた翔太であったが、ふと思い出したように頭を振る。

 「ううん、何でもない……」

 少女から視線を外すと、この話はおしまい……と、いうように強引に幕を下ろした。
 翔太が箕里――大阪に来ることになった当初の理由は別にあったのだが、それを一から話し出すと、翔太自身の複雑な家庭環境のことも説明しなければならなくなる。
 でも、それは出会って間もない相手に語る話題としては重すぎて適切では無いような気がした。それを打ち明けられるほど、自分と少女は親しい間柄では無い。
 最低限、今のところは……
 答えを聞かぬまま一方的に話題を打ち切られた少女は不満そうに眉をひそめる。
 でも、すぐに含みを持たせた笑みを浮かべると、上目遣いで翔太に尋問していた。

 「ひょっとして……失恋旅行とか?」
 「そ、そんなんじゃないよ、絶対に!」

 翔太が瞬時に全否定すると、慌てて何度も首を振った。

 「冗談ですよ」

 耳たぶまで真っ赤にしている翔太に、少女が悪戯っぽく微笑む。
 翔太はその笑顔に応えようとするが、引きつった笑いしか出てこなかった。

 「河童なら、滝道の方でよく目撃されているみたいよ……」

 話の軌道修正、というように少女が切り出すと右手に見える箕里山を指差した。

 「うん、掲示板にもそう書いてあったから、あとで行ってみようと思って」

 少女の指差す箕里山の向こうに箕里川があり、川沿いの滝道を上ると観光名所でもある箕里の滝がある。ネットである程度調べていた翔太は、滝道の画像を思い浮かべながら少女とのイメージを共有させた。

 「滝道なら歩いて十分くらいかな……またあとで観光マップ、お渡ししますね」
 「ありがとう」

 翔太が笑顔で礼を言う。観光マップが貰えることよりも、宿に着いてからも少女とコンタクトする機会があることの方が嬉しかった。

 「あ、あのさ……」

 翔太がふと大切なことを思い出すと質問しようとする。
 が、それを遮るように少女が嬉しげに声を上げた。

 「さ、着きましたよ」

 少女はあぜ道の先に見えている一件の家を指差すと、自分達が目的地にたどり着いたことを告げていた。

 「あれが星野屋です」
しおりを挟む

処理中です...