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一章
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部屋の空気は重く、けれど妙に静かだった。
どこか現実離れした温度の中で、奏は意識の海からゆっくりと浮かび上がってきた。
瞼の裏に張り付くような鈍い痛みと、枕元に染み込んだ汗のにおい。思考の縁がぼやけている。けれど、それは単なる二日酔いでも、眠気でもなかった。
――いや、もう「眠った」と言っていいのかどうかすら曖昧だ。
記憶はところどころ焼き切れ、まるで夢と現実が溶け合ったように脳内で混濁している。けれど、身体だけはちゃんと覚えていた。
深夜2時。バーから連れ帰られた直後、ノアはほとんど言葉も交わさず、奏の身体に触れた。甘やかすように、しかし絶対的な支配を孕んだ手つきで。
そのまま朝の6時近くまで、息もつかせぬほどに長く、深く、男は奏のすべてを貪った。
力を抜く暇もなく抱かれ、翻弄された四時間。
奏は何度も「もう無理だ」と思いながら、気づけば腕を絡め、脚を縺れさせていた。身体は先に降参していた。
そして、息も絶え絶えに眠りへ落ちたのは、太陽が昇り切る少し前だった。
――にもかかわらず、目覚めたのは数時間後時。
そしてその後浴びせられたのが、ノアの強烈な“グレア”だった。
アルファが持つ威圧的なフェロモン、それも完全な制御なしで直撃したもの。
空間ごと叩き潰されるような強烈な圧が襲いかかり、考えることをやめて自暴自棄に飯を詰め込むとそのまま眠った。
――次に目が覚めたときには、すでに22時を回っていた。
外は夜の帳に包まれており、カーテンの隙間から覗くネオンの光が、まるで別の世界を照らしているかのようだった。
「……っ、は……」
喉が焼けつくように渇いている。
吐き出した息は苦く、胃の奥が空洞のように締めつけられていた。
だが最も異常だったのは、自分の身体がまるで“他人のもの”のような感覚であったことだ。
柔らかなシーツに包まれているはずなのに、どこか感覚が浮いていて、まるで地に足が着かない。
寝汗をかいたはずの首筋も、洗われた後のようにさらさらしていた。自分で拭った覚えはない。
そして気づけば、寝た時とは違う肌触りの良い上等なパジャマに着替えさせられていた。縫製からして既製品ではないかもしれないと思わせるほど丁寧な作り。しかもサイズはぴったり。
あの時のパジャマは自分の吐瀉物にまみれていたのだろう。
(……ノアか)
すぐに察した。誰でもない、あの男の手だ。
視線をやると、ベッド脇のハンガーには昨日着ていたパーカーとジーンズが丁寧に掛けられている。まるで何事もなかったかのように。
けれど、身体はすべてを覚えていた。
奥深くに残る感触、痺れ、微熱。それは明確に“誰かに触れられた”痕跡だった。
そして、何よりも――
(……まだ、あいつの匂いが残ってる)
肌から浮き立つような香り。淡く、しかし濃く張り付いていて、どれだけ深呼吸しても拭い去れない。
普段はほとんど反応しないはずの自分の身体が、今はほんの少しの刺激にも過敏に揺れる。
オメガとしての自分が、確かに“選ばれてしまった”という実感だけが、寝具のぬくもりに埋もれていた。
なのに。
どうしてか胸が苦しい。喉の奥が焼けるようだ。
ノアの優しさが、支配のようにも、慈悲のようにも思えてしまう。
――そのどちらにも、慣れていない自分が、ただ情けなかった。
(……やめときゃよかった)
どこまでも、自分を無遠慮に暴いていくノアが気に食わない。
何も知らない癖にまるで最初から「知っていた」とでも言うように、ノアは踏み込んでくる。
心の奥に、誰にも触れてほしくなかった場所にまで――。
「……ああもう……俺、なにしてんだよ……」
呟いた声は掠れきっていた。
頬に触れた自分の手が、ひどく熱を帯びていることに気づき、奏は眉をしかめてシーツに顔をうずめた。
甘い夢のような地獄に溺れていく。それが今の自分だった。
奏は、ベッドの脇にそっと置かれていた自分のバッグに目を留めた。
