ZERO〜訳ありオメガ、軍人アルファに囲われて幸せになります〜

犬っころ

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一章

19

伊月は、ただ静かに寄り添っていた。
 何も言わず、何も問わず──それでも注意深く、慈愛に満ちた瞳で、奏の崩壊を受け止めていた。
 細く震える涙の筋が頬をつたうたび、彼は無言のまま、指先でそっとその痕を拭った。
 声をかける代わりに、髪を撫でた。
 指先が頭皮を優しくなぞるたび、奏の肩が小さく揺れ、嗚咽が一段深くなる。

 最初はひと筋だった涙が、止め処なく溢れはじめる。
 鼻をすする音、断続的に漏れる息の詰まり、呼吸を吸い込もうとしても途中で喉が詰まり、喉奥で小さく鳴って消える。
 しゃくり上げるように肩が跳ね、声にならない声がかすれながら漏れた。

 涙を拭っても拭っても、次の雫がすぐにあとを継ぎ、何度も何度も繰り返される。
 それでも彼は、嫌がる素振りひとつ見せなかった。
 まるで「泣いていいんだ」と、無言で赦し続けているかのように、指の温度はひたすら優しく、奏の痛みの底に届くように額から後頭部へと撫で続けていた。

 奏の身体はもはや、自分の意思では制御できていなかった。
 喉が詰まり、口を開けば濁った嗚咽しか出てこない。
 涙と鼻水で顔は濡れ、しゃっくりのように身体がひくひくと震え続け、胸の奥ではまだ“壊れていない何か”が内側から暴れていた。
 泣いても泣いても、浄化される気配などなかった。

 そんな奏の前に、伊月は音を立てずに麦茶のコップを置いた。
 グラスの底に、かすかに氷が揺れた音が鳴った。
 それは、彼が酒を割るために用意していたものだった。
 けれど今は、ただ“水を与える”という、それだけの行為に姿を変えていた。

 「……飲めるようになったらでいい」

 伊月は、押しつけなかった。促しもしなかった。
 ただ奏の横に腰を下ろし、静かにその存在で包み込んだ。
 痛みを言葉に変えるまでの時間を、黙って委ねてくれた。

 やがて──泣き喚く声は、少しずつ落ち着きを見せはじめる。
 涙はまだ止まらないが、喉の奥で絡んでいた塊が少しずつ溶け、呼吸が途切れながらも吸えるようになってきた。
 奏は、濡れた袖で乱暴に目元を拭いながら、ぼんやりと置かれたコップを見下ろす。
 そして、吸いきった空気を胸に収めたあと──

 まるで決壊した堤防の水がようやく流路を得たかのように、
 奏は、言葉を選ばず、喉の奥から、しぼり出すように、声を漏らした。

 「……俺、運命の番を見つけたかもしれない」

 その言葉は、ほとんど掠れた囁きだった。
 けれど、伊月の耳に届くには十分すぎる重さを持っていた。

 「ノアの匂いを嗅ぐだけで、なんつーか……長いこと一緒にいた人みたいに安心すんだよ。体の奥が、勝手にそっち向いてく……今も、ノアが欲しい。呼吸の音すら、染み込んでくる感じで……怖いくらいに、落ち着くんだ」

 しゃがれた声が、途切れ途切れに空間を這う。
 奏は前を見たまま、何もないカウンターを見つめていた。
 まるでそこに答えがあるように、もしくは目を逸らせば壊れてしまうほどの、脆い均衡を保つように。

 「……でもさ、それって──俺の中の“オメガ”が、あいつを求めてるだけなんじゃねぇのか? これが“番”ってやつなんだとしても、それって“俺の意思”か?」

 指先がコップの縁をなぞる。爪が当たり、かすかに乾いた音がした。

 「なぁ……俺、あの母親みてぇになんのか……?」

 喉の奥でひっかかった声。
 自嘲とも、哀願ともつかない。
 痛みに濡れたその声は、ただ伊月の胸に突き刺さるだけだった。

 伊月は、数秒の沈黙のあと、低く、穏やかな声で訊ねる。

 「──そうか。……薬は、どうした」

 奏は、小さく笑った。笑いともつかない、空気が漏れるだけの乾いた音だった。

 「効かねぇんだよ。飲んでも飲んでも、熱が冷めねぇ……飲めば抑えられるって信じてたのによ……今じゃただ胃が痛てぇだけだよ。」

 頭を抱えるようにして、片手で前髪を掻きむしる。
 荒れた呼吸の合間に、心の奥から染み出した一言が落ちた。

 「なぁ、伊月……俺って、“誰”なんだよ」

 誰かの番なのか。
 オメガなのか。
 男なのか。
 それ以前に、自分という存在の“かたち”すら掴めない。
 抑えが効かない熱と、本能に軋まされるこの体は、自分そのものなのか、それとも──ただの性質なのか。

