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最後の策
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「ラウド、イパッシ、イェレミアスとヴェリコイラの匂いは追えておるか」
老人は小さな声で呟いて、一方に調香師から手に入れたハンカチを、もう一方に元々ヴェリコイラがつけていた首輪の匂いを嗅がせた。
どうやら追跡は順調のようである。遠くではヴェリコイラの吠え声も聞こえる。
状況だけ見れば順調に追い詰め、ヴェリコイラは順調にプレッシャーを与え続けているはずだ。
しかし、だからこそ慎重になる。
老人は付近にあった朽ち木に腰かけ、犬たちも休憩をとる。犬のスタミナは無尽蔵ではあるがやはり老人と同じように老いている。無理はさせられない。
「そろそろヴェリコイラを戻らせてラウドと交代させた方がいいか」
尋常な得物であればここまで追跡していればあとは追い詰め、仕留めて終わりだ。
よほど老練なヒグマでも相手にしない限り日を跨いで一つのターゲットを追い続けることなどない。
ましてや痕跡を既に見つけているのに、仕掛けずに追い続けて消耗を狙うような大物など、長い老人の狩人生活でも数えるほどしかない経験である。
作戦通りに追い詰められているからこそ油断しない。
老人は遠くに視線をやる。やはりヴェリコイラの声がかすかに聞こえる。その声は『警戒』ではなく『威嚇』である。状況は変わっていない。
「ヴェリコイラは間違いなく二人を補足している。一旦戻らせてラウドと入れ替えるか」
老人がラウドの頭を撫で、ヴェリコイラを呼び戻すための鳴き声を上げるよう指示を出そうとした時であった。
ラウドとイパッシが同時に同じ方向に振り向いた。
老人はその方向を確認せず、即座に地に伏す。
「くそっ!!」
罵りの言葉と共に老人頭部のほんの数センチ上空を風を切って何かが飛ぶ音がし、それは遠くの茂みに消えていった。
「投石か」
その速度からしておそらくは投石紐などを使用した強力な一撃。鉄兜でも被っていれば話は別であるが、直撃すれば確実に人間の命を一発で奪う強力なものであった。
『臭い』による追跡は最もその索敵範囲と確実性が高く、原始的な感覚であり、嗅覚は身の危険を他の感覚衣よりいち早く知らせてくれる器官である。
しかしその反面情報の即応性に欠けるという弱点がある。
「イェレミアスか、ヴェリコイラの追跡を躱すとはな」
投石により老人を狙撃しようとしたのはヤルノ。他に人影はない。一人である。
おそらくは至極単純な話、ギアンテを一人置いてヴェリコイラの鼻を誤魔化し、風下から老人達にそっと近づいて「狙撃」による決着を狙ったのだろう。
即応性のある情報としては『視認』に勝るものはないし、『聴覚』は対象が何かしらアクションを起こさないと十分に確認ができない。
だが当然その程度の事はハンターは想定していたのだ。
そして臭いは探知できなかったものの、狙撃体勢に入ったわずかな『音』からヤルノの存在にラウドとイパッシは気づいた。
そしてヤルノの逆襲の危険性を念頭に置いていた老人はその二匹のアクションを見て即座に『音』の出所を確認するよりまず身を守ることに専念した。
二匹の『護衛』をかいくぐって老人を一撃で沈めるには『投擲』攻撃しかないだろうと。そして最悪であっても頭部だけでも守れば反撃に入れると。
全ての事を見通したうえで最速の防護体勢に入り、そして老人の選択した行動は全て正しかったのだ。
「追え! ラウド! イパッシ! 一気にケリをつけろ!!」
いくら風下を辿って逃げたとしてもあのヴェリコイラが二人を完全に見失うとは考えられないし、それを感じさせる吠え声は無かった。ということは、未だギアンテはヴェリコイラのいる場所にいるはず。つまりはヤルノは一人であると老人は踏んだ。
