あの人のブラひも

河辺野えん

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あの人のブラひも

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「あんた私のこと馬鹿にしてんでしょ」

久々にこの人の顔を見た気がする。
ずっと目の前にいたのに、ほぼ毎日家族よりも恋人よりも長い時間を過ごしているはずなのに。
ほとんど忘れかけていた。
今朝電車で前に座っていたおっさんのTシャツの柄ははっきり覚えてる。
きっとあれはロックバンドTシャツだ。
健太が大学の時に着ていたやつとよく似てた。
でも、最後までなんてバンドなのか聞いたことなかったな。
でも一度ライブに誘われた。
結局、僕はバイトで行けなくて健太は斎藤さんを誘ったんだ。
あんまり話したことはなかったけど、斎藤さんの八重歯はとても可愛かった。
で、なんの話をしていたんだっけ?
いや、話なんかしていないか。
今この人なんて言った?
馬鹿にしてるかって聞いてんのか。
なんて言って欲しいんだろう。
別に馬鹿にしたことなんて一度もない。絶対にない。
そんなこと考えもしなかった。
じゃあ、さっきまで何考えてたんだっけ?
あ、ジョッキの中がもう空だ。
店員さん呼ばなきゃな。
でも先に答えなきゃいけないか。
えーと…なんだっけ?

「すみません、生2つ」
「はぁい! 3卓さん生2丁です!」

ああ、また注文させてしまった。
でももう仕方ない。
ビールは来るんだし。
今更一回のチャンスを逃したところでどうにもならん。
チャンス?これはチャンスだったのか?
なんでこんなことに必死になってんだ?
もっと重要なことってたくさんあるだろう。
人の役に立つことが。
こう、世界平和とまではいかなくてもさ。
自分にもできる正義がたくさんあると思うんだよ。
大きな事じゃなくてさ、ちっちゃな事。
じゃあ、目の前のこの人の為にビールぐらい頼めよって話なんだけども。
で、さっきまで何考えてたんだっけ?
そのせいもあってぼーっとしてた気がする。
すごく重要な…えっと…多分この人に言わなきゃいけんこと。
あ、質問の返事まだしてない。
えっと、馬鹿にしてませんっていうのもな。
ていうかこれは返事が必要なのか?
注文で流れたってことか?

「あんたさぁ、いつもそうやってだんまりだけど、何考えてんの?」

確かに。
何考えてたんだっけ?

「まぁ、何も考えてないんだろうけどさ。
 そうやって人を馬鹿にしてることにも気づいてないんでしょ」

気づいてない?
自分は今、この人を馬鹿にしてんのか?
本当に?
いや。
知らないうちに不快にさせていることはあるかもしれないが、馬鹿にしたことなんて何もない。
だってこの人の何かが僕の中に入ってきたことなんて一度もない。
数秒前に見たはずの顔ももうぼんやりしている。
好きじゃないけど、嫌いじゃない。
彼女の指のささくれの数は覚えているのに、他人と笑いあっている顔はいつ見ても覚えられない。
自分でも不思議なんだ。教えて欲しい。
でも、さっきまでこの人に伝えたいことがあった。
確かにあったんだ。
何だっけ。
ずっと考えてた。
顔もおぼろげなこの人に伝えたいこと。
とても重要な事。
えっと、、、さっきまで何考えてた?
なんか見てたんだよな。
ずっと見てた。
それを見ても何も感じないのが不思議だったんだ。
あ、そうだ、見つけた。
桜みたいな綺麗なピンク。

「あの、ブラひも見えてますよ」

パン!
と弾けるような音が耳元で鳴った。
生まれて初めての衝撃は痛いというよりも熱かった。
熱いと思ったのも一瞬で、運ばれてきたばかりのビールがすぐに僕の頭を冷やす。
耳がキーンとなってすぐに顔を上げることができなかったけど、彼女が店を出て行ったのはわかった。
あぁまた顔が思い出せない。
毎日会ってるのに、あんなに怒らせたのに。
でも、あれだな。
あの感動的なまでに無意味な紐のことは忘れられない気がする。
桜みたいな綺麗なピンクだった。



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