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[-00:16:08]劣等犯
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しおりを挟む「……あーくそ痛ってぇ、口ン中切れてるわ」
未だ熱を持つ頬を押さえ、律は苦々しく眉を寄せた。口を濯いだ後もなお、鉄の後味が口の中に広がって、最悪なハーモニーを奏でている。
洗面所を出て、店内へ続くドアを開ける。
すると、通せんぼするように横から不意に差し出されたのは、白いタオルだ。その手を辿って視線を上げれば、顔色一つ変えず澄ました表情の纏が立っている。数分前に平手打ちを食らわせた人間の表情とは思えぬほど、冷静そのものである。
律は無言のままタオルを受け取り、軽く顔を拭く。
「今頃、透花がにちかを上手く説得してくれてるだろうし。ま、お前は謝罪の文言でも考えとけば?」
「……ん」
それだけ返答して、纏の横を通り過ぎて、律はカウンター席に腰を下した。
きい、とカウンター席が回って金属音が店内に鳴り響く。その音を最後に、店内は静寂に包まれた。
その沈黙の最中、律は数秒間の熟考の末、苦渋に満ちた暗い顔つきを隠すように両手で押さえた。
「……冷静に考えたら、自分の都合で他人に八つ当たりしたうえに、年下中坊からガチ正論で説得されて、おまけにそのフォローを仲間に押し付けてる俺って……、控えめに言ってやばくない?」
「よくわかってんじゃん」
ありのままの真実を肯定する裏表のない声音で纏は、即答した。
「即答やめろや。流石にメンタル死ぬぞ俺」
「敬意をこめて、クソ雑魚って呼んでいい?」
「悪意の間違いじゃん。……くそ! 今までの自分が情けなさ過ぎて、その不名誉なあだ名が否定できないわ。クソ雑魚とかまんま俺のことじゃん!」
大きく息を吐いて、律は天井を仰ぎながら頭を掻きまわす。
自己嫌悪に塗れ、普段の律からは想像できないほど取り乱す様子を目の当たりにし、纏は少し呆気に取られる。いつも通りの暴言はどうやら律にはかなり堪えるらしい。
罪悪感に似た気持ち悪さが心を掠め、纏はそれを振り切るように律の横の席へ乱暴に腰を下す。その音に驚いた律が振り返る。
「うおっ、いきなりなんだよ!?」
「……も、……」
「は?」
「……、悪か……」
「何?」
纏にしては歯切れ悪くぼそぼそと口の中だけで喋るせいで、聞き取れない律は、片耳を纏側に寄せた。
「───っ、だぁから!! 僕も悪かったっつってんの!!」
「うるさっ! 急に叫ぶなよ耳壊れるわ!」
「クソ雑魚のくせに何度も聴き返すからだろうが!」
「はあ~? 理不尽の民はお前は。……てか、今なんて?」
耳を押さえながら律は、纏の方を振り返るが、纏はそのままさっとその視線から逃れる。何度か目線が合うように追いかけてみるが、ムキになったのか纏は頑なに顔を逸らし続ける。しかし、その耳が熟れた林檎のように真っ赤に染まっていることに、纏は気づいているのだろうか。まさに頭隠して尻隠さず、である。
「ああもう!! しつこい!」
いよいよ沸点超えた纏が、律の座っている椅子の柄の部分を蹴り上げる。対して威力もない強さが、律の椅子がくるりと回転して物理的に纏に背を向けさせられた。
これは少し揶揄い過ぎたな、と律は肩を落とす。
しばらくして、いつもの強かで冷静な纏からは想像できないほど弱弱しく、小さな声で囁くように言った。
「……今回の件、僕も、…………悪かった。ごめん」
数秒ほど呆けた後、律はようやく理解が追いついてきて、ああ、と納得した。
「透花にそう言えって言われたんだろ」
「ぐ」
忌々しさを滲ませて纏は言葉を詰まらせた。その反応だけで、律が想像した通りの正解であることは明白だった。
「…………確かに、そう言われたけど、ちゃんと本心で思ってる。だから、今言ったんだ。『ITSUKA』と『mel』のコラボの件、僕の独断で決めてこうなっちゃったし、少なくともお前には先に相談すべきだった、と、反省、してる。……ごめん」
「ぶっ」
思わず律は吹き出した。堪えていた笑いを噴き出すと、もう止まらない。律は腹を抱えて爆笑する。
「しおらしい纏とかっ、似合わねー!」
「んな!?」
「はークソ笑えるわ。やべ、動画とか撮っとけばよかったぁ。透花に見せたらなんて言うかな~?」
目尻から零れる涙を拭いながらそんなことをのたまう律の背中を、いよいよ堪忍袋の緒が切れた纏が思いっきり蹴り上げた。背中にスニーカーの足跡をべったりとつけて、律の身体は勢いよく前方に吹き飛ばされる。
無様に床へ倒れこんだ律が肩をぷるぷると震わせ、両手をついて上半身だけ振り返る。律の最大限の威圧をこめた睨みは、それを見下す絶対零度まで冷え込んだ冷めきった瞳の前には無力だった。
「……お前な」
「知らね。僕じゃないもん」
「……さっきまでのしおらしい纏くんはどこ行ったんだ?」
「そんな纏くんはいない」
「あーあ。儚い幻覚だったな。……ま、でも、そっちのがいいや。偉そうにしてるお前のが、らしくて。じゃないと張り合いねーし」
何も言い返せないでいる纏のことなど気にする様子もなく、律は立ち上がって膝についた埃を払う。
「纏は、纏の仕事した。だから、それに関して俺から纏を責めるようなことは別にないよ。お前がそうした方がいいと思ったことなら、事前に報告されてても結局、了承しただろうし。今回の件、悪いのは全部俺だよ。ただ、俺が弱かったってだけ」
「それも含めて予測できなかった僕の采配ミスだ」
「お前なぁ、責任感強すぎ。もう少し気楽に考えろよ。ストレスで禿げるぞ」
揶揄い交じりにそう言って、幾らか律の目線より下にある纏の頭に手を乗せた。
しかし、その手は軽くいなされた。律の手が虚空を掻く。代わりに生意気な瞳がじろりと律を見上げた。その瞳があまりに揺るぎないから、律はたじろぐ。
「この世界に責任の生じない仕事なんか存在しねえよ。無責任が許されるのは、ガキのお遊びまでだ。……律にとっての『ITSUKA』はどっちなの?」
年下だと侮るには、纏の言葉ひとつひとつが片手で受けるには重い。
律は自分の甘さを思い知らされる。纏が律に求めるものは、慰めや庇いの言葉などではなく、対等に向き合うことだと。
「……ごめん。今のは、無責任な発言だった」
「別に。分かってくれれば、それでいい」
「……纏ってさ、ほんとに中学生? 俺が中坊のころなんて、将来のこととか、仕事のこととかなーんにも考えてなかったってのに」
「だろうね」
「お前ほんっとに可愛げないな」
今更そんな可愛げ発揮されても困るけれど。
纏はくすりと鈴の音を転がすように笑い、律に問いかける。
「律はさ、見たことある?」
「何を?」
「───誰しもが息を呑むほどに優れた才能が、クソみたいな理不尽を前にして無残に砕ける瞬間」
きい、とカウンターチェアが空回りする。
再び元の席に腰を下そうとしてた律は、その意味深な台詞に思わず纏の方を振り返った。しかし、まだ幼さを残した輪郭に髪が降りかかって、その表情を窺い知ることはできなかった。
「僕は、それを知ってる」
纏はその瞬間を、見た。
その理不尽を、知っている。
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