おそらくノアが整えておいてくれたのだろう。ファスナーはきちんと閉じられ、取っ手の位置まで元のままだ。そういうところが、あの男の怖いところだ――触れた痕跡すら残さずに、誰かの生活に入り込む。
静かに、バッグを手繰り寄せる。
底板の裏に指を滑らせると、そこには外からはわからない二重構造の裏地。爪の先で縫い目を辿り、わずかに膨らんだ箇所を見つけると、そこに隠された小さなチャックを開けた。わずかに引っかかる音とともに、それは“秘密”の入り口を開いた。
指先が触れたのは、古びたガラス瓶。
半ば剥がれかけたラベルの文字は、もはや読めるかどうかも曖昧だ。
だが奏にはわかっていた――ZERO(ゼロ)。
イグノセプトを濃縮した、違法スレスレの強力な抑制剤。
一錠飲めば、熱を――“発情”を強制的に封じる。
だが代償はあまりに大きい。
肝機能障害、抑うつ、そして何より……強烈な依存性。
それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
いや、むしろ身体が勝手に動いていた。
バッグの中から取り出したその瓶を見つめたまま、奏の手は小刻みに震えていた。
目の奥が熱い。鼓動が喉までせり上がる。
感情がぐちゃぐちゃに入り混じっているのに、なぜか“欲望”だけが研ぎ澄まされている。
「……っざけんなよ……」
乾いた声が、自分の口から洩れる。
思考がまとまらないまま、ただ呪詛のように言葉を吐き出す。
「俺は……俺は、あんな風にならねぇ……誰に媚びて生きるかよ、俺はオメガだけど……っ、俺は……!」
口の中がカラカラだった。
それでも瓶の蓋を捻る。
ぎり、とガラスがきしむ音がやけに耳に響いた。
中から取り出したのは、一見なんの変哲もない白い錠剤。
だがこれが――自分という存在をコントロールするための最後の砦だと知っていた。
指先に乗せた錠剤が、手の震えのせいで、カチリと小さく跳ねる。
奏はそれを逃すまいとすぐに口に運び、ためらいもなく喉奥へと送り込んだ。
すぐさま、近くのペットボトルの水を掴んで、まるで火を消すように一気に流し込む。
冷たい水が喉を通り過ぎるたび、胸の奥にかすかな痛みが走った。
それでも、飲み込まずにはいられなかった。
――熱が、すぐそこまで来ていた。
身体の奥に巣食う“獣”が、すでに牙を剥いていた。
昨夜、ノアに満たされた肉体が、理屈を超えて“続き”を求めてしまいそうになる。
「……俺は……誰のものにもなんねぇ……」
小さな声で、壊れたように呟いた。
けれどそれは、どこか自分自身を説得するための祈りにも近かった。
血の気が引いていく。脳の奥で何かが凍りつく感覚。
ZEROが効き始める。オメガとしての本能を無理矢理押し潰していく、冷たい薬の刃が、意識を切り裂く。
苦しい。
けれど――これしかない。
愛されることなんて、自分にはきっと……最初から、許されてないんだから。
ZEROを飲み込んだばかりの喉奥が、鈍く痺れている。
無理矢理押し込んだ水の冷たさが食道を伝って胃へと落ちていくのを感じながら、奏はぐらりと揺れる視界の中でゆっくりとベッドに背を倒した。
柔らかく、高級なマットレスの感触すら、今は現実から乖離したように思える。
薄暗い天井の模様が滲み、部屋の輪郭がぼやけていくなかで、奏は浅く息を吐いた。
ゼロは確かに効いている。だが、それはただ“本能”を薬で捩じ伏せているにすぎない。
脳が無理矢理に覚醒しはじめる。けれどそれと引き換えに、身体が焼けつくような“異物感”に覆われていく。
呼吸が浅く速くなり、胸が上下するたびに心臓が痛いほどに跳ねた。
薬の作用なのか、それとも欲望の名残か。分からない。ただ確かなのは、自分の体が自分のものじゃないという恐怖だった。
――落ち着け。冷静になれ。
奏は、自分にそう言い聞かせながら、右手を腹に乗せた。
そこは、何の異常もないはずの場所だった。
けれど、その奥、内臓のさらに奥に、じわじわと火を焚きつけるような熱が宿り始めている。
発情でもない、欲望でもない、もっと根源的な“改変”の気配。
そう、もう身体は変わってしまったのだ。
アルファと交わったことで、オメガの生理が反応し、自らを“適応”へと作り替えていく。
――抑制剤が、効いてない。
その事実に気づいた瞬間、呼吸が止まりそうになった。
