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二章
20
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その数十分後、バーの扉が、乾いた音を立てて勢いよく開かれた。
重く冷たい夜風が吹き込んだ瞬間、それまで緩やかに流れていた空気が一変する。まるで冬の海から吹きつける潮風のように、鋭く、湿った気配が店内を貫いた。
軍服姿の男――ノアが、無駄のない硬い足取りで踏み込んで来た。
迷ってなどいなかった。その目には明確な目的と、絶対的な執念が宿っていた。
「この辺りのバー、全部回った。ここが最後だ。奏はいるか?」
声は低く、しかし明瞭に響いた。音にすればさほど大きくないはずなのに、背筋に、冷たい刃を滑らせるような緊張が走る。
「変に隠すなら遠慮はしない」
その一言が完全に空気を支配する。
伊月一瞬、手を止め、ソファーに横たわる小さな体に目をやった。そして短く、だが確かな頷きを返す。
「今日は臨時休店って貼り紙見えなかったか?…奏はそこで寝てるよ」
ノアの視線が即座にそちらへ向き、迷いなく歩みを進める。
重たい軍靴の音が、木の床に鈍く響いた。ノアはソファーへと近づき、椅子にもたれるようにしてぐったりと眠る奏の首元に付けられた首輪にしか目がいかなかった。
自分があげようとしていた物が横取りされたかのように伊月の手によって付けられている。その事実が腹立たしかった。
「なんで首輪が付いている」
低く、噛み殺したような声。それは怒りではなく、焦りでもなく、ただただ感情が飽和している証。
「これ以上こんな子供に何を背負わせたいんだ。お前もいい歳こいた大人だろう、ガキじゃあるまいし、分別を付けろ」
伊月は煙草に火をつけると「お前も吸うか?」とノアにも一本火をつけた。
ノアが奏のその顔に触れた瞬間、奏の表情がぴくりと動いた。
泣いたのだろう、泣き腫らした様な腫れぼったい瞳は閉じられているがどこか痛々しい。
伝わってきたのは、異常なほどの熱。肌の奥から滲み出すような体温の高さ。病的な火照り。
「……」
指先がかすかに震える。ノアは顔を伏せながら、声を絞り出した。
「伊月、こいつ……何飲んでた」
その問いは、掠れていた。激情がすでに胸の奥まで迫っているのに、それを外に漏らすことができず、喉元で渦を巻いていた。
伊月は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。淡々と答える。
「酒は飲ませてねぇよ」
ならば薬が効かなかったのか、それとも発熱をしているのか。はたまた発情期が近いのか?
考えられる可能性はあくらでもある
「それよりもこれ、見ろ」
伊月は奏から預かったZEROの瓶を机に出した。ノアは言るれるがまま視線を動かし、オレンジ色のライトがぼんやりと反射する薄暗がりの中、その禍々しさはより一層存在感を持っていた。
瓶のガラス越しに、薬品の名残のような甘ったるい香りが漂ってきた気がした。
ノアはそれを拾い上げ、迷いなく蓋を開け、鼻を近づけた。
声は抑えられていたが、その奥で何かがはっきりと“切れた”音がした。
瓶の中身を確認するように、掌に錠剤を三粒落とす。光にかざし、匂い、形、色――そのすべてに、既視感が走った。
「イグノセプト系統……“ZERO”じゃねぇか」
その薬がどれほど危険なものか、軍にいるノアが知らないはずがなかった。
本来、極度の発情症状に苦しむオメガ用に緊急処方される劇薬であり、既に複数の重篤な副作用例が報告されている。
「……ちょうど、軍でもその話が出た。」
「軍?」
「一般公開されている情報のみしか言えない。だが、基地内でもゼロの拡散が問題になってる。
フェロモンを完全に遮断する新型の抑制剤。