そしてこれだけ距離が縮まり、ヤルノが姿を見せたのだ。千載一遇のチャンスである。災い転じて福となす。間一髪で危機を脱した老人は、反転攻勢の好機を掴んだのだ。当然ここは反撃に出る。
「殺れ!! ラウド、イパッシ!!」
これまでの『監視』ではない。直接攻撃の指示を老人は出した。そしてすぐ後を自分も追う。
一方のヤルノはわき目も降らずに必死に走り、逃げる。彼が潜んでいた茂みの向こう側は岩場になっていた。
「オン! オン!!」
ラウドの前脚の爪がヤルノを捉えた。犬の爪はネコやクマのように鋭くはないが得物にしがみつくくらいならお手の物である。
「いいぞラウド! そのまま逃がすな!!」
投石紐で攻撃を仕掛けてきたヤルノであったが他に得物を持ってきてはいないようだった。先ほどガルトリアを斃した短剣はギアンテが持っているのか。
爪を立ててしがみついたラウドはヤルノのクロークにその牙を突き立てる。狼には虎のようにひと噛みで首をへし折るような口咬力はないが、獲物を引き倒しさえすれば仲間による追撃も見込める。
足を止めて抵抗するヤルノを慎重に老人とイパッシが詰める。決着は近いのだ。
「無駄にここに誘い込んだわけじゃない!」
唸り声をあげながらもクロークを放さないラウドの身体を全体重をかけてヤルノが振り回す。その動きに巻き込まれてイパッシと老人も体勢を崩した。
基本的に野生動物は人間よりも身体能力が遥かに高い。そんな中で数少ない人間が有利に立ち振る舞えるのが足場の悪い場所での戦いだ。特に岩の上のような踏ん張りの利かない、滑る場所では犬猫の類は動きを制御できなくなる。
狙ってか意図せずしてか、クロークを放そうとしないラウドの身体を振り回してイパッシと老人に叩きつけると、全員の乗っていた岩場がぐらつき、大きく崩れた。
「ぬおおおお!!」
もはや身体的有利や森での戦いの経験値の差などそこにはなかった。崩れる岩に吸い込まれるように、全員が体の制御を失って落下してゆくのだ。
老人は小さな声で呟いて、一方に調香師から手に入れたハンカチを、もう一方に元々ヴェリコイラがつけていた首輪の匂いを嗅がせた。
どうやら追跡は順調のようである。遠くではヴェリコイラの吠え声も聞こえる。
状況だけ見れば順調に追い詰め、ヴェリコイラは順調にプレッシャーを与え続けているはずだ。
しかし、だからこそ慎重になる。
老人は付近にあった朽ち木に腰かけ、犬たちも休憩をとる。犬のスタミナは無尽蔵ではあるがやはり老人と同じように老いている。無理はさせられない。
「そろそろヴェリコイラを戻らせてラウドと交代させた方がいいか」
尋常な得物であればここまで追跡していればあとは追い詰め、仕留めて終わりだ。
よほど老練なヒグマでも相手にしない限り日を跨いで一つのターゲットを追い続けることなどない。
ましてや痕跡を既に見つけているのに、仕掛けずに追い続けて消耗を狙うような大物など、長い老人の狩人生活でも数えるほどしかない経験である。
作戦通りに追い詰められているからこそ油断しない。
老人は遠くに視線をやる。やはりヴェリコイラの声がかすかに聞こえる。その声は『警戒』ではなく『威嚇』である。状況は変わっていない。
「ヴェリコイラは間違いなく二人を補足している。一旦戻らせてラウドと入れ替えるか」
老人がラウドの頭を撫で、ヴェリコイラを呼び戻すための鳴き声を上げるよう指示を出そうとした時であった。
ラウドとイパッシが同時に同じ方向に振り向いた。
老人はその方向を確認せず、即座に地に伏す。
「くそっ!!」
罵りの言葉と共に老人頭部のほんの数センチ上空を風を切って何かが飛ぶ音がし、それは遠くの茂みに消えていった。
「投石か」
その速度からしておそらくは投石紐などを使用した強力な一撃。鉄兜でも被っていれば話は別であるが、直撃すれば確実に人間の命を一発で奪う強力なものであった。