ゼロでさえ止められないということは、もう二度と、あの熱を抑えることはできないかもしれない。
この体は、もう“あいつ”を求めるように、刻み直されてしまったのだ。
自分の意志とは無関係に、心とは裏腹に。
脳裏に焼きついている、あの夜の感触――
ノアの手、腕、声、眼差し。
そして何より、奥に届いて、全てを満たしていったあの“熱”。
――欲しい。
その言葉が脳内に浮かび上がった瞬間、奏の喉からしゃくり上げるような嗚咽が洩れた。
まるで獣が自分の中で泣き喚いているようだった。
そんなはずじゃなかった。
“あの母親”とは違うと思っていた。
同じ穴に堕ちたりしないと、あれほど誓ったのに。
自分は、誰にも依存せずに生きていくと決めたはずだった。
愛されなくてもいい。欲しがらなくていい。
そうやって強く生きてきたのに、ほんの一晩の交わりで、身体の芯から“あの男”を欲しがるようになっている。
「……やめろ……やめろよ、俺……」
声にならない呻きが唇から洩れる。
涙が一滴、そしてまた一滴、静かに頬を伝っていった。
嗚咽すら出ない。泣くことすら、うまくできない。
ただ、痛みだけが、内側からぶすぶすと燻っていた。
見ないふりをしていたスマホの画面が、ふと目に入る。
サイドテーブルの上。どこまでも冷静に、無機質に、淡々と振動と点滅を繰り返している。
恐る恐る手を伸ばし、画面に指を滑らせた瞬間、数十件の未読通知が一斉に表示された。
――「どこにいる」
――「お前、大丈夫か?」
――「すぐに連絡を返せ」
――「番にはなってねぇよな?」
ーー「大人しく店で待っとけって言っただろバカガキ」
すべて、伊月からだった。
普段は何が起こってもどっしりと構えている伊月がここまで狼狽えていたという事実に、胸が詰まる。
奏は震える指先で、たった一言だけを打ち込んだ。
――「伊月、うるさい。そんなにガキじゃない…後で行くから、黙ってて」
送信を終えると、指先が力尽きたように落ちた。
伊月から諦めたような「分かった」のメッセージが来るとそしてまた体を倒し考え込むように触り心地のいい布団を撫で回した。
ノアと出会ってから、何かが狂い始めていた。
この体も、心も、過去さえも――もう全部、自分の手に負えなくなっている。
どこか現実離れした温度の中で、奏は意識の海からゆっくりと浮かび上がってきた。
瞼の裏に張り付くような鈍い痛みと、枕元に染み込んだ汗のにおい。思考の縁がぼやけている。けれど、それは単なる二日酔いでも、眠気でもなかった。
――いや、もう「眠った」と言っていいのかどうかすら曖昧だ。
記憶はところどころ焼き切れ、まるで夢と現実が溶け合ったように脳内で混濁している。けれど、身体だけはちゃんと覚えていた。
深夜2時。バーから連れ帰られた直後、ノアはほとんど言葉も交わさず、奏の身体に触れた。甘やかすように、しかし絶対的な支配を孕んだ手つきで。
そのまま朝の6時近くまで、息もつかせぬほどに長く、深く、男は奏のすべてを貪った。
力を抜く暇もなく抱かれ、翻弄された四時間。
奏は何度も「もう無理だ」と思いながら、気づけば腕を絡め、脚を縺れさせていた。身体は先に降参していた。
そして、息も絶え絶えに眠りへ落ちたのは、太陽が昇り切る少し前だった。
――にもかかわらず、目覚めたのは数時間後時。
そしてその後浴びせられたのが、ノアの強烈な“グレア”だった。
アルファが持つ威圧的なフェロモン、それも完全な制御なしで直撃したもの。
空間ごと叩き潰されるような強烈な圧が襲いかかり、考えることをやめて自暴自棄に飯を詰め込むとそのまま眠った。
――次に目が覚めたときには、すでに22時を回っていた。
外は夜の帳に包まれており、カーテンの隙間から覗くネオンの光が、まるで別の世界を照らしているかのようだった。
「……っ、は……」
喉が焼けつくように渇いている。
吐き出した息は苦く、胃の奥が空洞のように締めつけられていた。
だが最も異常だったのは、自分の身体がまるで“他人のもの”のような感覚であったことだ。
柔らかなシーツに包まれているはずなのに、どこか感覚が浮いていて、まるで地に足が着かない。
寝汗をかいたはずの首筋も、洗われた後のようにさらさらしていた。自分で拭った覚えはない。
