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[-00:25:24]消せない春で染めてくれ
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律のバイト先は律の母方の叔父が経営するジャズバー『Midnight blue』だ。
高校から家まで間を途中下車して、雑踏としたネオン街の外れにそれはある。
律は叔父から預かっている鍵で裏口のドアを開け、店の中へ入った。
さほど広くない店内にはお客用のテーブルとイスが数組程度あり、淡いライトで照らされた小ステージには窮屈そうにグランドピアノが鎮座している。カウンター側には名前も知らないボトルがずらりと並んでいる。
「やるか」
律は制服のジャケットを脱ぎ、腕まくりをして深呼吸をした。かぎなれたウィスキーのつんとした香りが鼻を掠める。
スマホで時間を確認すると17時を回っていた。
仕事の内容は簡単な雑務だ。掃除と洗い物ほどであとは自由にしていいと叔父から言われている。
まずは床掃除から始めるか、と律はモップを取りにスタッフルームへ向かった。
✳︎
音楽に限らず、創作というものは厄介なものだ。
一度行き詰まるととことん進まなくなる。ひねり出そうとすればするほど暗雲立ち込める。
律にとってそれは、まるで出口のない帰路を延々と歩かされているような気分だった。
「ああああ、びっくりするぐらいなんも思い浮かばない……」
律は目の前にあるPCのピアノロール画面を睨みつけ、思いっきり頭を掻きまわした。昨日と全く変わらない画面を見るのすら嫌になってきて、天井を見上げた。少しだけ埃っぽい匂いがする。
この部屋はもともとリハーサル室として用意されていた部屋だ。が、ほとんど使われず物置と化していた。無造作に積まれたレコードやら使われていない楽器やらが山積みになった部屋の一角に無理やりPCと電子ピアノを置いている。ほんの二畳ほどのスペースが律の作業部屋だ。
諸事情あって自宅で作業が出来ないため、律は無理を言って叔父に頼んだのである。バイト代の代わりとしてこの一室を提供してもらうことを条件に。
スマホを確認すると、作業を開始してからすでに3時間は経っている。
コンビニでも行って気分転換でもしよう、と肩を回しながら立ち上がった。
ドアを開けると、耳心地のいい落ち着いたピアノの旋律が鮮明に聞こえてくる。
店内へ顔をのぞかせると、見知った常連客達がグラスを傾けながら各々演奏に耳を傾けている。
バーカウンターには律もよく顔を合わせる常連の老年男性がいた。その男性と話に花を咲かせていたバーテンダーの男が律に気付く。
「おっ、律。精が出るな」
「和久叔父さん」
今年で50とは思えない人懐っこい笑顔のバーテンダーの男は、律の母方の叔父であり、このジャズバーを経営する店長の朝川和久だ。
「どうよ、順調か?」
「……まあ。割と」
「うはは、嘘こけ。調子いい時の顔じゃねえだろ、お前」
律が生まれた時からの付き合いなだけあって、叔父にすぐさま嘘を見破られたことに律は口を尖らせる。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「まだ寒いからなんか羽織って行けよ」
「はいはい」
「あと歯磨き粉も買ってきてくれ。一番すーすーするやつ」
「手数料取るけど?」
「お前バイト代減らすぞ」
叔父との軽口もそこそこに老年男性に軽く会釈して立ち去ろうとして、彼に引き留められた。振り返ると老年男性が柔らかく笑みを浮かべ、ただ一つだけ質問をした。
「音楽は楽しいかい?」
律はただ何も言えないまま、ぎこちない曖昧な笑みを返してその場を後にした。
✳︎
春の夜が律は一番好きだった。
コンビニまでの道沿い、桜並木には一面桜の花びらが落ちて桜色の絨毯が広がっている。
まだ背筋をなぞるような寒さに思わず背を丸めながら、たどり着いたコンビニで眠気覚ましのコーヒーとチョコレイトの菓子を購入する。店内は店員と律以外は誰もいない。律はイートインスペースのイスに腰を下してひと休みすることにした。
律はコーヒーを一口飲んでから、スマホで自分の動画サイトのチャンネルを開いてみる。投稿した曲をタップする、相変わらず再生回数は100回にも満たない。コメントも律のものを抜けば一件だけ。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
