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清掃オメガの運命の人
恵の現在-2
結婚してから初めて迎えたヒート。抑制剤を完全に抜いて避妊薬も飲まず、恵と多都希はただ愛と快楽に溺れて過ごした。多都希のフェロモンのバランスを整える目的もあったが、それは恵にとっても必要な時間だった。
ヒート前から何度も何度も体を重ねたおかげで、恵は情事の際に長く意識を保っていられるようになったし、多都希の暴走気味だったアルファフェロモンもすっかり元通りになった。
恵の願いごとはすぐに実った。
夏前には妊娠していることが分かり、すぐに産休に入った。
急な申し出にも関わらず、上司も同期も挙って祝福してくれて、恵がいない間のことは任せてくれと背中を押してくれた。いつもヒート休暇のフォローに入ってくれている先輩は、安産祈願のお守りまでプレゼントしてくれた。高校を卒業してビルディエクリーンに入社して早五年、恵の努力が認められた結果だった。
通常よりも早く入った産休には、理由がある。
第二性平等の世の中になってきているとはいえ、分母が小さい分、有事の際に男性のオメガを受け入れられる病院はまだまだ少ない。階段から落ちて体を打ったとか、躓いて転んだとか、女性の妊婦にも起こりうるアクシデントであっても、男性オメガである恵の場合は設備や医師の問題があるため即座に対応できない可能性が高いという。
恵は妊娠発覚直前に一度階段で転んだことがある。しばらく腹痛が治らなかったため、病院に行って妊娠していることが判った。
医師からは腹痛が治まるまで絶対安静を言い渡され、安定期までは清掃業務のような長時間の肉体労働は控えるようにと指導されたのである。
恵はずっと体が緊張していた。洗濯や炊事といった生きていく上で必要なことはしてもいいのだろうか。どこまでが許容範囲内の行動なのか、正解が分からない。
さらにつわりもひどく、日に日に多都希以外のにおいを受け付けなくなっていた。
食事もままならず、毎日多都希のパジャマや下着を抱えて横たわる日々。落ち込んでも寝てしまえば前向きになれる恵だったが、終わりの見えない体調不良ですっかり気が滅入っていた。
多都希は帰宅すると風呂場に直行し、身を清めてから恵の元へとやってくる。真夏に風邪なんてひくわけがないのに、ずっと恵の体調を第一に考えて行動してくれていた。
「おかえり……」と精一杯の笑みを浮かべて呼び掛けると、多都希は泣きそうな顔をしてキスしてくれる。
次のヒートから妊活しようと誘ったのは恵で、それも百パーセント自分の意志だ。それでも多都希は、恵が苦しんでいるのは自分のせいだと思い込んでいる。
「大丈夫だよ、好き、大好き……大好きだよ、多都希さん」
自分よりも大きな体をありったけの力で抱きしめる。多都希が元通りになっても、毎日好きだと伝える約束は継続していた。多都希も好きだと言われるのは嬉しそうだし、恵もやめたいとは思わない。当たり前になったこのやり取りが、唯一心に安らぎを与えてくれる瞬間だった。
「ああ、俺も好きだ、めぐ」
これ以上多都希を悲しませたくない。とにかく今は、自分にできることをやろう。
先ずはゆっくり体を動かすことから始める。週末は朔と去年生まれたばかりの赤ちゃんと一緒に散歩をさせてもらう約束だってしている。赤子を抱く朔の姿を見ていると、同じ男性オメガとして未来に希望を抱けるのだ。
こうした多都希の献身と周りの助けがあって、恵の体調も落ち葉が舞う頃にはかなり良くなっていた。
妊娠している恵のフォローをするために母は塩谷家の本宅で暮らすことになった。息子を守るために長年住んでいた自宅を売り払い、職も手放した。そして塩谷家の家政婦として働くことになった母だが、自分の人生を歩んでほしいと思っていただけに、恵は申し訳なさでいっぱいになった。
