リィングリーツの獣たちへ

月江堂

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夜会の後で

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 野山の花が色とりどりに咲き誇り、ミツバチが忙しそうに飛び回ると、グリムランドの人々は朝晩のまだ冷え込む寒さなど気にしないかのように活動的になる。

 それでも、彼らが黒き森リィングリーツに近づくことは決してない。

 森に迷い込んだからといって何かがあるわけではない。

 偶発的な侵入であればは歯牙にもかけない。だがもし邪心をもって森の中に侵入する者があれば容赦の心はない。森を切り開こうとする者、彼らの財産を奪おうとする者、彼らの大切なものを傷つけようとする者。それらは手ひどい反撃を受けて、生涯癒えない傷を負わされるか、酷ければ殺されることもある。

 神出鬼没ののゲリラ戦術を使う彼らを黒き森リィングリーツの中で破ることはグリムランドの正規軍ですらできず、この北の森林地帯はグリムランドの領土という事になってはいるが、実際には国の法の及ばない土地である。

 無法地帯ではない。

 明文化されていないだけで、にはの法があるのだ。の法を守らず、知りもしない者は排除される。

 ゆえにたとえ春が来ようとも、森に入る者は何も知らない子供か、全てを知っている狩人くらいのものなのだ。

 その狩人も、春の間は日が暮れる前に必ず森からは出る。暗く冷える森の中では、だけが敵ではない。その寒さと、飢えた獣たちのエサになるのが関の山だからだ。

「その春のリィングリーツの中で、王別の儀が行われる、と」

「ええ、すみません、イェレミアス。私も裏で動いてはいたのですが、力及ばず。やはり裏でノーモル公が動いているようです」

 申し訳なさそうに息子に謝る王妃インシュラであるが、謝っている相手は彼女の実の息子ではない。イェレミアス王子の替え玉、ヤルノ少年である。王子の私室には王子本人はおらず、ヤルノと王妃インシュラ、それに女騎士のギアンテのみである。

 夜会では国王ヤーッコより直々に王別の儀の前倒しの開催が宣告された。尋常であれば夏に執り行われることの多い王別の儀が春に行われる。その上予告から実施までがひと月ほどしかない。何もかもが異例の中で行われるのである。

「ノーモル公は何故それほど私を恨んでいるのでしょう」

 真実を知っているのはヤルノだけであるが、世間から見れば王子はキシュクシュの駆け落ちによって恥をかかされた側。その上八つ当たりで亡き者にされたのではたまったものではない。

「ガッツォ王子とアシュベル王子には既に婚約者がいますが、そこにノーモル公は食い込めませんでした」

 王妃に説明をさせるのが憚られたのか、女騎士ギアンテが割って入った。

「ノーモル公は最初から王子が王位継承者になることを期待していたわけではありませんが、王の子の義父となることで王宮に対して一定の影響力を持ちたかっただけのようです」

 それは理解できる。しかしそれがダメになったからといって何故邪魔をしてくるのか。

 ヤルノがそこを問いかけると、暫く、たっぷり四回ほども呼吸を入れてからギアンテは話を続けた。王妃インシュラも苦虫をかみつぶしたような顔をして俯いている。よほど話したくない話題なのか。

「王陛下は、イェレミアス王子を疎んでおられます」

 ヤルノにはそれほど大きな驚きは無かった。小さく「ふぅん」と漏らしただけであった。

「ようやくできた正妻の嫡子。生まれた時は大変な喜ばれようだったらしいですが……」

「体が弱い上に……『優しすぎる』から?」

「そんなところです。上のお二人は体も強く、最早後継ぎはこの二人で充分。むしろイェレミアス王子は将来的に国を割る原因になるかもしれないとお考えのようです」

 当然ながらその上イェレミアスの外見が美しく、人を魅了するのはヤルノが入れ替わる前からの事である。が良くて人柄のいい人間は人を引き寄せる。その上で王別の儀には通らずとも正室の嫡子。

 上の二人と比べるとそれでちょうどが取れているくらいなのだ。これでイェレミアスが不器量であるか、もしくは上二人を上回る圧倒的な才覚でもあれば話は別であったが、両者の力が拮抗していればいるほど国を割る可能性が高くなる。

「王子本人には決して言わないでください。陛下は、イェレミアス王子がいなくなってくれれば、この国のためにも良いと、お考えなのです」

「それでか。キシュクシュが僕を殺そうとしたのは」

 インシュラとギアンテが目を丸くしたが、ギアンテは何のことかすぐに思い当たった。中庭での決闘の話だ。

「もし……」

 インシュラは顔面蒼白になっている。状況はあまりにも絶望的だ。

「もし、王別の儀であなたが死に、その死体が確認された場合、イェレミアスの方も、二度と国の表舞台には出られなくなります……」

 死んだはずの人間が王宮に出てきたりしたらことである。もしそうなればどこか地方の修道院にでもやるしかない。

「安心してください、お母様」

 暖かく、柔らかい手が彼女の両手を包んだ。俯いていた顔を上げると、天使のような我が子の笑み。

「僕は必ず、生きて戻ってきますから」

 その言葉を聞いた瞬間、彼女は思わず再び俯いて大粒の涙をこぼし始めてしまった。ヤルノの手に握られたまま。

 ああ、あの頼りなく、すぐにでも割れてしまいそうなガラス細工のようだった息子が自分の事を気遣ってくれているのだ。いつの間にか、小さかった手も自分の手を包み込むほどに成長したのだ、と。感極まって涙をこらえることが出来なかった。

 だが実際には違う。

 彼女の目の前に居て慰めてくれているのはイェレミアス王子ではなく、何処の馬の骨とも分からぬ寒村の貧民のガキであるし、当のイェレミアスは多少健康になってきたとは言うもののひ弱なままである。

 すぐにそれに気づいた彼女であったが、もう涙を止めることもできず、しゃくりあげて嗚咽を上げる事しかできなかったのだ。

「妃殿下、お部屋へお連れします」

 あってはならないこと。

 血のつながりもない赤の他人の前で人目もはばからず号泣する王妃。

 女騎士ギアンテはそれを放置することなどできず、ヤルノの方を一瞥してから王妃の肩を抱いて部屋を退出していった。

 その時見たヤルノの表情は、まるで何が起きているのか全く把握できていないかのようであった。

 不意に、彼女まで目の前にいるのがヤルノなのかイェレミアスなのか、判然としなくなる。視線を逸らし、もう振り返ることもなく王妃の部屋まで連れ添ってゆく。あまりにも恐ろしくなったから。


 王妃を部屋へ送り届け、彼女自身混乱した脳で頭の中を整理しようと自室でベッドに座り込んでいると、不意にギアンテの部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「僕です。入れて貰えますか?」
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