何度も読み返した。たった20文字の感想を、行き詰るたび読み返した。
初めて投稿した曲から今日まで約1か月程度たったが、次回作はいまだに完成していない。
(この人は、俺の曲が投稿されるのを待っていてくれるだろうか。期待して待っていてくれているだろうか)
何気なく、その人のアイコンをタップしてアカウントを見てみる。
アカウント名は『透』。
想像通りなにも投稿していないROM専用のアカウントだった。ただ、紹介文にURLのリンクが貼ってある。そこをタップし、しばらくダウンロードが終わるのを待っているとSNSのサイトに繋がった。
フォロー数もフォロワー数も30人ほどしかいないアカウントだ。同じく名前は『透』。
あまり更新していないようだ。ぽつりと一言程度の投稿が続いている。読み飛ばしながらスクロールして、律はぴたりと指を止めた。文章はない。ただ画像が一枚投稿されているつぶやきがあった。律はその画像をタップして拡大させる。
「あ」
思わず声が出た。……この気持ちをどうやって言葉に表せばいいか、分からなかった。たった一言のコメントが死ぬほど嬉しいというなら、今度はいよいよ本当に死んでしまうかもしれない。
そのイラストの投稿日は3月9日。
薄花色を真っ暗な夜に上から数滴溶かしたような背景に一人の少女を頼りない月光が照らしている。胸元を握りしめ、酸素のない息すら吸えない世界でそれでも歌おうとする少女。
そんなイラストだ。そしてそれは、律が作曲した歌詞のワンフレーズを切り取ったものだとすぐに分かった。
心臓が早鐘を打っている。律の頭の中で空中分解していた音たちが一斉に整列し始める。
頭の中に音たちを書き写さなければ手のひらから溢れて零れてしまいそうだ。
律は慌てて残りのコーヒーをあおった。熱すぎて少しだけ咽る。しかしその熱さを忘れるほどの高揚感が律を支配していた。
あれほど行き詰っていた曲の続きが動き出していく。
早く。早く、鍵盤を叩かなければ!
この音たちが逃げてしまわないように。
ひと音も逃してしまわないように。
店員からの奇異の視線にも構わず、律は飲み干したコーヒーカップをゴミ箱に放り投げて店内を出る。
次第に足が駆けていく。息苦しくなるほどの早さで春の夜を走り抜ける。
律の夜はまだ始まったばかりだった。
高校から家まで間を途中下車して、雑踏としたネオン街の外れにそれはある。
律は叔父から預かっている鍵で裏口のドアを開け、店の中へ入った。
さほど広くない店内にはお客用のテーブルとイスが数組程度あり、淡いライトで照らされた小ステージには窮屈そうにグランドピアノが鎮座している。カウンター側には名前も知らないボトルがずらりと並んでいる。
「やるか」
律は制服のジャケットを脱ぎ、腕まくりをして深呼吸をした。かぎなれたウィスキーのつんとした香りが鼻を掠める。
スマホで時間を確認すると17時を回っていた。
仕事の内容は簡単な雑務だ。掃除と洗い物ほどであとは自由にしていいと叔父から言われている。
まずは床掃除から始めるか、と律はモップを取りにスタッフルームへ向かった。
✳︎
音楽に限らず、創作というものは厄介なものだ。
一度行き詰まるととことん進まなくなる。ひねり出そうとすればするほど暗雲立ち込める。
律にとってそれは、まるで出口のない帰路を延々と歩かされているような気分だった。
「ああああ、びっくりするぐらいなんも思い浮かばない……」
律は目の前にあるPCのピアノロール画面を睨みつけ、思いっきり頭を掻きまわした。昨日と全く変わらない画面を見るのすら嫌になってきて、天井を見上げた。少しだけ埃っぽい匂いがする。
この部屋はもともとリハーサル室として用意されていた部屋だ。が、ほとんど使われず物置と化していた。無造作に積まれたレコードやら使われていない楽器やらが山積みになった部屋の一角に無理やりPCと電子ピアノを置いている。ほんの二畳ほどのスペースが律の作業部屋だ。
諸事情あって自宅で作業が出来ないため、律は無理を言って叔父に頼んだのである。バイト代の代わりとしてこの一室を提供してもらうことを条件に。
スマホを確認すると、作業を開始してからすでに3時間は経っている。
コンビニでも行って気分転換でもしよう、と肩を回しながら立ち上がった。
ドアを開けると、耳心地のいい落ち着いたピアノの旋律が鮮明に聞こえてくる。
