鎮守の村

六條京

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前触れ

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山の奥深くに、一つの寂しい村があった。

地図にも載らず、近くに住む街の人々もその名はおろか存在すら知らない。

その村の名は「谷ノ原」といった。山と霧に囲まれ、まるで外の世界から切り離されたように沈んでいた。



女は山の中を彷徨い歩いた。疲れていたのだーーー都会の生活と人間関係に。もうすべてがどうでもよくなっていた。女の名は由紀子といった。



彼女は一人でいることを楽しんでいた。だが、樹海の中であまりに誰もいないことに寂しさを感じていた。あんなにも人間を嫌いになっていたのに人が恋しくなっていたのだ。ふいに子供の笑い声が聞こえた。その声がするほうを見上げると神社があった。こんなところに神社なんて、と思ったがふと導かれるように鳥居をくぐった。



祭りか何かの準備で賑わう境内を歩きながら、由紀子は息を呑んだ。

紙垂が風に揺れ、子どもたちの笑い声が弾けていた。

だがその光景のどこかに、わずかな違和感があった。

まるで「誰もが笑わなければならない。」と命じられているように見えたのだ。



「よそ者さん、あんまりじろじろ見ん方がええよ。」

いきなり声をかけてきたのは、腰の曲がった老婆だった。

歯の抜けた口から漏れる言葉は一見すると優しそうだが、目だけが笑っていない。どこか不気味さの漂う見た目であった。

「この村は、目を合わせすぎると“見られる”んだわ。」と意味ありげに老婆は口にした。

「見られる……?」由紀子は不審に思いながら老婆の言葉を繰り返した。

老婆はそれ以上何も言わず、ただ境内の奥の黒ずんだ社を指さした。

そこだけ、風が吹いていないようだった。木々一つ揺れていなかった。

人々がどれほど忙しく動き回っていても、時が止まったようなその場所に誰一人として近づこうとしなかった。



由紀子は近くにいた若い男に宿の場所を聞き、そのままこの村に泊まることにした。



黄昏時、由紀子が宿の縁側で外を眺めていると、遠くの田の向こうで何かが揺れたように感じた。

人のようで、人ではない何かを見た気がした。

目を凝らすと白いものがふらりと歩いてきたようだった。下を向いていたその白い人は由紀子の前を通り過ぎて行った。しばらくすると急にその物体はこちらを振り返ってきた。

その顔は――なかった。

あまりの恐怖に由紀子は声すら上げることはできなかった。



由紀子は必死に今見たものは気のせいだと思うことにした。その夜、由紀子は一睡もすることはできなかった。



他の宿泊客は翌朝、何事もなかったように笑っていた。



だがその日の朝食の席で、宿の女将がぽつりと呟いた。

「昨夜、祭りの準備に出てた若い衆がひとり、帰ってこんのです。」

沈黙がながれた。

そして、誰もがそれ以上、その話題に触れようとしなかった。

まるで――そうなることが、最初から決まっていたかのように。
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