確かに母の引越しは、今も恵の行方を追う藤江と縁を切る最後のピースだった。
そんな気に病む恵の杞憂を取り除いたのも母だった。
今まで出来なかったことをしようと、有休消化中に二泊三日の一人旅にチャレンジしてみたり、車の免許を取得するために自動車学校に通い始めたり、精力的に活動している。
母は今まで以上に生き生きとしていた。
もうこれで安心だと誰もが油断していたところに事件は起こった。
母が藤江の妻に誘拐されたのだ。
恵をおびき寄せるための電話を受けたのは多都希だった。
藤江の妻に呼び出されたのは、奇しくも藤江がセカンドハウスにしていた世田谷区のマンション。どうして藤江の妻がそんなところに自分を呼び出すのだ。母は自分のせいで誘拐されたのではないか。どうか無事でいてほしい――。
カタカタと震えることしかできない恵の横で、塩谷の男たちは物凄いスピードで戦う準備を始めていた。
身重の自分が同行したところで足手まといになることは分かっていたが、それでも一緒に行きたかった。誘拐されたのは自分の母で、最愛の夫が敵地に乗り込むというのだ、じっとなんてしていられない。
みんなお前が大事だから安全なところで帰りを待っていてほしいと多都希に説得された恵は、無事に帰って来てと祈りを込めてキスを送ると、多都希は恵の大好きな不敵な笑みを浮かべて家を出て行った。
残された恵は、祖父に支えられながらリビングに戻る。
「みっともないところをお見せしてすみません」
「こういうのは多都希に任せておけばいいんだよ。恵君は、お腹の子と自分を労わってあげなさい」
「はい……」
恵の肩にブランケットをかけ直すと、祖父はキッチンに向かう。その後ろ姿を目で追いかける。義兄の那由多もそうだが、体から滲み出るオーラのようなものが多都希そっくりだ。この場合、塩谷家の中で一番年下は多都希なので、多都希が祖父や兄に似ていると表現すべきなのだろう。
「さて、お茶でも入れようかね。カップを準備してくれるかい?」
仕事を与えられた恵は祖父の隣に移動する。何かしていた方が落ち着くため、ありがたい配慮だ。祖父は威厳たっぷりの大企業のトップだが、家ではただの優しいおじいちゃんだった。
生まれた頃から祖父母のいない恵にとっては、たった一人の祖父だ。
「もちろんです。お爺様はいつものコーヒーになさいますか? それでも頂き物の紅茶にしましょうか?」
「もう匂いは平気なのかい?」
「うーん、初めの頃よりは……あはは……」
「ふっふ、では私も恵君がいつも飲んでいるカフェインレスのお茶にしようかね。こう見えても私はお茶を淹れるのも上手いぞ。かれこれ五十年は毎朝自分でコーヒーを淹れているからね」
そして祖父は恵が愛飲しているルイボスティーの茶葉を取り出した。
「お爺様の淹れたコーヒーはとても美味しいと聞きました。母も何度かご馳走になったと――……」
忘れていたわけではない。あえて話題にしていなかったが、やはり母が心配で再び涙が滲む。
せっかく気を遣ってくれたのに申し訳ないと言うと、祖父は恵の頭を優しく撫でて「大丈夫だ」と励ましてくれた。
リビングのソファーに腰かけた瞬間、多都希から電話がかかってきた。
通話を繋いでおくという約束をさっそく果たしてくれた。現場の状況次第では強制的に切電すると前置きがあった。
恵は救助の邪魔をしないように聞き手に徹することを誓う。
車を走らせながら多都希はずっと恵に語り掛けてくれた。気を紛らわせるために、最近仕事で出会った面白い人の話や、道中にあったチェーン店が変わっていることなど、取り留めのない会話が続く。そんな孫夫夫の絆を祖父は黙って見守ってくれていた。
多都希が世田谷のマンションに到着してからは怒涛の展開だった。
