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帰国-3
多都希は翌日も同じ時間帯にバーを訪れた。
そしてスガワラよりも先に、彼が観察していた四十代くらいの丸眼鏡の男を見つけた。
男は昨日と同じカウンター奥に席を陣取っており、誰かと話している。
多都希も昨晩と同じ位置から男の様子を伺う。
スーツや丸眼鏡、腕時計も昨日とまったく同じものを身に着けている。ヘアワックスを忘れたのか、ミルクティー色の髪はセットされていなかったので昨日よりも老けて見えた。
宿泊客と一緒であれば外部からの客も利用できるラウンジバーだ。あの男が宿泊客ならば、もしかしたら今夜もここに泊るのかもしれない。
なんとなくだが同じ顔を三夜連続で見たくはない。多都希は明日からはバーを利用するのを控えようと思った。
「なんか引っかかるんだよな……」
もう一度男に視線を移す。髪型以外にも昨晩と何かが違う気がした。しかしどれだけ観察しても分からない。
「探偵の真似事なんて柄じゃねぇな」
多都希は男から視線を外すと、バーテンダーを呼んで酒を注文した。
入口の方を気にするも、スガワラは現れない。
一時間経った頃、丸眼鏡の男は連れと荷物を残して席を立った。
残された方の茶髪の男は退屈そうに深いため息をついた。
丸眼鏡の男に遮られて良く見えなかったが、茶髪の男は昨日と同じ人物だった。昨日の派手な格好から一転して、パーカーにデニムとかなりラフな格好をしていたため、今まで気付かなかった。
違和感の正体は丸眼鏡の男本人ではなく、隣にいた人物の雰囲気が違っていたことだったのだ。
グラスの中の氷がカランっと小気味良い音を奏でる。
「直接プレートを返すのは無理か……」
わずかに残っていたグラスの中身を飲み干した多都希はバーを出た。
エレベーターのボタンを押そうとした瞬間、ネームプレートはバーの前で拾ったのだから、バーの人間に預けてくれば良かったのだと思い直す。そうすればわざわざロビーに行く必要もないし、部屋にコンシェルジュを呼び出さずに済む。
多都希が再びバーに戻ろうと踵を翻した瞬間、黒いパーカーに帽子を目深にかぶった青年が真横を通り抜けていった。
その青年が気になった多都希は、通路の壁に寄りかかり彼が戻って来るのを待った。
突き当りにはトイレしかないため、彼は再びここを通る。
一分もしないうちに青年は引き返してきた。
またすれ違いそうになったため、多都希は青年の腕を掴む。
「ッなにす――……もしかして昨日のお客様?」
青年はスガワラだった。
「やっぱりな。どうも。昨日ここで会ったビルディエクリーンの人間で間違いないか?」
「そうですけど……あ、染髪をお疑いですか? 顔も知らない父親が海外の人間らしいので、この髪は地毛なんですよ」
ビルディエクリーンは警備が主体の会社のため規則が厳しく、ほとんどの社員が黒髪か暗い茶髪だ。
スガワラの言葉は、これまで幾度となく髪の色について言及されてきた故の慣れた弁明だった。
しかし今の多都希には、スガワラの容姿や生まれなどは関係ない。落とし物を返却するというミッションの方が重要だ。
「別に髪を染めていようが地毛だろうが気にしない。本題は昨日ここでぶつかった時のことだ」
「昨日はぶつかって本当にすみませんでした。だけどオレ今ちょっと急いでるんで、ご意見等ありましたら社の方へお願いします」
腕を振り払いバーに戻ろうとするスガワラを制し、多都希はポケットに忍ばせていたネームプレートを差し出す。
「そう焦るな。これお前のじゃないか? ぶつかった際に落としていったように見えたんだが」
「えっ、やば! ありがとうございます! これオレのです。オレ、菅原恵っていいます。あー……どうしよう、受け取りに本人確認とか必要ですか? 財布に免許証入れてたっけ……」
「いや、必要ない。違ったらバーの人間に預けようと思っていたくらいだったからな」
「じゃあ、ありがたく。危なぁ……再発行になったら三千円もかかるとこだった」
口をきゅっと結んだ恵は、ネームプレートをパーカーのポケットにしまった。