そして気づけば、寝た時とは違う肌触りの良い上等なパジャマに着替えさせられていた。縫製からして既製品ではないかもしれないと思わせるほど丁寧な作り。しかもサイズはぴったり。
あの時のパジャマは自分の吐瀉物にまみれていたのだろう。
(……ノアか)
すぐに察した。誰でもない、あの男の手だ。
視線をやると、ベッド脇のハンガーには昨日着ていたパーカーとジーンズが丁寧に掛けられている。まるで何事もなかったかのように。
けれど、身体はすべてを覚えていた。
奥深くに残る感触、痺れ、微熱。それは明確に“誰かに触れられた”痕跡だった。
そして、何よりも――
(……まだ、あいつの匂いが残ってる)
肌から浮き立つような香り。淡く、しかし濃く張り付いていて、どれだけ深呼吸しても拭い去れない。
普段はほとんど反応しないはずの自分の身体が、今はほんの少しの刺激にも過敏に揺れる。
オメガとしての自分が、確かに“選ばれてしまった”という実感だけが、寝具のぬくもりに埋もれていた。
なのに。
どうしてか胸が苦しい。喉の奥が焼けるようだ。
ノアの優しさが、支配のようにも、慈悲のようにも思えてしまう。
――そのどちらにも、慣れていない自分が、ただ情けなかった。
(……やめときゃよかった)
どこまでも、自分を無遠慮に暴いていくノアが気に食わない。
何も知らない癖にまるで最初から「知っていた」とでも言うように、ノアは踏み込んでくる。
心の奥に、誰にも触れてほしくなかった場所にまで――。
「……ああもう……俺、なにしてんだよ……」
呟いた声は掠れきっていた。
頬に触れた自分の手が、ひどく熱を帯びていることに気づき、奏は眉をしかめてシーツに顔をうずめた。
甘い夢のような地獄に溺れていく。それが今の自分だった。
奏は、ベッドの脇にそっと置かれていた自分のバッグに目を留めた。
おそらくノアが整えておいてくれたのだろう。ファスナーはきちんと閉じられ、取っ手の位置まで元のままだ。そういうところが、あの男の怖いところだ――触れた痕跡すら残さずに、誰かの生活に入り込む。
静かに、バッグを手繰り寄せる。
底板の裏に指を滑らせると、そこには外からはわからない二重構造の裏地。爪の先で縫い目を辿り、わずかに膨らんだ箇所を見つけると、そこに隠された小さなチャックを開けた。わずかに引っかかる音とともに、それは“秘密”の入り口を開いた。
指先が触れたのは、古びたガラス瓶。
半ば剥がれかけたラベルの文字は、もはや読めるかどうかも曖昧だ。
だが奏にはわかっていた――ZERO(ゼロ)。
イグノセプトを濃縮した、違法スレスレの強力な抑制剤。
一錠飲めば、熱を――“発情”を強制的に封じる。
だが代償はあまりに大きい。
肝機能障害、抑うつ、そして何より……強烈な依存性。
それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
いや、むしろ身体が勝手に動いていた。
バッグの中から取り出したその瓶を見つめたまま、奏の手は小刻みに震えていた。
目の奥が熱い。鼓動が喉までせり上がる。
感情がぐちゃぐちゃに入り混じっているのに、なぜか“欲望”だけが研ぎ澄まされている。
「……っざけんなよ……」
乾いた声が、自分の口から洩れる。
思考がまとまらないまま、ただ呪詛のように言葉を吐き出す。
「俺は……俺は、あんな風にならねぇ……誰に媚びて生きるかよ、俺はオメガだけど……っ、俺は……!」
口の中がカラカラだった。
それでも瓶の蓋を捻る。
ぎり、とガラスがきしむ音がやけに耳に響いた。
中から取り出したのは、一見なんの変哲もない白い錠剤。
だがこれが――自分という存在をコントロールするための最後の砦だと知っていた。
指先に乗せた錠剤が、手の震えのせいで、カチリと小さく跳ねる。
奏はそれを逃すまいとすぐに口に運び、ためらいもなく喉奥へと送り込んだ。
すぐさま、近くのペットボトルの水を掴んで、まるで火を消すように一気に流し込む。
冷たい水が喉を通り過ぎるたび、胸の奥にかすかな痛みが走った。
それでも、飲み込まずにはいられなかった。
――熱が、すぐそこまで来ていた。
身体の奥に巣食う“獣”が、すでに牙を剥いていた。
昨夜、ノアに満たされた肉体が、理屈を超えて“続き”を求めてしまいそうになる。