ボディーガードに坊ちゃんと呼ばれているんだな、とほっこりしたのも束の間、藤江の家のドアを蹴破る勢いで室内に上がり込んだ。
「友梨さん!」
多都希の呼びかけに恵の心臓がドクリと跳ねる。
母の声が聞こえた瞬間、恵は堰き止められていたダムが決壊したかのごとく涙を流した。温かい祖父の手が背中を擦ってくれて、嗚咽が止まらなくなる。
ガチャガチャと鳴っているのは、多都希の上着が端末に擦れているせいだろう。
ノイズが鳴り止んだと同時に、甲高い男の声が聞こえて来た。
倉田岳久と名乗った男は、復讐のために藤江に近づいて、藤江の妻に不貞の証拠を送りつけたのだという。そのせいで何も知らずに藤江と交際していた母や、ストーカーされていた恵にも矛先が向かったようだ。
今すぐ乗り込んで殴り飛ばしたい気持ちを抑え込んで拳を握りしめていると、多都希から呼び掛けられた。
「聞こえているか恵、事の顛末は把握した。これから友梨さんと帰る」
祖父と顔を見合わせた恵は「うん!」と答えた。
「恵、体調はどうだ、落ち着いたか?」
「平気。母さんが無事で安心したし、多都希さんも怪我をしてないってわかったから、気が抜けた……」
母とも話したかったが、泣き声が聞こえるため難しいだろう。
多都希もそう思ったのか、ふっと小さく笑った。
「いいか、絶対に安静にしてろよ。まだ祖父は側にいるな?」
チラリと横を見ると、祖父は大きく頷いた。操作していた端末の画面をこちらに向けて来る。
表示されているメッセージは、栄餅屋製菓の会長宛てだった。内容は、ナインパークの責任者と連絡を取りたいから、仲介してくれというものだ。このまま多都希に帰ってくるように伝えてくれ、と耳打ちされる。
「一緒にいる。ずっと隣で大丈夫だよって励ましてくださっていたよ。お爺様、本当に感謝しています。それからね、お爺様が伝手を辿ってナインパークの会長さんに直接連絡を取ってくれたから、そのまま警備の人を残して帰って来ていいよだって」
「そうか。そちらでも手を尽くしてくれていたんだな、ありがとう」
「ううん、オレは何もできなかったよ…」
「めぐはちゃんとお腹にいる子どもを守ってただろ。前までのお前だったら俺の制止も聞かずに突っ走ってた」
若干芝居がかった言い回しに、恵は察する。
恵を運命の番だと思い込んでいる藤江にとっては、もう他人のものになって妊娠までしていると知らせるのが一番効果的だろう。
ならばコテンパンにしてやろうではないか、と火がついた恵も、いつもより甘えた声で応える。
「そりゃあ、多都希さんから毎日のように段差に気をつけろとか、ちょっとでも気分が悪くなったら言えとか過保護に見守られてれば、嫌でも自分の体を大事にしないといけないなって思うよ」
「当たり前だろ。お前のことが世界で一番大事なんだから」
多都希はどんな顔をして愛を囁いているのだろうか。これは芝居ではなく本心だと分かる。それに多都希はクールに見えて情に脆い一面がある。これ以上藤江に追撃する必要はないと思っているのかもしれない。自分の夫はなんて出来た人間なのだろう。
しかし恵は、多都希ほど優しくはない。徹底的に藤江を打ちのめし、もう二度と菅原家と塩谷家に関わろうと思えないようにしてやると闘志を燃やしていた。
結果的には恵が多都希をパパと呼び、早くキスをしてくれとねだったことが決定打となり、藤江は失神した。
いかに恵が多都希にぞっこんであるか、この短い会話でも十分に伝わったことだろう。
未成年の売春や会社の金の横領など、余罪が山ほど出て来た藤江は逮捕された。
避難場所として逃げ込んだ塩谷家の実家だったが、すっかり居心地が良くなってしまって、引っ越す予定はもうない。母もこのまま家政婦として働く道を選んだ。
これからは、もっと楽しい未来が待っている。
先ほどまで塩谷家のリビングで食卓を囲んでいた恵、多都希、祖父と母は、皆穏やかな表情で未来を待ち望んでいた。