再発行の金額を気にするあたり、とてもエグゼクティブフロアに宿泊できる余裕があるとは思えない。今日は清掃の制服ではないため、一体どうやってバーに入ったのだろうか。
「ちょっと待て。恵、お前どうやってここに入った? そもそも未成年じゃないだろうな」
「い、いきなり下の名前呼び……? まあ、いいけど。ここに入れたのは、ロビーでラウンジに連れて行ってくれそうな人に声をかけられたからです。ちなみにオレ、二十二歳」
「二十二⁉ こんな豆しばみたいなずんぐりむっくりが……」
「……人のこと言えないけど、相当デリカシーないね。そういうお兄さんはいくつなんですか?」
「俺は塩谷、来年三十になる」
「塩谷さんね。てか思ってたより年上じゃん……。お手数をおかけしてすみませんでした。それじゃあオレ、忙しいんで失礼します」
「お、おい」
恵はスタスタと歩き始めた。そしてバーの入口で一度振り返る。
「これは……本当に、ありがとうございました……」
恵はそう言い残して、ふいっと顔を背けた。
呆気に取られた多都希は、後方から聞こえる足跡に促されて慌ててバーに戻る。自分はただの宿泊客だ。誰に見られても良いはずなのに、恵の行動に釣られてコソコソと逃げるような真似をしてしまった。
先に薄暗いバーに戻っていた恵を探すと、丸眼鏡の男が座っていた場所がよく見えるテーブル席のソファーに腰かけていた。
「あいつ、一人じゃなかったのか……?」
四人席なのに恵の連れは彼の隣に座っている。そして空席になったカウンター奥をじっと観察する恵の口元にグラスを近づけた。
いかにも小金持ちの脂ぎった五十路といった風貌は、傍から見たら恵がこれから一晩買われるように見えるだろう。それくらいミスマッチで異端な組み合わせだった。
恵は押し付けられたグラスをやんわりと押し返しているが、男は強引に迫る。ますますグラスの中でゆらゆらと蠢く液体が怪しい。
先ほどまで座っていたカウンター席に戻ることをやめた多都希は、恵と連れが座る正面にドカッと座る。
「ッひゃい⁉ ちょ、ちょっと塩谷さん、今度はなに⁉ オレ、あんまり目立ちたくないんですけど」
「ガキにビトゥイーン・ザ・シーツは、早すぎるんじゃねぇの?」
恵の言葉を無視した多都希は、鼻息の荒い男を眼光鋭く見据える。
「おっさん、テメェが何してたか、俺はあっちのカウンターからずっと見てたぞ」
「ぼ、ぼぼぼっ僕はこの子に誘われたから連れてきてやったんだ!」
男の反論はまったく答えになっていない。
慌てふためく真っ黒な男に対して多都希は舌打ちを返す。
恵は何が何だか分からないといった表情をしている。
「こいつがいくらアホでも、人としてやっちゃいけねぇラインってのはあるだろうが。ここの警備に突き出されたくなければ、とっとと失せろ」
多都希が睨みつけると、男は恵の前をすり抜け、転びそうになりながらバーを飛び出して行った。
店内が騒めいたのも一瞬で、他の客たちは何事もなかったかのように自身の時間に戻る。
丁度そのタイミングで、丸眼鏡の男の連れが電話をしながらバーを出て行った。
力が抜けたのか、恵は脱帽してソファーに涼み込んだ。金色の髪が外にぴょこっと跳ねる。
「ええぇ……」
「お前、今日も丸眼鏡の監視してたんだろ。今からでもあいつの連れを追いかけるか?」
「いやぁ……やめとく。ちょっと疲れた……。ホントに意味わかんない。塩谷さん、山田さんに一体何をしたの?」
「山下だか田山だが知らねぇが、なんであんな下心満載のクソジジイと同席するかね。ほーら、見てみろ。グラスの底に砕かれた錠剤が溜まってる。一錠分ってことは、全バース対象の強制発情剤ってところか。ベータでも酒と一緒に飲めば、意識なんて簡単に飛ばせる。お前をこの下の階にある部屋に連れ込むくらい余裕だろうな」
グラスを持ち上げて天井のライトにかざすと、底にはすり潰された白い粒が転がっていた。
恵の顔はサッと青くなる。
「薬⁉ 何してたか見てたってそういうこと⁉」
「さっきまでお前と話してたんだから、薬入れてる瞬間なんか見てるわけねぇだろ。ブラフだよ、ブラフ。あのジジイ、お前と知り合いっぽい雰囲気の俺が来てから、明らかに挙動不審だっただろうが」