 伊月は、すぐには答えなかった。
 背後の棚に目をやり、ひと呼吸、ふた呼吸。
 そして、視線だけを奏に戻した。

 ――かれこれ二年は世話をしてきた。
 あいつが初めてこの店に現れたのは、まだ声変わりも済んでいない頃だった。
 薄汚れたパーカー、ガリガリに痩せた手首、そして野良犬みたいにギラついた目。
 誰にも懐こうとせず、必要以上に警戒心だけが強く、声をかければ牙を剝き、近づけば逃げる。
 そんな奴だった。

 けれど時間が、少しずつ輪郭を変えた。
 身なりは整い、最低限の礼節も覚えた。
 だが、心は相変わらずどこにも繋がっていなかった。

 笑顔なんて、一度も見たことがない。
 そのくせ、壊れそうな時には何故か強がって笑おうとする。まるで自分自身、弱い所を誰にも見られないように隠す手負いの獣そのものだった
 客の懐にするりと入り込み、挑発するように笑みを浮かべ、顔色ひとつ変えないで嘘を吐き、金を巻き上げるくせに、絶対に懐を開かない。
 女の膝に頭を預け、気だるげな色気で口説く姿を何度も見た──でもそこに感情はなかった。
 全部、“その場しのぎ”だった。
 そういうふうに生き抜く術を、あいつは体で覚えてしまっていた。

 それでも今──
 こうして涙を見せて、泣き腫らした目で、自分の輪郭を問うている。
 その成長仕切った姿、それだけで、伊月にとってはもう十分だった。

 「……なら、その薬はもう使うな。こっちに寄越せ、預かる」

 伊月の声は、低く、静かだった。
 けれど、否定も肯定もないその一言に、確かな“受容”があった。

 その一言に、奏の指がぴくりと止まる。
だが奏は言われるがままにバッグの奥からZEROを取り出し、机の上に置いた。

 「飯は、食ったか?」

 いつもと同じ、変わらぬ口調。
 だがそれが、今の奏には一番沁みた。

 「……食った」

 短く返す声はまだ掠れていたが、かすかに熱が戻っていた。
 それは、答えのない夜に、わずかに灯ったひとつの呼吸だった。
しばらくの間、二人の間には言葉がなかった。
 ただ、空気が濃く、重く、熱を帯びていた。

 けれど、その沈黙を最初に破ったのは、涙だった。

 奏はふいに顔を伏せたかと思うと、唐突に声を漏らし、また次の瞬間には嗚咽とともに言葉にならない言葉を吐き始めた。
 最初はただ「なぁ…」と、語尾ばかりが繰り返される。
 それがだんだんと、“思考”と“感情”が追いつかずに崩壊したような支離滅裂な独白へと変わっていった。

 「最近、薬に体制がついてきて効きにくくなってきたんだ。それで、正直薬の副作用もきつかった。だからさ、人生の引き際だなーって感じて、死にたくてさ……ずっと……でも、いま、死にたいのかもわかんねぇ。何も見えねぇのに、体が勝手に……熱くて、怖くて、でも、嫌じゃなくて、俺……どっか、おかしくなったのかな……なぁ、どうして……」

 ひとつの感情が言葉になる前に、次の感情がそれを押し流していく。
 理路整然という言葉から最も遠い、ただ“漏れ出した心”の奔流。
 混線した回線のような言葉の渦の中で、息も整わぬまま、涙だけが次々とこぼれ落ちていった。

 伊月はそれらを遮らなかった。
 支離滅裂で意味が追えなくても、ひとつ残らず受け取るように、ただ黙って隣で頷いた。
 言葉を添える代わりに、奏の背中を一定のリズムで撫で続ける。
 その手の動きだけが、この世界に残された“秩序”のように、微かな安定を与えていた。