明日のニュースなるからここで話すが自衛隊も酷い有様のようだ。調査で、オメガへの強制投薬と性犯罪の疑いが出てきた。」
伊月は眉を動かさない。
代わりに、グラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
伊月の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「これを一日に8錠飲む日もあった」
静かに語られる現状にノアは絶句した。これを、目の前の少年は、よりにもよって常用で飲んでいた。
「どこから流れてきたか検討はつかねぇのか?」
「寧ろそれをこちらが聞きたい。奏から何か聞いていないのか」
怒りの矛先が明確になったわけではない。けれど、ノアの中で、何かがはっきりと燃え上がった。
「何度か聞いたがただ笑ってはぐらかすばかりだ。」
無言のまま、瓶ごとバッグにしまい込む。
そしてタオルケットにふと目をやった。香水のように他人の匂いが自分のオメガに漂っていて、気に食わない。咄嗟にそれを畳み、代わりに自分の制服のジャケットをそっと奏の体にかけ直す。
その姿を見ていた伊月が、奥のロッカーから無言で一着のロングコートを取り出し、差し出した。
「客商売だ。奏の匂いに持ってかれかけるだろ?俺の匂いでも嗅いでな。それに軍服姿で出てかれたら困る、帰る時はこれを着て帰れ」
ノアはそれを受け取ると、少しだけ口元を歪めるように笑った。
「悪いな」
「場所を変えよう。奏に聞かれたらちっとめんどくせぇ、カウンターで話そう」
重たげなロングコートの裾をさっと払って椅子の背もたれにかけると奏の様子を横目で確認しながら、ゆっくりとカウンターの椅子に腰を下ろした。
伊月は音を立てずにグラスを取り、氷を数粒落とした
「……話は長くなる。それにシラフで聞ける話じゃねぇよ。なんか飲むか?」
「仕事帰りに直接来たんだ。帰りも車だから、酒は飲まない」
その言葉を聞いた伊月は「待ってろ」と、ちらりとノアを見やりながら、グラスを棚から取り出した。動作は無駄がなく、けれどどこか静かに重たかった。
「なら、ジンジャーエールでも飲んどきな」
氷の入ったグラスに注がれる炭酸が、微かに泡立ちながら音を立てる。まるで、言葉にできない緊張をそっと中和しようとでもするように、静かで、どこか優しい音だった。
ノアは無言でそのグラスを受け取ると、手のひらでひんやりとした感触を確かめるように包み込む。そして、ほんの一口だけ、炭酸の刺激が喉を滑るのを感じながら、口に含んだ。
冷たい液体が舌の上を通り過ぎる瞬間――一瞬だけ、感情が止まったような錯覚があった。
だが、胸の奥に渦巻いているものは、そんなものでは到底足りないほど、熱く、深く、荒れていた。
視線は自然と横へと流れた。離れたソファーで小さく丸まったその姿は、まるで壊れ物のようで。人間というより、ただの柔らかい紙細工のように思えた。
奏をすっぽり包み込んだノアの制服の下からは、静かな呼吸がわずかに漏れている。その吐息ひとつひとつにさえ、無理やり抑え込んだ苦しみが混じっているように見えた。
ノアの喉が、ほんのかすかに鳴った。
「……それで、この薬はどこから入手してたんだ?」
押し殺すような、絞り出すような声だった。
伊月は、グラスを磨く手を止めた。
しばしの間、視線だけが交差する。伊月の目は静かだったが、そこに宿る色は決して軽いものではなかった。
「それは俺にさえ口を割らねぇ。たまに、裏路地の売人から奏を見かけたって話は聞く」
「流石は元組幹部だな。まだ繋がってるのか?」
「流石にこっちの素性も調べて来てるわな。そうだ、俺は元幹部だった。だが、今は関わっちゃー居ねぇし仕事を世話してる訳でもない。ただの飲みに来る客だ」
それ以上は話さないとでも言うかのように伊月はその話題を切り上げた。