「そんなぁ……。エグゼクティブフロア専用のカードキーがないとバーラウンジには入れないんだよって親切に声をかけてくれたのに……」
「パーカーにキャップでバーに来るようなガキを手籠めにするくらいチョロいと思ったんだろうよ。強制発情剤なんつーもん持ってるってことは、常習犯かもな」
「最悪……」
「勉強になったな。カクテル言葉にも気づかないガキんちょは、もうこんなところに来るんじゃねーぞ」
ガキという言葉に反応して生意気な言葉が返ってくるかと思いきや、恵は見るからにしょげて肩を落としていた。大きな瞳は叱られた仔犬のように潤んでいる。
「何度も助けてもらってすみませんでした……。オレの用事も終わったし、帰ります」
「あ、ああ。気を付けて帰れ。いや、待て。まだあのジジイがうろついてるかもしれないから、出口まで送る」
「さっきも言ったけど、オレ、成人してるんだよ? もう大人なんだけど……」
「見た目もやってることもご立派な大人様には見えねぇんだよ」
「うぅ……」
多都希はトボトボと歩き始めた恵の腕を引いてバーを出た。
どうして恵が休みの日にまでラウンジに忍び込むようなことをしたのか気になっていた多都希は、理由を尋ねた。
利用客が多いのか、エレベーターは中々来ない。
初めは黙り込んでいた恵だったが、無言に耐えられなくなったのか、ぼそぼそと語り出した。
「昨日、バーラウンジ近くのトイレでお客さんが酒に酔って吐いたって連絡が来て、片付けをするためにあの廊下を通ったんです。掃除が終わってやっと帰れると思ったら、バーカウンターの奥に母親の婚約者が誰かといるのが見えて……」
「ああ、あの丸眼鏡がそうなのか。それにしちゃあ、とんでもない気迫で睨んでなかったか? 今から刺し殺しにでも行くのかと思ったぞ」
「ッだって! あいつ、藤江って言うんだけど、オレの母さんが勤めるスーパーの店長なんです。いくら給料もらってんのか知らないけど、こんなセレブ御用達の専用ラウンジで酒飲めるような余裕あると思いますか?」
「まあ、仮にそうだとしても、独身なら自由に使える金も多いだろうし、自分への褒美で泊まるやつも中にはいるんじゃないか?」
時計にスーツ、革靴にバッグまで、身に着けている物すべてがいかにも成金だったとは言えない。そんな歯切れの悪い多都希に、恵は疑いの目を向ける。
「それ本気で言ってる? 塩谷さんだって近くに座ってたんだから、藤江のことは見てたはずですよね……」
「そう突っかかってくんなよ。母親の婚約者が浮気してるんじゃないかと疑い、お前は怒っている。視野が狭まっているのは明らかだ。第三者の客観的な意見だって必要だろ?」
そう口では言うが、隣にいた相手が友人か仕事仲間なのか分からないが、些か距離が近かったのも事実。母親の婚約者である藤江を良く知る恵が疑念を抱いてもおかしくはない。
ラブホテルなど安価なホテルではなく、エグゼクティブフロアを利用しているくらいだ。もし本当に浮気なら気合いを入れて口説いている最中か、既に複数人と交際していると考えた方が無難だろう。
「塩谷さんの言う通り、一年に数回の自分へのご褒美ならいいけど、今日も藤江は誰かとホテルにいるかもしれない、オレの母さんを裏切ってるかもしれないって思ったら、居ても立っても居られなくて……」
「つったって行動派すぎんだろ。まあ、母親の再婚相手、白だといいな。酒を一緒に飲んでるだけじゃ、浮気相手なのか、友人なのか、もしくは仕事相手なのか微妙なところだろう」
「そうですよね……。母さん男運ないからさ、オレが自主的に探偵紛いなことしてるって言ったら反対されると思うけど、やっぱりオレが何とかしてやんないと。今回も決定的な証拠見つけらんなかったから、日を改めてもう少し探ってみます」
「ほどほどにな」
「ありがとう、塩谷さん」
ロビーに着くと、恵はフロントに荷物を預けているからと言って去っていった。
多都希はまたしばらくエレベーターを待つ。
「塩谷さん!」とロビーに声が響く。