 奏は泣きながら、笑いも混じるようになっていた。
 笑うしかないという絶望か、泣きすぎて壊れてしまった心が引き起こす反射か。
 そのどちらかもわからないまま、喉の奥で詰まったような笑いと涙が交互に顔を出した。

 全てを吐き出し、ようやく黙った奏の前に、伊月は何も言わず味噌汁の椀を置いた。
 熱すぎず、ぬるすぎない、食わせるための“体温”で満たされた、出汁の香る湯気。

 奏はその湯気を、しばらく見つめていた。
 口にするまでに、少し時間がかかった。
 けれど、やがて小さく唇を開き、ごくり──ひとくち、そしてもうひとくちと喉を鳴らして飲み干していく。

 染みわたるように、胃の奥へ流れ込んでいく温度。
 それだけで、泣き疲れた心にひと匙の“人間らしさ”が戻ってくる気がした。

 そして、飲み終えたそのタイミングで──
 奏はぽつりと、唇を震わせた。

 「……俺、どうしたらいいんだよ」

 その声には、すでに叫ぶ力も、抗う力も残っていなかった。
 自分でも意味がわからない問いを投げることで、ただこの混乱のどこかに出口があってほしいと願っているような、切実な弱音だった。

 伊月はそれにすぐ答えず、ただゆっくり椀を下げた。
 その音さえ、静かだった。

 奏はまるで、全てを絞りきった雑巾のように、身体の力を抜いて伊月にもたれかかった。
 頬はまだ涙で濡れていたが、もう拭う力もないのか、ただそのまま身を沈めた。
 時折、しゃくりあげるように肩が小さく震える。

 泣き疲れた。
 その姿はまるで、嵐の後に残された、ただの子どもだった。

「なぁ、おとぎ話でもしてくれよ。俺が眠まででいいから、白雪姫でもシンデレラでも、…なんでもいい」

「ぁ?めんどくせぇーーあ、くそつまらない話してやるよ」

その男はな、生まれたときから世界に殴られて生きてきた。
 暴力と怒号が日常に組み込まれた家庭で、誰かの機嫌ひとつで夕飯が無くなり、
 怒鳴り声と殴る音と泣き声が、子守唄みたいな家で育った。

 高校に上がった頃には、もう目が死んでた。
 けど、死んだ目で世界を睨むために、特攻服を着て、喧嘩に明け暮れて、まるで誰かに存在意義を見出して欲しいというかのようにバイクを吹かしては街を掻き回す日々を送った。
 毎晩のように危ない連中や先輩とつるんでは、喧嘩だ賭けだ逃走だ。
 何度も警察に追われては、海辺の崖に逃げ込み、
 そこで地平線から昇る朝陽を、ただ無言で眺めた。

 そばには、いつも決まって悪友がいた。
 どこか人懐っこく、頭の回る奴だった。
 そいつはベータだと自称していて、感情の起伏も穏やかで、誰にでも愛想よく分け隔てなく、器用に世渡りしていた。

 ──けど、ある時から、違和感が生まれた。

 あいつの項から、甘ったるく、理性をじわじわ焼き崩すような、妙な香りが漂い始めたんだ。
それを指摘したとき、そんな事ない、お前の鼻がおかしくなったんだ。と変に弄り出す悪友を引きずるようにして病院に連れて行った。そして精密検査を受けた結果、その悪友は“もともとオメガに近いベータ”で、現在の性質は──アルファ5%、ベータ47.5%、オメガ47.5%になっていたんだ。
おかしいと思わないか?人口の7割がベータ、2割がアルファ、そして残り1割がオメガ。この比率ならば番を持てない、余り物のアルファが居るはずなんだ。でもそれが出ない。つまり、途中で性が変わる。これは世界でも数例しか認められていない極めて稀な事だった。

 そして医者が言ったんだ。
 「近くにアルファはいませんでしたか?」と。

 ──その問いに、答えはひとつだった。
 四六時中悪友のそばにいた、あの男しかいなかった。

 そのとき初めて知った。
 長い年月のなかで、無意識のうちにフェロモンを浴びせていたこと。
 そしてそれはアルファに求められている。と体が反応し悪友の体を作り替えていた。いつの間にか、本能がその悪友を“オメガ”へと変化させていたこと。