「……俺は……誰のものにもなんねぇ……」
小さな声で、壊れたように呟いた。
けれどそれは、どこか自分自身を説得するための祈りにも近かった。
血の気が引いていく。脳の奥で何かが凍りつく感覚。
ZEROが効き始める。オメガとしての本能を無理矢理押し潰していく、冷たい薬の刃が、意識を切り裂く。
苦しい。
けれど――これしかない。
愛されることなんて、自分にはきっと……最初から、許されてないんだから。
ZEROを飲み込んだばかりの喉奥が、鈍く痺れている。
無理矢理押し込んだ水の冷たさが食道を伝って胃へと落ちていくのを感じながら、奏はぐらりと揺れる視界の中でゆっくりとベッドに背を倒した。
柔らかく、高級なマットレスの感触すら、今は現実から乖離したように思える。
薄暗い天井の模様が滲み、部屋の輪郭がぼやけていくなかで、奏は浅く息を吐いた。
ゼロは確かに効いている。だが、それはただ“本能”を薬で捩じ伏せているにすぎない。
脳が無理矢理に覚醒しはじめる。けれどそれと引き換えに、身体が焼けつくような“異物感”に覆われていく。
呼吸が浅く速くなり、胸が上下するたびに心臓が痛いほどに跳ねた。
薬の作用なのか、それとも欲望の名残か。分からない。ただ確かなのは、自分の体が自分のものじゃないという恐怖だった。
――落ち着け。冷静になれ。
奏は、自分にそう言い聞かせながら、右手を腹に乗せた。
そこは、何の異常もないはずの場所だった。
けれど、その奥、内臓のさらに奥に、じわじわと火を焚きつけるような熱が宿り始めている。
発情でもない、欲望でもない、もっと根源的な“改変”の気配。
そう、もう身体は変わってしまったのだ。
アルファと交わったことで、オメガの生理が反応し、自らを“適応”へと作り替えていく。
――抑制剤が、効いてない。
その事実に気づいた瞬間、呼吸が止まりそうになった。
ゼロでさえ止められないということは、もう二度と、あの熱を抑えることはできないかもしれない。
この体は、もう“あいつ”を求めるように、刻み直されてしまったのだ。
自分の意志とは無関係に、心とは裏腹に。
脳裏に焼きついている、あの夜の感触――
ノアの手、腕、声、眼差し。
そして何より、奥に届いて、全てを満たしていったあの“熱”。
――欲しい。
その言葉が脳内に浮かび上がった瞬間、奏の喉からしゃくり上げるような嗚咽が洩れた。
まるで獣が自分の中で泣き喚いているようだった。
そんなはずじゃなかった。
“あの母親”とは違うと思っていた。
同じ穴に堕ちたりしないと、あれほど誓ったのに。
自分は、誰にも依存せずに生きていくと決めたはずだった。
愛されなくてもいい。欲しがらなくていい。
そうやって強く生きてきたのに、ほんの一晩の交わりで、身体の芯から“あの男”を欲しがるようになっている。
「……やめろ……やめろよ、俺……」
声にならない呻きが唇から洩れる。
涙が一滴、そしてまた一滴、静かに頬を伝っていった。
嗚咽すら出ない。泣くことすら、うまくできない。
ただ、痛みだけが、内側からぶすぶすと燻っていた。
見ないふりをしていたスマホの画面が、ふと目に入る。
サイドテーブルの上。どこまでも冷静に、無機質に、淡々と振動と点滅を繰り返している。
恐る恐る手を伸ばし、画面に指を滑らせた瞬間、数十件の未読通知が一斉に表示された。
――「どこにいる」
――「お前、大丈夫か?」
――「すぐに連絡を返せ」
――「番にはなってねぇよな?」
ーー「大人しく店で待っとけって言っただろバカガキ」
すべて、伊月からだった。
普段は何が起こってもどっしりと構えている伊月がここまで狼狽えていたという事実に、胸が詰まる。
奏は震える指先で、たった一言だけを打ち込んだ。
――「伊月、うるさい。そんなにガキじゃない…後で行くから、黙ってて」
送信を終えると、指先が力尽きたように落ちた。
伊月から諦めたような「分かった」のメッセージが来るとそしてまた体を倒し考え込むように触り心地のいい布団を撫で回した。
ノアと出会ってから、何かが狂い始めていた。
この体も、心も、過去さえも――もう全部、自分の手に負えなくなっている。
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