「みんな早く会いたいってさ」
膨らんだお腹に多都希の手が重なる。
恵はにこっと笑うと、お腹の中の赤ちゃんもポコッと応えてくれた気がした。
ヒート前から何度も何度も体を重ねたおかげで、恵は情事の際に長く意識を保っていられるようになったし、多都希の暴走気味だったアルファフェロモンもすっかり元通りになった。
恵の願いごとはすぐに実った。
夏前には妊娠していることが分かり、すぐに産休に入った。
急な申し出にも関わらず、上司も同期も挙って祝福してくれて、恵がいない間のことは任せてくれと背中を押してくれた。いつもヒート休暇のフォローに入ってくれている先輩は、安産祈願のお守りまでプレゼントしてくれた。高校を卒業してビルディエクリーンに入社して早五年、恵の努力が認められた結果だった。
通常よりも早く入った産休には、理由がある。
第二性平等の世の中になってきているとはいえ、分母が小さい分、有事の際に男性のオメガを受け入れられる病院はまだまだ少ない。階段から落ちて体を打ったとか、躓いて転んだとか、女性の妊婦にも起こりうるアクシデントであっても、男性オメガである恵の場合は設備や医師の問題があるため即座に対応できない可能性が高いという。
恵は妊娠発覚直前に一度階段で転んだことがある。しばらく腹痛が治らなかったため、病院に行って妊娠していることが判った。
医師からは腹痛が治まるまで絶対安静を言い渡され、安定期までは清掃業務のような長時間の肉体労働は控えるようにと指導されたのである。
恵はずっと体が緊張していた。洗濯や炊事といった生きていく上で必要なことはしてもいいのだろうか。どこまでが許容範囲内の行動なのか、正解が分からない。
さらにつわりもひどく、日に日に多都希以外のにおいを受け付けなくなっていた。
食事もままならず、毎日多都希のパジャマや下着を抱えて横たわる日々。落ち込んでも寝てしまえば前向きになれる恵だったが、終わりの見えない体調不良ですっかり気が滅入っていた。
多都希は帰宅すると風呂場に直行し、身を清めてから恵の元へとやってくる。真夏に風邪なんてひくわけがないのに、ずっと恵の体調を第一に考えて行動してくれていた。
「おかえり……」と精一杯の笑みを浮かべて呼び掛けると、多都希は泣きそうな顔をしてキスしてくれる。
次のヒートから妊活しようと誘ったのは恵で、それも百パーセント自分の意志だ。それでも多都希は、恵が苦しんでいるのは自分のせいだと思い込んでいる。
「大丈夫だよ、好き、大好き……大好きだよ、多都希さん」
自分よりも大きな体をありったけの力で抱きしめる。多都希が元通りになっても、毎日好きだと伝える約束は継続していた。多都希も好きだと言われるのは嬉しそうだし、恵もやめたいとは思わない。当たり前になったこのやり取りが、唯一心に安らぎを与えてくれる瞬間だった。
「ああ、俺も好きだ、めぐ」
これ以上多都希を悲しませたくない。とにかく今は、自分にできることをやろう。
先ずはゆっくり体を動かすことから始める。週末は朔と去年生まれたばかりの赤ちゃんと一緒に散歩をさせてもらう約束だってしている。赤子を抱く朔の姿を見ていると、同じ男性オメガとして未来に希望を抱けるのだ。
こうした多都希の献身と周りの助けがあって、恵の体調も落ち葉が舞う頃にはかなり良くなっていた。
妊娠している恵のフォローをするために母は塩谷家の本宅で暮らすことになった。息子を守るために長年住んでいた自宅を売り払い、職も手放した。そして塩谷家の家政婦として働くことになった母だが、自分の人生を歩んでほしいと思っていただけに、恵は申し訳なさでいっぱいになった。
確かに母の引越しは、今も恵の行方を追う藤江と縁を切る最後のピースだった。
そんな気に病む恵の杞憂を取り除いたのも母だった。
