【完結】技術部アルファの想い人

笹川流宇

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新生活-1

 一週間のホテルでの生活を終えた。いよいよ今日から新生活が始まる。
 新しい住まいは、多都希と入れ違いで海外転勤が決まった知人の自宅だ。貸し出す条件として提示されたのは、住居の維持管理のみだった。それはオーストラリアを離れる直前まで働き詰めで新居を探す余裕がなかった多都希にとっても、非常にありがたい申し出だった。

 新居は世田谷区にある閑静な住宅街。
 メゾネットタイプのハイグレードマンションで、リビングには大きな窓と吹き抜け、それから収納棚付きの階段がある。キッチンや風呂などの水回りは一階に、二階には十畳ほどの洋室が三部屋。北と南にそれぞれバルコニーが付いており、風通しも良い。
 マンション自体は六階建てだが、多都希の新居は階数でいえば、五階、六階に相当するため、プライバシー対策も万全だ。
 ファミリー向け物件のため独身男性には手に余る広さだが、仕事が落ち着いたら昔飼っていた柴犬を迎えたいと考えており、事前に家主からも許可を得ている。

 多都希はマンションの地下にある住民専用の駐車場に車を停めて、エントランスの前で引越し業者を待っていた。
 少し早すぎたかとスマートフォンで時間を確認すると、見覚えのある人物がこちらに向かって歩いてきた。
 一方通行道路ではないが、車ですれ違う際には減速し気を配る必要がある道のため、反対の壁側を歩いていても顔は認識できる。ジッと見ていたので視線を感じたのか、男と目が合った。互いになんとなく頭を下げると、男は向かいのマンションのエントランスに入っていった。
 取引先の顔を思い浮かべても心当たりはない。
 四十代くらいの男性で、フレームが特徴的な丸眼鏡の――。
「バーにいたやつだ……」
 謎が解けた瞬間、背後から「うわっ!」と素っ頓狂な声が聞こえた。
「塩谷さん? なんでここにいるんですか? もしかして、ス、ストーカー……?」
「……お前にだけは言われたくないわ」
 目元を抑えた多都希は、はあ、と深いため息をつく。
 あの日と同じ黒いパーカーにキャップをかぶった菅原恵との一週間前ぶりの再会であった。


 マンションの管理会社の立ち合いの元、多都希の家具や荷物はものの一時間ですべて搬入された。
 それから一体どうしてか、段ボールが積み重なった部屋で、恵とリビングの窓に張り付いている。
 恵と再会してすぐに引越し業者が到着してしまったため、多都希は恵を自宅に引き入れてしまった。恵が藤江を今も追っていることは明白だったので、騒いで見つかってはいけないと思い、咄嗟に手を引いてしまったのだ。
 ここまでしてやる義理も恩もないのだが、恵も流されるままに引越しの手伝いをさせられて困惑しただろう。それにすぐに使用する日用品や、前もって購入していたカーテンを入れた段ボール箱を探し当てたのは恵だった。
「そんなに藤江とやらが好きかねぇ……」
 ひとり言のつもりで呟いた言葉に、恵はぎょっとした表情で反論する。
「んなわけないじゃん! 止めてって言っても体にベタベタ触ってくるし、香水はくっさいし、服のセンスも最悪。このまま早く母さんと別れて欲しいと思ってるくらいなんだから! だから浮気の証拠を探してんの!」
「わっ、悪かったよ、分かったから落ち着け。というか、カーテンの設置くらい手伝ってくれてもいいんじゃねーの……?」
「無理ですよ。窓が大きすぎて俺じゃレールに手が届かないし、さっきまで段ボール箱の整理も手伝ってたじゃないですか」
「じゃあそっち側にある段ボールも開けてくれ」
「そっちってどっちー……」
「なあ。それ、引越し当日の俺より忙しい……?」
「あ! いた!」
 こちらの話をスルーした恵は、向かいのマンションの六階の角部屋に狙いを定めてスマートフォンのカメラを起動させた。
「おまっ、馬鹿か! 百歩譲って裸眼で観察すんのはいい、でもこの家から盗撮すんのだけは止めろ! 知り合いから借りている家だし、引越して早々に向かい側のマンションの住民とトラブルとか洒落になんねぇから」
「ご、ごめん、なさい……」
 強く叱られたことで興奮が冷めたのか、恵はしゅんとうな垂れた。
「ああ、違う、怒ってるわけじゃない。まあ、なんだ。お互い一回落ち着こう」
 今しがた設置したばかりの革張りの煉瓦色のソファーに恵を座らせると、色のコントラストがはっきりとして肌の白さが際立った。思いのほか体も沈み込んで足がプラプラと浮いている。