 そして──我慢できなかった。
 気づけば、牙を立てていた。
 番を結んでしまっていた。

 ……まだ、二人とも高校生だった。
 制服のまま、貪るように体を重ね項に噛みついて、抗えない衝動に身を任せた。
 ──それが、すべての始まりだった。


 覚悟を決めて片道3時間の切符を片手に相手の親に謝罪に行った。
 責任を取る気で、土下座してでも。
 けれど、扉を開けた瞬間、あの男は息を呑んだ。

 だから連れてきたくなかったんだ。後から青ざめるようにして出てきた悪友。
 何かと思えば──そこにいたのは、
 界隈じゃ誰もが名を知る、ヤクザの組長だった。

 そして跡取り息子──それが悪友の正体だった。
 身元を隠すため、わざわざ遠くの高校を選んで通っていたらしい。

 その場で、男はしこたま怒られた。
 殴られて、突き飛ばされて、色んなところから血を吹き出しながら何度も土下座をした。
 だが許してもらえるはずもなく、二人は引き離された。
 以降、悪友は急に高校に来なくなり連絡もつかなくなった。そして悪友と顔を合わせることも許されなくなった。

 それでも──その男は筋を通して、その自分だけのオメガになってくれた悪友を手に入れたかった。

 頭のどこかがぶっ壊れてたんだろうな。
親に相談もせず勝手に高校をやめて、親との縁を切ってその足で組の門を叩いて、「息子にしてください」って頭を下げた。

 背中には、桜吹雪と般若と龍。
 咲き誇る桜の中に──あのオメガの名前を刻んだ。
 あいつの項にだけ不格好な傷があるのはフェアじゃない。そうぶっ飛んだ頭と思考回路で男はその皮膚に、一生の誓いを彫り込んだ。

 ……けれど、その後。
 抗争が起きた。
 敵対する組に悪友が攫われた。

 そして、取り返したときには──
 その身体には、もう二度と癒えない傷が刻まれていた。

 あの悪友は、それからずっと家に閉じこもっている。
 陽の光を怖がるようにして。
 誰にも触れられず、心を凍らせたまま。

 それを目の当たりにした時、
 男は気づいてしまった。

 自分は、あの一生を背負う器じゃなかった。
 守れると思った。けど、守れなかった。
 あの日、牙を立てたあの瞬間から──もう、あいつの未来は壊れていたんだ。

 臆病だった。
 逃げた。
 番を、自分だけの責任で解消した。
自分で己の番を完治する器官にドスを付き合て、番が死んだように錯角させた。
そしてそのドスで自分の小指を切り落とし、親分の部屋に置き手紙とありったけの金を包んで姿を消した。
 全部、自分ひとりが負えばいいと……そう思って。

 しばらく経って、
 男はふと思い出した。
 ──地平線から昇る朝陽が好きだって、悪友が言ってたことを。
そいつはバイクの免許があるのにケツに乗るのが好きな変わったヤツだった。いつも男のケツに乗り、警察の車に花火を投げつけては腹がよじれるまで笑っているようなやつだった。

 だから、店を出した。
 “オリゾンテ”──イタリア語で地平線という意味だ。

 そこは、もう戻れない過去への供養であり、いつかどこかで、彼がまた陽を見上げられるように──
 そんな祈りを込めた、くだらない店だった。

親分に書き残した置き手紙には自分が不甲斐ない事、自分にはそいつの一生を背負うには未熟だった事。そしてどう償っていいか分からないからせめて指だけでも収めて欲しいという手紙だった。

 馬鹿だろ?

「……そのオメガの一生を背負うのが、怖くなっちまったんだよ」

 伊月は、いつの間にか眠りに落ちていた奏に向けて、まるで独り言のように呟いた。
 誰にも届かない、痛みだけを残した声で。

「──一生を預けても後悔しねぇ相手にだけ、……その項は噛ませろ」

 そう言うと、伊月はゆっくりと立ち上がり、自分に崩れるように身を預けた奏の身体を、まるで壊れ物でも扱うように、そっと抱き上げた。

 そして、静かに、丁寧にソファへと寝かせる。
 その頬には、一筋の涙が、静かに伝っていた。
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