今まで出来なかったことをしようと、有休消化中に二泊三日の一人旅にチャレンジしてみたり、車の免許を取得するために自動車学校に通い始めたり、精力的に活動している。
母は今まで以上に生き生きとしていた。
もうこれで安心だと誰もが油断していたところに事件は起こった。
母が藤江の妻に誘拐されたのだ。
恵をおびき寄せるための電話を受けたのは多都希だった。
藤江の妻に呼び出されたのは、奇しくも藤江がセカンドハウスにしていた世田谷区のマンション。どうして藤江の妻がそんなところに自分を呼び出すのだ。母は自分のせいで誘拐されたのではないか。どうか無事でいてほしい――。
カタカタと震えることしかできない恵の横で、塩谷の男たちは物凄いスピードで戦う準備を始めていた。
身重の自分が同行したところで足手まといになることは分かっていたが、それでも一緒に行きたかった。誘拐されたのは自分の母で、最愛の夫が敵地に乗り込むというのだ、じっとなんてしていられない。
みんなお前が大事だから安全なところで帰りを待っていてほしいと多都希に説得された恵は、無事に帰って来てと祈りを込めてキスを送ると、多都希は恵の大好きな不敵な笑みを浮かべて家を出て行った。
残された恵は、祖父に支えられながらリビングに戻る。
「みっともないところをお見せしてすみません」
「こういうのは多都希に任せておけばいいんだよ。恵君は、お腹の子と自分を労わってあげなさい」
「はい……」
恵の肩にブランケットをかけ直すと、祖父はキッチンに向かう。その後ろ姿を目で追いかける。義兄の那由多もそうだが、体から滲み出るオーラのようなものが多都希そっくりだ。この場合、塩谷家の中で一番年下は多都希なので、多都希が祖父や兄に似ていると表現すべきなのだろう。
「さて、お茶でも入れようかね。カップを準備してくれるかい?」
仕事を与えられた恵は祖父の隣に移動する。何かしていた方が落ち着くため、ありがたい配慮だ。祖父は威厳たっぷりの大企業のトップだが、家ではただの優しいおじいちゃんだった。
生まれた頃から祖父母のいない恵にとっては、たった一人の祖父だ。
「もちろんです。お爺様はいつものコーヒーになさいますか? それでも頂き物の紅茶にしましょうか?」
「もう匂いは平気なのかい?」
「うーん、初めの頃よりは……あはは……」
「ふっふ、では私も恵君がいつも飲んでいるカフェインレスのお茶にしようかね。こう見えても私はお茶を淹れるのも上手いぞ。かれこれ五十年は毎朝自分でコーヒーを淹れているからね」
そして祖父は恵が愛飲しているルイボスティーの茶葉を取り出した。
「お爺様の淹れたコーヒーはとても美味しいと聞きました。母も何度かご馳走になったと――……」
忘れていたわけではない。あえて話題にしていなかったが、やはり母が心配で再び涙が滲む。
せっかく気を遣ってくれたのに申し訳ないと言うと、祖父は恵の頭を優しく撫でて「大丈夫だ」と励ましてくれた。
リビングのソファーに腰かけた瞬間、多都希から電話がかかってきた。
通話を繋いでおくという約束をさっそく果たしてくれた。現場の状況次第では強制的に切電すると前置きがあった。
恵は救助の邪魔をしないように聞き手に徹することを誓う。
車を走らせながら多都希はずっと恵に語り掛けてくれた。気を紛らわせるために、最近仕事で出会った面白い人の話や、道中にあったチェーン店が変わっていることなど、取り留めのない会話が続く。そんな孫夫夫の絆を祖父は黙って見守ってくれていた。
多都希が世田谷のマンションに到着してからは怒涛の展開だった。
ボディーガードに坊ちゃんと呼ばれているんだな、とほっこりしたのも束の間、藤江の家のドアを蹴破る勢いで室内に上がり込んだ。
「友梨さん!」
多都希の呼びかけに恵の心臓がドクリと跳ねる。
