リィングリーツの獣たちへ

月江堂

文字の大きさ
86 / 94

最後の策

しおりを挟む
「ラウド、イパッシ、イェレミアスとヴェリコイラの匂いは追えておるか」

 老人は小さな声で呟いて、一方に調香師から手に入れたハンカチを、もう一方に元々ヴェリコイラがつけていた首輪の匂いを嗅がせた。

 どうやら追跡は順調のようである。遠くではヴェリコイラの吠え声も聞こえる。

 状況だけ見れば順調に追い詰め、ヴェリコイラは順調にプレッシャーを与え続けているはずだ。

 しかし、だからこそ慎重になる。

 老人は付近にあった朽ち木に腰かけ、犬たちも休憩をとる。犬のスタミナは無尽蔵ではあるがやはり老人と同じように老いている。無理はさせられない。

「そろそろヴェリコイラを戻らせてラウドと交代させた方がいいか」

 尋常な得物であればここまで追跡していればあとは追い詰め、仕留めて終わりだ。

 よほど老練なヒグマでも相手にしない限り日を跨いで一つのターゲットを追い続けることなどない。

 ましてや痕跡を既に見つけているのに、仕掛けずに追い続けて消耗を狙うような大物など、長い老人の狩人生活でも数えるほどしかない経験である。

 作戦通りに追い詰められているからこそ油断しない。

 老人は遠くに視線をやる。やはりヴェリコイラの声がかすかに聞こえる。その声は『警戒』ではなく『威嚇』である。状況は変わっていない。

「ヴェリコイラは間違いなく二人を補足している。一旦戻らせてラウドと入れ替えるか」

 老人がラウドの頭を撫で、ヴェリコイラを呼び戻すための鳴き声を上げるよう指示を出そうとした時であった。

 ラウドとイパッシが同時に同じ方向に振り向いた。

 老人はその方向を確認せず、即座に地に伏す。

「くそっ!!」

 罵りの言葉と共に老人頭部のほんの数センチ上空を風を切って何かが飛ぶ音がし、それは遠くの茂みに消えていった。

「投石か」

 その速度からしておそらくは投石紐などを使用した強力な一撃。鉄兜でも被っていれば話は別であるが、直撃すれば確実に人間の命を一発で奪う強力なものであった。

 『臭い』による追跡は最もその索敵範囲と確実性が高く、原始的な感覚であり、嗅覚は身の危険を他の感覚衣よりいち早く知らせてくれる器官である。

 しかしその反面情報の即応性に欠けるという弱点がある。

「イェレミアスか、ヴェリコイラの追跡を躱すとはな」

 投石により老人を狙撃しようとしたのはヤルノ。他に人影はない。一人である。

 おそらくは至極単純な話、ギアンテを一人置いてヴェリコイラの鼻を誤魔化し、風下から老人達にそっと近づいて「狙撃」による決着を狙ったのだろう。

 即応性のある情報としては『視認』に勝るものはないし、『聴覚』は対象が何かしらアクションを起こさないと十分に確認ができない。

 だが当然その程度の事はハンターは想定していたのだ。

 そして臭いは探知できなかったものの、狙撃体勢に入ったわずかな『音』からヤルノの存在にラウドとイパッシは気づいた。

 そしてヤルノの逆襲の危険性を念頭に置いていた老人はその二匹のアクションを見て即座に『音』の出所を確認するよりまず身を守ることに専念した。

 二匹の『護衛』をかいくぐって老人を一撃で沈めるには『投擲』攻撃しかないだろうと。そして最悪であっても頭部だけでも守れば反撃に入れると。

 全ての事を見通したうえで最速の防護体勢に入り、そして老人の選択した行動は全て正しかったのだ。

「追え! ラウド! イパッシ! 一気にケリをつけろ!!」

 いくら風下を辿って逃げたとしてもあのヴェリコイラが二人を完全に見失うとは考えられないし、それを感じさせる吠え声は無かった。ということは、未だギアンテはヴェリコイラのいる場所にいるはず。つまりはヤルノは一人であると老人は踏んだ。

 そしてこれだけ距離が縮まり、ヤルノが姿を見せたのだ。千載一遇のチャンスである。災い転じて福となす。間一髪で危機を脱した老人は、反転攻勢の好機を掴んだのだ。当然ここは反撃に出る。

「殺れ!! ラウド、イパッシ!!」

 これまでの『監視』ではない。直接攻撃の指示を老人は出した。そしてすぐ後を自分も追う。

 一方のヤルノはわき目も降らずに必死に走り、逃げる。彼が潜んでいた茂みの向こう側は岩場になっていた。

「オン! オン!!」

 ラウドの前脚の爪がヤルノを捉えた。犬の爪はネコやクマのように鋭くはないが得物にしがみつくくらいならお手の物である。

「いいぞラウド! そのまま逃がすな!!」

 投石紐で攻撃を仕掛けてきたヤルノであったが他に得物を持ってきてはいないようだった。先ほどガルトリアを斃した短剣はギアンテが持っているのか。

 爪を立ててしがみついたラウドはヤルノのクロークにその牙を突き立てる。狼には虎のようにひと噛みで首をへし折るような口咬力はないが、獲物を引き倒しさえすれば仲間による追撃も見込める。

 足を止めて抵抗するヤルノを慎重に老人とイパッシが詰める。決着は近いのだ。

「無駄にここに誘い込んだわけじゃない!」

 唸り声をあげながらもクロークを放さないラウドの身体を全体重をかけてヤルノが振り回す。その動きに巻き込まれてイパッシと老人も体勢を崩した。

 基本的に野生動物は人間よりも身体能力が遥かに高い。そんな中で数少ない人間が有利に立ち振る舞えるのが足場の悪い場所での戦いだ。特に岩の上のような踏ん張りの利かない、滑る場所では犬猫の類は動きを制御できなくなる。

 狙ってか意図せずしてか、クロークを放そうとしないラウドの身体を振り回してイパッシと老人に叩きつけると、全員の乗っていた岩場がぐらつき、大きく崩れた。

「ぬおおおお!!」

 もはや身体的有利や森での戦いの経験値の差などそこにはなかった。崩れる岩に吸い込まれるように、全員が体の制御を失って落下してゆくのだ。
しおりを挟む
感想 23

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。

猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。 復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。 やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、 勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。 過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。 魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、 四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。 輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。 けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、 やがて――“本当の自分”を見つけていく――。 そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。 ※本作の章構成:  第一章:アカデミー&聖女覚醒編  第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編  第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編 ※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位) ※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。

処理中です...