『臭い』による追跡は最もその索敵範囲と確実性が高く、原始的な感覚であり、嗅覚は身の危険を他の感覚衣よりいち早く知らせてくれる器官である。
しかしその反面情報の即応性に欠けるという弱点がある。
「イェレミアスか、ヴェリコイラの追跡を躱すとはな」
投石により老人を狙撃しようとしたのはヤルノ。他に人影はない。一人である。
おそらくは至極単純な話、ギアンテを一人置いてヴェリコイラの鼻を誤魔化し、風下から老人達にそっと近づいて「狙撃」による決着を狙ったのだろう。
即応性のある情報としては『視認』に勝るものはないし、『聴覚』は対象が何かしらアクションを起こさないと十分に確認ができない。
だが当然その程度の事はハンターは想定していたのだ。
そして臭いは探知できなかったものの、狙撃体勢に入ったわずかな『音』からヤルノの存在にラウドとイパッシは気づいた。
そしてヤルノの逆襲の危険性を念頭に置いていた老人はその二匹のアクションを見て即座に『音』の出所を確認するよりまず身を守ることに専念した。
二匹の『護衛』をかいくぐって老人を一撃で沈めるには『投擲』攻撃しかないだろうと。そして最悪であっても頭部だけでも守れば反撃に入れると。
全ての事を見通したうえで最速の防護体勢に入り、そして老人の選択した行動は全て正しかったのだ。
「追え! ラウド! イパッシ! 一気にケリをつけろ!!」
いくら風下を辿って逃げたとしてもあのヴェリコイラが二人を完全に見失うとは考えられないし、それを感じさせる吠え声は無かった。ということは、未だギアンテはヴェリコイラのいる場所にいるはず。つまりはヤルノは一人であると老人は踏んだ。
そしてこれだけ距離が縮まり、ヤルノが姿を見せたのだ。千載一遇のチャンスである。災い転じて福となす。間一髪で危機を脱した老人は、反転攻勢の好機を掴んだのだ。当然ここは反撃に出る。
「殺れ!! ラウド、イパッシ!!」
これまでの『監視』ではない。直接攻撃の指示を老人は出した。そしてすぐ後を自分も追う。
一方のヤルノはわき目も降らずに必死に走り、逃げる。彼が潜んでいた茂みの向こう側は岩場になっていた。
「オン! オン!!」
ラウドの前脚の爪がヤルノを捉えた。犬の爪はネコやクマのように鋭くはないが得物にしがみつくくらいならお手の物である。
「いいぞラウド! そのまま逃がすな!!」
投石紐で攻撃を仕掛けてきたヤルノであったが他に得物を持ってきてはいないようだった。先ほどガルトリアを斃した短剣はギアンテが持っているのか。
爪を立ててしがみついたラウドはヤルノのクロークにその牙を突き立てる。狼には虎のようにひと噛みで首をへし折るような口咬力はないが、獲物を引き倒しさえすれば仲間による追撃も見込める。
足を止めて抵抗するヤルノを慎重に老人とイパッシが詰める。決着は近いのだ。
「無駄にここに誘い込んだわけじゃない!」
唸り声をあげながらもクロークを放さないラウドの身体を全体重をかけてヤルノが振り回す。その動きに巻き込まれてイパッシと老人も体勢を崩した。
基本的に野生動物は人間よりも身体能力が遥かに高い。そんな中で数少ない人間が有利に立ち振る舞えるのが足場の悪い場所での戦いだ。特に岩の上のような踏ん張りの利かない、滑る場所では犬猫の類は動きを制御できなくなる。
狙ってか意図せずしてか、クロークを放そうとしないラウドの身体を振り回してイパッシと老人に叩きつけると、全員の乗っていた岩場がぐらつき、大きく崩れた。
「ぬおおおお!!」
もはや身体的有利や森での戦いの経験値の差などそこにはなかった。崩れる岩に吸い込まれるように、全員が体の制御を失って落下してゆくのだ。
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