振り返ると、ホテルの出入り口から恵が手を振っていた。背中には大きな黒いリュックを背負っている。
こちらも手を挙げて応えると、ポーンというエレベーターが到着した音がした。
そしてスガワラよりも先に、彼が観察していた四十代くらいの丸眼鏡の男を見つけた。
男は昨日と同じカウンター奥に席を陣取っており、誰かと話している。
多都希も昨晩と同じ位置から男の様子を伺う。
スーツや丸眼鏡、腕時計も昨日とまったく同じものを身に着けている。ヘアワックスを忘れたのか、ミルクティー色の髪はセットされていなかったので昨日よりも老けて見えた。
宿泊客と一緒であれば外部からの客も利用できるラウンジバーだ。あの男が宿泊客ならば、もしかしたら今夜もここに泊るのかもしれない。
なんとなくだが同じ顔を三夜連続で見たくはない。多都希は明日からはバーを利用するのを控えようと思った。
「なんか引っかかるんだよな……」
もう一度男に視線を移す。髪型以外にも昨晩と何かが違う気がした。しかしどれだけ観察しても分からない。
「探偵の真似事なんて柄じゃねぇな」
多都希は男から視線を外すと、バーテンダーを呼んで酒を注文した。
入口の方を気にするも、スガワラは現れない。
一時間経った頃、丸眼鏡の男は連れと荷物を残して席を立った。
残された方の茶髪の男は退屈そうに深いため息をついた。
丸眼鏡の男に遮られて良く見えなかったが、茶髪の男は昨日と同じ人物だった。昨日の派手な格好から一転して、パーカーにデニムとかなりラフな格好をしていたため、今まで気付かなかった。
違和感の正体は丸眼鏡の男本人ではなく、隣にいた人物の雰囲気が違っていたことだったのだ。
グラスの中の氷がカランっと小気味良い音を奏でる。
「直接プレートを返すのは無理か……」
わずかに残っていたグラスの中身を飲み干した多都希はバーを出た。
エレベーターのボタンを押そうとした瞬間、ネームプレートはバーの前で拾ったのだから、バーの人間に預けてくれば良かったのだと思い直す。そうすればわざわざロビーに行く必要もないし、部屋にコンシェルジュを呼び出さずに済む。
多都希が再びバーに戻ろうと踵を翻した瞬間、黒いパーカーに帽子を目深にかぶった青年が真横を通り抜けていった。
その青年が気になった多都希は、通路の壁に寄りかかり彼が戻って来るのを待った。
突き当りにはトイレしかないため、彼は再びここを通る。
一分もしないうちに青年は引き返してきた。
またすれ違いそうになったため、多都希は青年の腕を掴む。
「ッなにす――……もしかして昨日のお客様?」
青年はスガワラだった。
「やっぱりな。どうも。昨日ここで会ったビルディエクリーンの人間で間違いないか?」
「そうですけど……あ、染髪をお疑いですか? 顔も知らない父親が海外の人間らしいので、この髪は地毛なんですよ」
ビルディエクリーンは警備が主体の会社のため規則が厳しく、ほとんどの社員が黒髪か暗い茶髪だ。
スガワラの言葉は、これまで幾度となく髪の色について言及されてきた故の慣れた弁明だった。
しかし今の多都希には、スガワラの容姿や生まれなどは関係ない。落とし物を返却するというミッションの方が重要だ。
「別に髪を染めていようが地毛だろうが気にしない。本題は昨日ここでぶつかった時のことだ」
「昨日はぶつかって本当にすみませんでした。だけどオレ今ちょっと急いでるんで、ご意見等ありましたら社の方へお願いします」
腕を振り払いバーに戻ろうとするスガワラを制し、多都希はポケットに忍ばせていたネームプレートを差し出す。
「そう焦るな。これお前のじゃないか? ぶつかった際に落としていったように見えたんだが」
「えっ、やば! ありがとうございます! これオレのです。オレ、菅原恵っていいます。あー……どうしよう、受け取りに本人確認とか必要ですか? 財布に免許証入れてたっけ……」
「いや、必要ない。違ったらバーの人間に預けようと思っていたくらいだったからな」
「じゃあ、ありがたく。危なぁ……再発行になったら三千円もかかるとこだった」
口をきゅっと結んだ恵は、ネームプレートをパーカーのポケットにしまった。