母の声が聞こえた瞬間、恵は堰き止められていたダムが決壊したかのごとく涙を流した。温かい祖父の手が背中を擦ってくれて、嗚咽が止まらなくなる。
ガチャガチャと鳴っているのは、多都希の上着が端末に擦れているせいだろう。
ノイズが鳴り止んだと同時に、甲高い男の声が聞こえて来た。
倉田岳久と名乗った男は、復讐のために藤江に近づいて、藤江の妻に不貞の証拠を送りつけたのだという。そのせいで何も知らずに藤江と交際していた母や、ストーカーされていた恵にも矛先が向かったようだ。
今すぐ乗り込んで殴り飛ばしたい気持ちを抑え込んで拳を握りしめていると、多都希から呼び掛けられた。
「聞こえているか恵、事の顛末は把握した。これから友梨さんと帰る」
祖父と顔を見合わせた恵は「うん!」と答えた。
「恵、体調はどうだ、落ち着いたか?」
「平気。母さんが無事で安心したし、多都希さんも怪我をしてないってわかったから、気が抜けた……」
母とも話したかったが、泣き声が聞こえるため難しいだろう。
多都希もそう思ったのか、ふっと小さく笑った。
「いいか、絶対に安静にしてろよ。まだ祖父は側にいるな?」
チラリと横を見ると、祖父は大きく頷いた。操作していた端末の画面をこちらに向けて来る。
表示されているメッセージは、栄餅屋製菓の会長宛てだった。内容は、ナインパークの責任者と連絡を取りたいから、仲介してくれというものだ。このまま多都希に帰ってくるように伝えてくれ、と耳打ちされる。
「一緒にいる。ずっと隣で大丈夫だよって励ましてくださっていたよ。お爺様、本当に感謝しています。それからね、お爺様が伝手を辿ってナインパークの会長さんに直接連絡を取ってくれたから、そのまま警備の人を残して帰って来ていいよだって」
「そうか。そちらでも手を尽くしてくれていたんだな、ありがとう」
「ううん、オレは何もできなかったよ…」
「めぐはちゃんとお腹にいる子どもを守ってただろ。前までのお前だったら俺の制止も聞かずに突っ走ってた」
若干芝居がかった言い回しに、恵は察する。
恵を運命の番だと思い込んでいる藤江にとっては、もう他人のものになって妊娠までしていると知らせるのが一番効果的だろう。
ならばコテンパンにしてやろうではないか、と火がついた恵も、いつもより甘えた声で応える。
「そりゃあ、多都希さんから毎日のように段差に気をつけろとか、ちょっとでも気分が悪くなったら言えとか過保護に見守られてれば、嫌でも自分の体を大事にしないといけないなって思うよ」
「当たり前だろ。お前のことが世界で一番大事なんだから」
多都希はどんな顔をして愛を囁いているのだろうか。これは芝居ではなく本心だと分かる。それに多都希はクールに見えて情に脆い一面がある。これ以上藤江に追撃する必要はないと思っているのかもしれない。自分の夫はなんて出来た人間なのだろう。
しかし恵は、多都希ほど優しくはない。徹底的に藤江を打ちのめし、もう二度と菅原家と塩谷家に関わろうと思えないようにしてやると闘志を燃やしていた。
結果的には恵が多都希をパパと呼び、早くキスをしてくれとねだったことが決定打となり、藤江は失神した。
いかに恵が多都希にぞっこんであるか、この短い会話でも十分に伝わったことだろう。
未成年の売春や会社の金の横領など、余罪が山ほど出て来た藤江は逮捕された。
避難場所として逃げ込んだ塩谷家の実家だったが、すっかり居心地が良くなってしまって、引っ越す予定はもうない。母もこのまま家政婦として働く道を選んだ。
これからは、もっと楽しい未来が待っている。
先ほどまで塩谷家のリビングで食卓を囲んでいた恵、多都希、祖父と母は、皆穏やかな表情で未来を待ち望んでいた。
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