店内へ顔をのぞかせると、見知った常連客達がグラスを傾けながら各々演奏に耳を傾けている。
バーカウンターには律もよく顔を合わせる常連の老年男性がいた。その男性と話に花を咲かせていたバーテンダーの男が律に気付く。
「おっ、律。精が出るな」
「和久叔父さん」
今年で50とは思えない人懐っこい笑顔のバーテンダーの男は、律の母方の叔父であり、このジャズバーを経営する店長の朝川和久だ。
「どうよ、順調か?」
「……まあ。割と」
「うはは、嘘こけ。調子いい時の顔じゃねえだろ、お前」
律が生まれた時からの付き合いなだけあって、叔父にすぐさま嘘を見破られたことに律は口を尖らせる。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「まだ寒いからなんか羽織って行けよ」
「はいはい」
「あと歯磨き粉も買ってきてくれ。一番すーすーするやつ」
「手数料取るけど?」
「お前バイト代減らすぞ」
叔父との軽口もそこそこに老年男性に軽く会釈して立ち去ろうとして、彼に引き留められた。振り返ると老年男性が柔らかく笑みを浮かべ、ただ一つだけ質問をした。
「音楽は楽しいかい?」
律はただ何も言えないまま、ぎこちない曖昧な笑みを返してその場を後にした。
✳︎
春の夜が律は一番好きだった。
コンビニまでの道沿い、桜並木には一面桜の花びらが落ちて桜色の絨毯が広がっている。
まだ背筋をなぞるような寒さに思わず背を丸めながら、たどり着いたコンビニで眠気覚ましのコーヒーとチョコレイトの菓子を購入する。店内は店員と律以外は誰もいない。律はイートインスペースのイスに腰を下してひと休みすることにした。
律はコーヒーを一口飲んでから、スマホで自分の動画サイトのチャンネルを開いてみる。投稿した曲をタップする、相変わらず再生回数は100回にも満たない。コメントも律のものを抜けば一件だけ。
『ほんの少しだけ、自分を許そうと思えました』
何度も読み返した。たった20文字の感想を、行き詰るたび読み返した。
初めて投稿した曲から今日まで約1か月程度たったが、次回作はいまだに完成していない。
(この人は、俺の曲が投稿されるのを待っていてくれるだろうか。期待して待っていてくれているだろうか)
何気なく、その人のアイコンをタップしてアカウントを見てみる。
アカウント名は『透』。
想像通りなにも投稿していないROM専用のアカウントだった。ただ、紹介文にURLのリンクが貼ってある。そこをタップし、しばらくダウンロードが終わるのを待っているとSNSのサイトに繋がった。
フォロー数もフォロワー数も30人ほどしかいないアカウントだ。同じく名前は『透』。
あまり更新していないようだ。ぽつりと一言程度の投稿が続いている。読み飛ばしながらスクロールして、律はぴたりと指を止めた。文章はない。ただ画像が一枚投稿されているつぶやきがあった。律はその画像をタップして拡大させる。
「あ」
思わず声が出た。……この気持ちをどうやって言葉に表せばいいか、分からなかった。たった一言のコメントが死ぬほど嬉しいというなら、今度はいよいよ本当に死んでしまうかもしれない。
そのイラストの投稿日は3月9日。
薄花色を真っ暗な夜に上から数滴溶かしたような背景に一人の少女を頼りない月光が照らしている。胸元を握りしめ、酸素のない息すら吸えない世界でそれでも歌おうとする少女。
そんなイラストだ。そしてそれは、律が作曲した歌詞のワンフレーズを切り取ったものだとすぐに分かった。
心臓が早鐘を打っている。律の頭の中で空中分解していた音たちが一斉に整列し始める。
頭の中に音たちを書き写さなければ手のひらから溢れて零れてしまいそうだ。
律は慌てて残りのコーヒーをあおった。熱すぎて少しだけ咽る。しかしその熱さを忘れるほどの高揚感が律を支配していた。
あれほど行き詰っていた曲の続きが動き出していく。
早く。早く、鍵盤を叩かなければ!
この音たちが逃げてしまわないように。
ひと音も逃してしまわないように。
店員からの奇異の視線にも構わず、律は飲み干したコーヒーカップをゴミ箱に放り投げて店内を出る。
次第に足が駆けていく。息苦しくなるほどの早さで春の夜を走り抜ける。
律の夜はまだ始まったばかりだった。
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