再発行の金額を気にするあたり、とてもエグゼクティブフロアに宿泊できる余裕があるとは思えない。今日は清掃の制服ではないため、一体どうやってバーに入ったのだろうか。
「ちょっと待て。恵、お前どうやってここに入った? そもそも未成年じゃないだろうな」
「い、いきなり下の名前呼び……? まあ、いいけど。ここに入れたのは、ロビーでラウンジに連れて行ってくれそうな人に声をかけられたからです。ちなみにオレ、二十二歳」
「二十二⁉ こんな豆しばみたいなずんぐりむっくりが……」
「……人のこと言えないけど、相当デリカシーないね。そういうお兄さんはいくつなんですか?」
「俺は塩谷、来年三十になる」
「塩谷さんね。てか思ってたより年上じゃん……。お手数をおかけしてすみませんでした。それじゃあオレ、忙しいんで失礼します」
「お、おい」
恵はスタスタと歩き始めた。そしてバーの入口で一度振り返る。
「これは……本当に、ありがとうございました……」
恵はそう言い残して、ふいっと顔を背けた。
呆気に取られた多都希は、後方から聞こえる足跡に促されて慌ててバーに戻る。自分はただの宿泊客だ。誰に見られても良いはずなのに、恵の行動に釣られてコソコソと逃げるような真似をしてしまった。
先に薄暗いバーに戻っていた恵を探すと、丸眼鏡の男が座っていた場所がよく見えるテーブル席のソファーに腰かけていた。
「あいつ、一人じゃなかったのか……?」
四人席なのに恵の連れは彼の隣に座っている。そして空席になったカウンター奥をじっと観察する恵の口元にグラスを近づけた。
いかにも小金持ちの脂ぎった五十路といった風貌は、傍から見たら恵がこれから一晩買われるように見えるだろう。それくらいミスマッチで異端な組み合わせだった。
恵は押し付けられたグラスをやんわりと押し返しているが、男は強引に迫る。ますますグラスの中でゆらゆらと蠢く液体が怪しい。
先ほどまで座っていたカウンター席に戻ることをやめた多都希は、恵と連れが座る正面にドカッと座る。
「ッひゃい⁉ ちょ、ちょっと塩谷さん、今度はなに⁉ オレ、あんまり目立ちたくないんですけど」
「ガキにビトゥイーン・ザ・シーツは、早すぎるんじゃねぇの?」
恵の言葉を無視した多都希は、鼻息の荒い男を眼光鋭く見据える。
「おっさん、テメェが何してたか、俺はあっちのカウンターからずっと見てたぞ」
「ぼ、ぼぼぼっ僕はこの子に誘われたから連れてきてやったんだ!」
男の反論はまったく答えになっていない。
慌てふためく真っ黒な男に対して多都希は舌打ちを返す。
恵は何が何だか分からないといった表情をしている。
「こいつがいくらアホでも、人としてやっちゃいけねぇラインってのはあるだろうが。ここの警備に突き出されたくなければ、とっとと失せろ」
多都希が睨みつけると、男は恵の前をすり抜け、転びそうになりながらバーを飛び出して行った。
店内が騒めいたのも一瞬で、他の客たちは何事もなかったかのように自身の時間に戻る。
丁度そのタイミングで、丸眼鏡の男の連れが電話をしながらバーを出て行った。
力が抜けたのか、恵は脱帽してソファーに涼み込んだ。金色の髪が外にぴょこっと跳ねる。
「ええぇ……」
「お前、今日も丸眼鏡の監視してたんだろ。今からでもあいつの連れを追いかけるか?」
「いやぁ……やめとく。ちょっと疲れた……。ホントに意味わかんない。塩谷さん、山田さんに一体何をしたの?」
「山下だか田山だが知らねぇが、なんであんな下心満載のクソジジイと同席するかね。ほーら、見てみろ。グラスの底に砕かれた錠剤が溜まってる。一錠分ってことは、全バース対象の強制発情剤ってところか。ベータでも酒と一緒に飲めば、意識なんて簡単に飛ばせる。お前をこの下の階にある部屋に連れ込むくらい余裕だろうな」
グラスを持ち上げて天井のライトにかざすと、底にはすり潰された白い粒が転がっていた。
恵の顔はサッと青くなる。
「薬⁉ 何してたか見てたってそういうこと⁉」
「さっきまでお前と話してたんだから、薬入れてる瞬間なんか見てるわけねぇだろ。ブラフだよ、ブラフ。あのジジイ、お前と知り合いっぽい雰囲気の俺が来てから、明らかに挙動不審だっただろうが」
