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三章
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「あ、と、病院の前で言うの気まずいんだけど、ZERO飲んでました。なので健康は期待しない方がいい。ついでに病院はすごく嫌いです」
「安心しろ、腕のいい医者を探しておいてやった」
「いや、そういうの関係ないって。ノアと伊月以外喋らないからな」
病院棟の正面玄関が、まるで無機質な巨獣の喉元のように、ゆっくりと視界に迫ってきた。
「いつまで続くか見物だ」
信頼のない人に自信を明け渡す気はない。誰彼構わず心を許していたらいつか破滅する、奏は思っていた。
規則正しく刈り込まれた芝、光沢を失わないタイル張りのアプローチ。すべてが「異物を拒む構造」として機能しているかのようだった。
ノアは一言も発さず、スムーズに車をロータリーの一角に寄せる。無音に近いブレーキ、寸分の狂いもないハンドルの切り方。彼の運転には、「日常」の痕跡がなかった。すべてが訓練され、研ぎ澄まされ、妥協なく制御されている──それが軍という世界の人間の、それも頂点に立つ者の「静けさ」だった。
エンジン音が止むと、空気は一変する。
風の音が戻り、病院の外壁に陽が斜めに当たり始める音さえ聴こえてきそうな静寂が訪れた。
ノアは車のドアを開ける。
奏は一瞬遅れてその音に反応し、助手席のドアに手を伸ばす。
車外に出た瞬間、空気が変わるのを肌で感じた。
街の陽気さや奔放な雑踏は跡形もなく、ここにはただ、研ぎ澄まされた清潔と、滅菌された緊張感と、統制の香りが満ちていた。
ノアの背中が、すでに数歩先にある。
その背を見失いたくなくて、奏は無言のまま足を速めた。
──迷子にはなりたくない
こんな広大な土地で迷子になったら死ねる自身しかない。
軍医療棟。
基地の中でも、最も限られた人間しか立ち入ることのできない区画。
ここには、怪我の応急処置を行う救護室はない。代わりに存在するのは、軍専用の研究設備と、精神・肉体双方に対する最先端の診療ユニット。
まるで異世界のように無音で、冷ややかに、整然としている。
ノアのブーツの音は、絨毯の上ではかすかな重みとして伝わってきた。
奏は、ただそれに追いつくように歩く。
振り返らないノアの背中を見つめながら、心のどこかで「問われている」と感じていた。
追いつけるか。追い続ける覚悟があるか。言葉ではなく、距離で。歩調で。
ようやくノアが足を止めたのは、長い廊下の突き当たり──
何の表札もない、殺風景な扉の前だった。
ただ、その静けさの中に、ひどく重たい気配がある。空気がそこだけ歪んでいるような、静かな威圧。
ノアは一切の予備動作なく、そのドアノブに手をかけた。
ノックもせず、確認もせず、まるで自室に戻るかのように当然の動作で扉を押し開く。
──そこに“誰がいるか”を、最初から知っている者の動きだった。
扉が開かれる瞬間、冷気のような室内の空気がわずかに漏れ出て、奏の皮膚を撫でていった。
直感的に「ここはただの診察室じゃない」と理解する。
何かが──日常では扱われない、もっと根源的な何かが行われている。そう確信させるような、透明で、異質な空気。
奏は思わず立ち止まりそうになった。
「クレイン、連れてきた」
けれど、ノアの背がそのまま前へ進んでいくのを見て、ほんの一拍遅れて、奏はノアの背に隠れるようにしてその境界線を跨いだ。
室内は、白かった。
ただただ、ひどく静かで、どこまでも白い空間だった。
「安心しろ、腕のいい医者を探しておいてやった」
「いや、そういうの関係ないって。ノアと伊月以外喋らないからな」
病院棟の正面玄関が、まるで無機質な巨獣の喉元のように、ゆっくりと視界に迫ってきた。
「いつまで続くか見物だ」
信頼のない人に自信を明け渡す気はない。誰彼構わず心を許していたらいつか破滅する、奏は思っていた。
規則正しく刈り込まれた芝、光沢を失わないタイル張りのアプローチ。すべてが「異物を拒む構造」として機能しているかのようだった。
ノアは一言も発さず、スムーズに車をロータリーの一角に寄せる。無音に近いブレーキ、寸分の狂いもないハンドルの切り方。彼の運転には、「日常」の痕跡がなかった。すべてが訓練され、研ぎ澄まされ、妥協なく制御されている──それが軍という世界の人間の、それも頂点に立つ者の「静けさ」だった。
エンジン音が止むと、空気は一変する。
風の音が戻り、病院の外壁に陽が斜めに当たり始める音さえ聴こえてきそうな静寂が訪れた。
ノアは車のドアを開ける。
奏は一瞬遅れてその音に反応し、助手席のドアに手を伸ばす。
車外に出た瞬間、空気が変わるのを肌で感じた。
街の陽気さや奔放な雑踏は跡形もなく、ここにはただ、研ぎ澄まされた清潔と、滅菌された緊張感と、統制の香りが満ちていた。
ノアの背中が、すでに数歩先にある。
その背を見失いたくなくて、奏は無言のまま足を速めた。
──迷子にはなりたくない
こんな広大な土地で迷子になったら死ねる自身しかない。
軍医療棟。
基地の中でも、最も限られた人間しか立ち入ることのできない区画。
ここには、怪我の応急処置を行う救護室はない。代わりに存在するのは、軍専用の研究設備と、精神・肉体双方に対する最先端の診療ユニット。
まるで異世界のように無音で、冷ややかに、整然としている。
ノアのブーツの音は、絨毯の上ではかすかな重みとして伝わってきた。
奏は、ただそれに追いつくように歩く。
振り返らないノアの背中を見つめながら、心のどこかで「問われている」と感じていた。
追いつけるか。追い続ける覚悟があるか。言葉ではなく、距離で。歩調で。
ようやくノアが足を止めたのは、長い廊下の突き当たり──
何の表札もない、殺風景な扉の前だった。
ただ、その静けさの中に、ひどく重たい気配がある。空気がそこだけ歪んでいるような、静かな威圧。
ノアは一切の予備動作なく、そのドアノブに手をかけた。
ノックもせず、確認もせず、まるで自室に戻るかのように当然の動作で扉を押し開く。
──そこに“誰がいるか”を、最初から知っている者の動きだった。
扉が開かれる瞬間、冷気のような室内の空気がわずかに漏れ出て、奏の皮膚を撫でていった。
直感的に「ここはただの診察室じゃない」と理解する。
何かが──日常では扱われない、もっと根源的な何かが行われている。そう確信させるような、透明で、異質な空気。
奏は思わず立ち止まりそうになった。
「クレイン、連れてきた」
けれど、ノアの背がそのまま前へ進んでいくのを見て、ほんの一拍遅れて、奏はノアの背に隠れるようにしてその境界線を跨いだ。
室内は、白かった。
ただただ、ひどく静かで、どこまでも白い空間だった。
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