 多都希は恵の隣に腰かけた。
 自慢じゃないが、塩谷多都希という人間はデフォルトで威圧感があるらしい。目を合わせない方が、恵も話しやすいだろうとあえて正面を向いたまま話す。
「冷蔵庫はまだ冷えてないし何も入ってないから、とりあえずこれ飲んどけ」
 駅前のコンビニで購入した常温の水を差し出すと、恵は一切の躊躇なく、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。
「本当に飲むのかよ」
「だめだったの? 飲めっていったの塩谷さんなのに……」
 つい先週、知らない男に薬を盛られかけたばかりだというのに警戒心がなさすぎる。多都希は、自分で飲めと言っておきながら、どうしたものかと頭を抱えた。
「いや、気にすんな。話を戻すが、今日も母親の婚約者を追いかけ回してたってことは、まだ解決していないのか?」
「はい……。あいつ、ずっと怪しいんですよ! 母さんとのデートもドタキャン続きで……。オレの尾行がバレたのか、今週は実家に戻るのかとか、どこにいるのかって頻繁に連絡来て、警戒されてるみたい……。しつこすぎてブロックしちゃったけどね」
「今日は、どこから藤江を尾行してんだ?」
「豊島区にある藤江の自宅からです。今日はあいつも休みだって知ってたから、浮気相手がいるなら会いに行くかなと思って。藤江の家の目の前に公園があるからそこで時間を潰しつつ、自宅から出て来たところを追いかけて来ました」
「大移動だな、ガッツあり過ぎんだろ……。ん? 向かいのマンションが藤江の自宅じゃないのか?」
 ここは世田谷区だ。今入っていたのは、知人の自宅なのだろうか。多都希が眉間に皺を寄せて呟く。
 恵は「そうなんですよ!」と拳をぐっと握った。
「このマンションに来るの、今週に入ってから二回目なんです! しかも前回は終電を過ぎても出てこなかった」
「いやいや、待て。お前どれだけ見張ってたんだよ!」
「オレは翌日から仕事だったので、終電の時間が過ぎたくらいで、駅前のネカフェに戻って――」
「ネカフェ⁉」
 多都希がそう叫ぶと、恵は「ネットカフェって知ってます?」と見当違いな心配をしていた。
「今どこで寝泊まりしてんだ」
「だから駅前のネットカフェですけど。実家は藤江がアポなしで来ることもあるし、母さんと付き合い始めた頃なんて、毎日のように来てたから居づらくて。ここ二週間くらいは浮気相手(仮)と遊んでるっぽいから、あんまり来てないみたいですけど」
 べえっと舌を出す恵は、そもそも藤江のことを相当嫌っているようだ。尾行はするが、直接顔を合わせたくはないといったところだろう。
「ビルディエクリーンは警備部門も清掃部門も正社員と契約社員しかいないよな。本当に週五で仕事しながら探偵の真似事してんのか⁉」
「はい。元々体は丈夫だし、三週間前くらいから先輩が担当している場所にヘルプに入ってて……塩谷さんと会ったあのホテルで。だからネカフェで寝泊まりしてる方が実家から通うより楽なんんですよ」
 あっけらかんと笑う恵に毒気を抜かれる。
 いくら成人しているとはいえ、先ほども野球少年の帰りかと思ったほど小柄なのだ。深夜に徘徊したり不特定多数が出入りしたりするネットカフェで寝泊まりするのは危険だ。
 出会った日からどこか放って置けなかったのは、幼少期に共に過ごした愛犬に似て、無鉄砲だからか――。