「そんなぁ……。エグゼクティブフロア専用のカードキーがないとバーラウンジには入れないんだよって親切に声をかけてくれたのに……」
「パーカーにキャップでバーに来るようなガキを手籠めにするくらいチョロいと思ったんだろうよ。強制発情剤なんつーもん持ってるってことは、常習犯かもな」
「最悪……」
「勉強になったな。カクテル言葉にも気づかないガキんちょは、もうこんなところに来るんじゃねーぞ」
ガキという言葉に反応して生意気な言葉が返ってくるかと思いきや、恵は見るからにしょげて肩を落としていた。大きな瞳は叱られた仔犬のように潤んでいる。
「何度も助けてもらってすみませんでした……。オレの用事も終わったし、帰ります」
「あ、ああ。気を付けて帰れ。いや、待て。まだあのジジイがうろついてるかもしれないから、出口まで送る」
「さっきも言ったけど、オレ、成人してるんだよ? もう大人なんだけど……」
「見た目もやってることもご立派な大人様には見えねぇんだよ」
「うぅ……」
多都希はトボトボと歩き始めた恵の腕を引いてバーを出た。
どうして恵が休みの日にまでラウンジに忍び込むようなことをしたのか気になっていた多都希は、理由を尋ねた。
利用客が多いのか、エレベーターは中々来ない。
初めは黙り込んでいた恵だったが、無言に耐えられなくなったのか、ぼそぼそと語り出した。
「昨日、バーラウンジ近くのトイレでお客さんが酒に酔って吐いたって連絡が来て、片付けをするためにあの廊下を通ったんです。掃除が終わってやっと帰れると思ったら、バーカウンターの奥に母親の婚約者が誰かといるのが見えて……」
「ああ、あの丸眼鏡がそうなのか。それにしちゃあ、とんでもない気迫で睨んでなかったか? 今から刺し殺しにでも行くのかと思ったぞ」
「ッだって! あいつ、藤江って言うんだけど、オレの母さんが勤めるスーパーの店長なんです。いくら給料もらってんのか知らないけど、こんなセレブ御用達の専用ラウンジで酒飲めるような余裕あると思いますか?」
「まあ、仮にそうだとしても、独身なら自由に使える金も多いだろうし、自分への褒美で泊まるやつも中にはいるんじゃないか?」
時計にスーツ、革靴にバッグまで、身に着けている物すべてがいかにも成金だったとは言えない。そんな歯切れの悪い多都希に、恵は疑いの目を向ける。
「それ本気で言ってる? 塩谷さんだって近くに座ってたんだから、藤江のことは見てたはずですよね……」
「そう突っかかってくんなよ。母親の婚約者が浮気してるんじゃないかと疑い、お前は怒っている。視野が狭まっているのは明らかだ。第三者の客観的な意見だって必要だろ?」
そう口では言うが、隣にいた相手が友人か仕事仲間なのか分からないが、些か距離が近かったのも事実。母親の婚約者である藤江を良く知る恵が疑念を抱いてもおかしくはない。
ラブホテルなど安価なホテルではなく、エグゼクティブフロアを利用しているくらいだ。もし本当に浮気なら気合いを入れて口説いている最中か、既に複数人と交際していると考えた方が無難だろう。
「塩谷さんの言う通り、一年に数回の自分へのご褒美ならいいけど、今日も藤江は誰かとホテルにいるかもしれない、オレの母さんを裏切ってるかもしれないって思ったら、居ても立っても居られなくて……」
「つったって行動派すぎんだろ。まあ、母親の再婚相手、白だといいな。酒を一緒に飲んでるだけじゃ、浮気相手なのか、友人なのか、もしくは仕事相手なのか微妙なところだろう」
「そうですよね……。母さん男運ないからさ、オレが自主的に探偵紛いなことしてるって言ったら反対されると思うけど、やっぱりオレが何とかしてやんないと。今回も決定的な証拠見つけらんなかったから、日を改めてもう少し探ってみます」
「ほどほどにな」
「ありがとう、塩谷さん」
ロビーに着くと、恵はフロントに荷物を預けているからと言って去っていった。
多都希はまたしばらくエレベーターを待つ。
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