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カイウサギの刺青

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彼等には刻まれていたという。おぞましい魔獣の刺青が…。

「カイウサギの刺青」

その女は、思い込みの激しい女だった。職業柄、そうなっていたのかもしれない。

女は、人に魅せる職業、踊り子だった。

人に魅せる職業なのだから、自身を着飾るのは当然のこと、女は、自身を美しく魅せる努力を何一つ惜しまなかった。だから女は、歳を重ねても綺麗でいられた。

-月夜-

女が、舞台に上がった。

歓声が上がった。どこからか聴こえてくる軽快な音楽に、女の興奮は高まった。女は、軽快な音楽で、自身を踊らせた。観客達の視線は、女に釘付けだった。

女は、それが快感で堪らなかった。

誰かが私を見ている、誰かが私に魅了されている。女は、軽快に躍りながらも、観客一人一人の眼を見ていた。

それは、観客の視線の先にいるのが、自分だと確かめる為だった。

だから、その観客の視線の先に自分がいないと思うと、無性に腹が立った。

女は楽屋に戻ると、いつものように、後輩の踊り子達に仕事の愚痴を溢した。 

「私から視線を逸らしていた男がいたんだけど、あいつ、何なの?」

踊り子達は返答に困っていた。
 
若い踊り子が女を怒らせないように言った。

女が黄金像のように美しく、眩しいから、その男は眼を逸らすのだ、と。

また、この子はいい加減な事を…と誰もが思っていた。

だが、女は、ああ、そうゆう事ねと、若い踊り子が言った言葉を真に受け、自分なりに納得していた。

踊り子達は、内心思っていた。

この女の思い込みの激しい性格のおかげで、自分達は一時的には救われているが、そのせいで自分達はとても苦労していると。

それを一時的に抑えてくれるのが、この若い踊り子なのだが、こいつもなかなかの性悪で、この女の思い込みの激しい性格を利用して頂点までのしあがろうとしている。

全く、綺麗なのは見た目だけの世界で、中身はドロドロ…

踊り子の華やかさに憧れてこの世界に足を踏み入れた者達は、舞台の裏側を見て、酷く後悔していた。

そんな時だった。

女が、今夜の仕事を終えて、楽屋から出ようとすると、支配人の女が楽屋に入ってきて、踊り子達に言った。

それは最近ちまたを騒がせている、包帯男、出没についての事だった。

「包帯男」

その名の通り、包帯で全身をぐるぐる巻きにした奇妙な男の事で、その男は夜道を歩く女性を狙い、闇の中で待ち伏せ、襲い掛かかると噂されている… 

だがそれは、本当に噂だけの話で、実際は被害者の殆どが何事も無かったかのように、その場で解放され、命拾いする。

では、この事件、どの点に注意すればよいのか、それはこの事件に便乗して起こる別の犯罪にあった。

支配人は、踊り子達に指名手配書のようなものを配り終えると、踊り子達に言った。

「あなた達は商品、商品は傷つけられたら二度と売りには出せません、この意味、分かりますよね、だから、自分の身は、自分で守るように」

支配人はそう言い残して、楽屋から出ていった。

踊り子達は、互いの顔を見合せていた。蒼白い顔になった踊り子が、不安そうに言った。どちらの事件に遭遇しても、結果は同じ、職を失う事になる、厄介者は職場には必要ないと。