「あのホテルが臨時なら、いつもはどこで働いてんだ?」
「虎ノ門にある栄餅屋製菓の本社ビルです」
「豊島区のどこに住んでんのか知らないが、新宿のホテルより虎ノ門の方が遠くないか?」
「虎ノ門は地下鉄で一本で行けるから、そうでもないんです」
 栄餅屋の本社は、多都希の勤める梅福建設本社の数百メートル先にある。豊島区にある実家からもそこそこ遠いはずだ。
 損得勘定のそろばんを高速で弾いた多都希は、恵に提案を持ち掛ける。
「なるほど……。俺はこれから梅福建設の本社に通う予定だ。栄餅屋のビルとも近い」
「梅福建設……めちゃくちゃ立派なあのビルで……。すごいですね。えっと、働いてるビルが近いからまた偶然会うかもねってことですか?」
「話は最後まで聞け。お前、料理はできるか?」
「はい。うちは母子家庭で、小さい頃から母の手伝いをしていたので、家庭料理くらいなら」
「家事は?」
「清掃の仕事してんのに? できなきゃ困る」
 恵はくすくすと笑う。金髪でいかにもやんちゃそうな男だが、笑うとより幼く見えて可愛らしかった。
 そういえば、笑った顔を初めて見た。開放した窓から柔らかな春風が吹き込んできたかのごとく、胸いっぱいに喜びが広がる。その喜びは、幸運と達成感だ。
「よし、今日からお前もここに住め。家賃光熱費はタダ。階段上ったフロアの一室のどこかを好きに使っていい。さらに通勤の送迎付きだ」
「そっ、そんな悪いですよ」
「ここは元々知り合いの家なんだ。家賃だって相場の半分もかかっていない。部屋は有り余っているし、後から同居人が増えても構わないと家主からも言われている」
「慈善事業すぎるでしょ、塩谷さんの知り合いも、塩谷さんも……」
「まあ、家主はそうだな。また藤江が向かいのマンションに来るかもしれないだろ。監視するには絶好の場所だと思わないか?」
「そりゃあ、そうですけど……」
「それに問題が解決するまで深夜に自宅付近でお前がウロウロしてんじゃないかと思うと、俺が落ち着かない。パトカーのサイレンが聞こえるたびに外に出る羽目になる。ここは住宅街。防犯カメラやら警備に力を入れているところばかりだ。藤江に見つからなくても、すぐに近隣住民から不審者がいるって通報されるぞ。前に張ってた時に通報されなかったのは、幸運だったな」
「たしかに……」
「何も無条件で住まわせてやるわけじゃない。自慢じゃないが俺は料理も家事もからっきしだから、近いうちにハウスキーパーを外注するつもりだった。それをお前に任せたいと思っている」
「なるほど……?」
 恵の意志が変わらぬうちに多都希は畳み掛ける。しかしどうしてこんなにも必死になっているのか、自分でも分からない。
「忙しい日や体調不良の時は、遠慮なく申し出てほしい。あくまで出来る限りのことをやってくれたらいい。どうだ、悪くない条件だろ?」
 手を差し出すと、恵はおずおずと握り返してくれた。その手は思っていたよりもゴツゴツとしていて、働き者の手をしていた。
「居候の身であれなんだけど、こっちからも一つだけ条件いい、ですか?」
「なんだ?」
「お前じゃなくて、名前で呼んでください。母親や友達からは、めぐって呼ばれてます」
「……めぐ、む」
 多都希がそっぽを向くと、恵は、いひひっといらずらっぽく笑った。

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