「こっからは奏の話だ。…聞くか?」
まるで、「この話を聞く覚悟があるか」と、無言で問われているようだった。
「ああ、聞かせてくれ」
そして、短く息を吐いたあと、低い声で答えが落ちた。
「……母親のせいさ」
その言葉が、まるで氷を落としたように、グラスの底で重く響いた。
「発情期になると、わざと男を連れ込むような女だった。……それも、子どもがすぐそばにいるのに構いやしない。
“オメガは商品だ”ってな。子どもに聞こえる声で言って、避妊薬だけ飲んで、身体を売る。金が入ればそれでいいって女さ。毎日が、それの繰り返しだった」
ノアは眉をわずかにひそめた。
グラスを持った手に、ほんのわずかに力が入る。
「……それを何年も見せられたら……自分がオメガだと知った時、あいつがどう思ったか分かるだろ?」
伊月の声は、まるで過去に沈んだように淡々としていた。だがその奥には、憤りと、深い哀しみが確かに滲んでいた。何度も、それを間近で見てきた者の声だった。
「“あんな風にはなりたくない”――それだけが、あいつの中で正義だった。
誰にも媚びずに、誰にも依存せずに、発情期が来るたびに自分を否定して、ただただ……薬で必死に耐えてた。
身体を壊してでも、“オメガらしい”自分にならないように。アルファに媚びる自分にならないように」
ノアは、グラスの底に浮かぶ氷を行儀悪く指先で転がす。
ガラスと氷が触れ合う音が、妙に生々しく耳に残った。
「薬のことも……分かってたさ。」
バーテンの声が静かに続く。
「でも、止められなかった。止めようとしたこともある。でも……それが、あいつにとっての“生きてる実感”だった。
薬で体が鈍っていく感じ、胃が焼ける感覚。……それを感じてる時だけ、少しだけ落ち着くんだとよ」
ノアは深く息を吸い、そして目を閉じた。
言葉が出なかった。声にしてしまえば、何もかもが崩れてしまいそうで。
「だから……頼む。こいつの一生の責任取る気がないなら、手を引いてやってくれ。俺はこの店で十分稼いだ。だからこのまま奏を連れて店を畳むのもありだと思ってる。」
その一言が、カウンターに落ちた氷のように、鋭く静かな音を立てた。
「運命の番だろうがただの番だろうが、なんだろうが、体だけ抱いて、ちょっと優しくして、それで“全部受け止めてる”つもりになって――でも手に負えなくなったら捨てる。……そんな奴らを見てきた。」
伊月の声に、感情が混じる。
静かだが、確かに怒りと焦燥があった。
「そんな中途半端な責任の取り方をするなら、やめてくれ。
捨てられたら、今度こそ生きる術がないんだ。……もう、俺は見てられねぇんだよ」
カウンターの灯りが、揺れていた。
グラスの中の泡が弾けるたび、張り詰めた沈黙がわずかに揺らぐ。
ノアは、そのすべてを黙って聞いていた。
唇を引き結び、ただ、静かに拳を握りしめていた。
そして、ようやく、搾り出すように低く言葉が漏れる。
「……責任なら最初から取るつもりだ」
声は小さかったが、確かだった。揺るぎないものがそこにはあった。
「誰にも譲る気はない」
その宣言に含まれたのは、所有の欲でも、支配でもない。
それは、魂に近い何か――「全部引き受ける」という、覚悟そのものだった。
「逃がさねぇよ」
氷の溶ける音が、さらに静かに響く。
ノアの視線が、もう一度奏の方へと向いた。
「逃げるなら逃げられなくなるまで追いかけてやろう」
誰よりも不器用で、けれど誰よりも強く、守ろうとする者の言葉だった。
奏の寝顔は、まるでこの世界から切り離されたように静かだった。
そのまま消えてしまいそうな、淡い命の灯火。
「責任?そんなのここに来た時から過去未来全て追うつもりで来ている」
そしてノアは語り始めた
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