女は、それを聞いてゾッとしていた。

女は、思った。

若い踊り子達は、新しい職を探せば、なんとか生きていけるが、自分は違う、若くもなければ、生きる術も限られてくる、と。 

女は、下唇を噛み締め、何やら対策を考えていた。

どうすれば、この事件に遭遇しないで、この世界で生き残れるか。

女は、指名手配書のようなものを鞄の中に入れると、黙って楽屋から出ていった。

―夜道―

女は、なるべく一人にならないよう、帰り道に人通りのある場所を選んで帰っていた。

だが、今は真夜中、人通りがあったとしても、その人通りが安全とは限らない。

むしろ、真夜中の人通りはかえって危険。

女は、ここでも思い込んでいた、一人にならなければ安全だ、と。

女は、夜の公園に足を踏み入れていた。

―夜の公園―

女は、夜の公園に響く「もうひとつの靴音」に気付くと、後ろを振り返った。

女は、眼を見開いた。

そこにいたのは闇色のコートを身に纏ったボサボサ髪の男だった。

女は、表情を強張らせた。

女は、鞄を握り締め、その眼を見開いたまま、前を向いた。

女は、震えながら歩いた。

男の靴音は段々と女に近付いてきた。

女は、これが包帯男の仕業だと思った。

女は、点滅する街灯を過ぎた所で突然走り出した。

男の靴音も激しくなった。

公園の出口が見えた所で、女は、闇の中に潜んでいたもうひとりの男に捕まった。

女は、悲鳴を上げた。

だが、助けなんて来なかった。

ここはそんな場所だった。

女は、その男に押し倒された。

女は、この時、気付いた。

こいつは違う、包帯男じゃない、と。

男が、女に牙を剥いた時、先程のボサボサ髪の男が、女に近付いてきた、そして…

男を殴り飛ばしてくれた。

男は、突然の事に慌てふためき、その場から逃げ出した。

ボサボサ髪の男は、女に手を差し伸べ、女を立たせた。

ボサボサ髪の男は、この時の、綺麗な女の眼を見て、呟いた。

やっと、眼を合わせられた、と。

ボサボサ髪の男は、そう呟いて、その場から去っていった。

-次の日-

女が楽屋に入ると、女の化粧台の上に、一通の手紙と分厚い本が開かれたまま置かれていた。

手紙にはこう書かれていた。

あなたの眼を見た時から、僕は恋に堕ちていました、だから今夜も、あなたを遠目から見ています、と。

女は、表情を強張らせた。

女は、思い込んでいた。

この手紙があの「変態男」の仕業だと、だから女は、手紙を最後まで読まずに、くずかごに捨ててしまった。

女は、次に分厚い本に眼を向けた。

そこには黒文字で「カイウサギの刺青」と書かれていた。

これもどうせあの変態男の気色の悪い贈り物のひとつ、だから女は、これも捨ててやろうと思った、その時だった。

若い踊り子が楽屋に入ってきた。

若い踊り子は、分厚い本を捨てようとしていた女に言った。

「その分厚い本、姉様のだったのですね、私も、読んでもよろしいでしょうか?」

女は、曖昧に頷いた。

若い踊り子は、女から手渡された分厚い本を開くと、女の化粧台に座り、口に出して読み始めた。

女は、思っていた。

そんな気持ちの悪い本、別に読まなくてもいいのに、と。

女は、自身を綺麗に着飾りながらも、その物語をしっかりと聞いていた。

女は、口紅を塗り終えると、若い踊り子に分厚い本を捨てるように言った。

「さぁ、もう、充分読んだでしょう、その分厚い本を捨ててちょうだい」

若い踊り子は、嫌々その分厚い本を くずかごに捨てた。

-幻惑の舞台-

女が舞台に上がると、いつものように歓声が上がった。女は、いつものように軽快に自身を踊らせた。女が、回転木馬のように回転していると、女の脳裏に誰かが囁いてきた。

【自身を窮地に追い込む、美しき獣よ、己を追い込む者の正体に気付かなければ、己の隠謀によって喰われるだろう、助かりたければ、追い込まれる者から、追い込む者へと変われ、そうすれば、長き時を追い込め続けられるだろう、だが忘れるな、最期にお前を追い込むのは、お前ではない、罪人の肉を求める、血に飢えた猛犬達だ】

女は、舞台から転落した。

そして、全治二ヶ月の怪我を負った。女にとってその二ヶ月は痛手だった。

-二ヶ月後-

女は、華やかな舞台を 遠目から見る存在になっていた。だから、舞台上で軽快に踊る、踊り子達が羨ましくて 妬ましくて仕方無かった。

女は鞄から、包帯男の指名手配書のようなものを取り出すと、それを冷たい表情で見ていた。そして、呟いた。

「あなたのせいよ…」

女は、思い込んでいた、他人のせいで自分の人生が奪われたと。

-次の日-

支配人が楽屋に哀しい知らせを持って入ってきた。今朝、公園で男女の死体が発見されたらしい、一人は、若い踊り子の死体で、もう一人は包帯男の事件に便乗していた男の死体だった。

支配人は踊り子の死を哀れんでいた。

支配人が楽屋から出ていくと、栗色の髪の踊り子が言った。 

包帯男の事件に便乗していた男が死んだのよね、つまり、包帯男の事件に便乗して、犯罪を犯している奴がまだ他にいるって事?

女は、この栗色の髪の踊り子の事を 睨んでいた。

-次の日-

栗色の髪の毛の踊り子が、自宅で死体として発見された。

詳しい死因は不明だが、全身を包帯でぐるぐる巻きにされていたという。

明らかにこれは包帯男の事件に便乗した者が犯した別の犯罪である。

誰もがそう思い始めていた。

女は、苦く思っていた。

包帯男に罪を着せるはずが、それが裏目に出てしまった、と。

このままではいけない。

女は、下唇を噛み締め、次なる対策を考えていた。

そうだ、自分自身が包帯男の餌食になれば、自分を疑う眼は別の誰かに向けられるはず。

女は、踊り子の死を哀れむ踊り子達の傍で、自身を綺麗に着飾り始めていた。

踊り子達は気づき始めていた。

この女が、包帯男の事件に便乗した「もうひとり」だ、と…。

-片割れ月-

女の眼に映る月は、紅く歪んでいた。

女は、踊り子の衣装で「包帯男」が来るのを待っていた。

女は、試しにウサギのようにぴょんぴょんと跳ねてみた。

他人から見れば、女の行動は異常だった。

だが、女は気にしなかった。

暫くして「包帯男」が女の前に現れた。

女は、包帯男を見てニタニタと笑っていた。

女は、包帯男を見て言った。

やっぱり、あなたが包帯男だった、ずっと待っていたと。

女の前にいたのは、闇色のコートを身に纏った、あのボサボサ髪の男だった。

風がコートを靡かせ、包帯男の中身をちらつかせた。

その全身は、眼、以外、白と黒の包帯で覆われていた。

女は、包帯男に近付きながら言った。

「私を食べて」と。

包帯男は、後退りながら、首を左右に振った。

「違う…この人じゃない…この眼じゃない…あの時の眼じゃない」

包帯男は、その場から逃げ出した。

女は、包帯男を追って、走った。

女は、どこまでもどこまでも包帯男を追った。

そして、金網のある場所まで、包帯男を追い詰めた。

もう、逃げ場所など何処にも無かった。

女は、包帯男の中で唯一、こちらを見ている「眼」を包帯男から奪うと、それを赤い月に翳して、踊り子らしく、くるくると回って魅せた。

そして最期に、その眼を足下に置き、踏み潰した。

-フィニッシュだった。

どこからか歓声が聴こえてきた。

女は、その歓声が聴こえた方へ振り返った。

そこには、よだれを垂らして、地肉を求める猛犬達がいた。

女は、包帯男を哀しく見つめて、次の舞台へと向かった。

他人に人生を奪われたと思い込み、四人の人生を奪った女。

その女の全身には、自身を孤独に追い込む刺青

「カイウサギの刺青」が刻まれていたという…。
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