ZERO〜訳ありオメガ、軍人アルファに囲われて幸せになります〜

犬っころ

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四章

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一回目のカウンセリングを終えたとき、クレインは率直に言って疲労を感じていた。
沈黙の壁──それは医療現場においてもたびたび立ちはだかるものだが、御影奏という少年のそれは、特異な堅牢さを持っていた。

例えるなら、“封印”だった。
こちらがどれほど静かな声で話しかけようと、どれほど相手のペースに歩幅を合わせようと、言葉は吸い込まれたまま返ってこない。
まるで鋼で封じた井戸に水を注ぐようだった。返響もなければ、水面の揺れすらない。

奏は窓際の椅子に腰を下ろしていたが、その座り方ひとつ取っても妙に“計算”されたような印象を残した。
浅く腰掛け、肘を膝に乗せ、目線は徹底して外。雨に滲む海の水平線を、まるで“逃げ道”のように見つめていた。

何度か、こちらに視線を寄越すことはあった。
だがそれは目を合わせるためではなく、“相手の位置を確認した”というだけの動きだった。
視線には重さも熱もない。感情の気配は徹底して切り落とされていた。

そんな静寂の中で、ふいに奏が言葉を吐いた。

「……自分の機嫌は、自分で取る」

わずかに唇が動いた。声は掠れていたが、その一言だけははっきりと届いた。
それは、宣言だった。
自分の世界に“他人を入れるつもりはない”という、一線。
その意思は、表面上は淡々としていても、どこかひりついた痛みを孕んでいた。

それ以降、奏はほとんど言葉を返さなかった。
クレインが何かを話しかけても、「ああ」「そうだな」「分かった」と、機械的な応答だけが返る。
言葉というより、ノイズのようだった。
まるで“会話を終わらせるための決まり文句”を、脊髄反射で返しているかのようだった。

──挑発ではない。
──だが、明確な“遮断”だ。

その壁は薄いようで、決して破れないフィルムのようだった。
中に柔らかな感情があるのは分かる。だがそれに触れるための手段は、ことごとく弾かれる。

クレインは黙って観察を続けた。
長年、戦場帰りの兵士たちと対峙してきた経験から、奏の沈黙がただの“反抗”ではないことはすぐに分かった。

──これは、戦場のトラウマとは質が違う。
──これは、育成環境で歪んだ“自己像”からくる閉塞だ。

兵士たちのPTSDは、音や光、匂いといった“外的トリガー”によって顕在化する。
だが奏の場合、その苦しみは内から来ている。
自己否定、自己防衛、自己無化──
そういった“言語に変換できない混濁”が、彼の中に沈殿している。

2回目、3回目のカウンセリングでも、進展はなかった。
会話は成り立たない。反応は薄い。身体の状態以外に得られる情報は限られていた。

だが、4回目──

その日は偶然、ノアが病室に居た。
彼は付き添いとして傍らの椅子に腰掛けていたが、その存在が与える影響は明らかだった。

奏は、ノアが近くにいると分かると、ほんのわずかに姿勢を緩めた。

絶食が終わり、ノアが差し入れとして持ってきたゼリーを口に入れると奏は嬉しそうに「甘ったりぃ」と言いながら次々に食べていく。
様々なフレーバーの中でも桃がお気に召したらしい。桃のゼリーだけがどんどん減って行く。

「次は何が食べたい」

ノアの問い対して奏は間髪入れずに「ポテト!長いやつ」と言った。

「ポテトはダメだ。主治医の私が許可しない。胃が治りきってない、粥で吐き戻すやつに油物が食えるわけないだろ」

「…そうか。分かった」

奏と交わした会話と言えばこの二言だけだった。
だが奏とノアは奏の方からノアに歩み寄る姿勢が良く見えていた。ノアから話しかけられたことには全て答えを返し必要だと感じたら奏から話を広げる。

きっとこの空間でノア以外何も興味ないのだろう。

それは決して信頼と呼べるほどのものではない。だが、拒絶ではなかった。
閉じられていた扉のすき間から、かすかな光が差し込んだ──そう錯覚するほどには、意味のある瞬間だった。

だが、その希望は翌日、無惨に打ち砕かれる。

カウンセリングの時間になり病室を訪れると、奏はベッドにいなかった。
照明の届かない部屋の隅、壁際に背中を押しつけ、床に膝を抱えてうずくまっていた。

その姿を見た瞬間、クレインは本能的に“異常”を察した。

体調か、薬の副作用か、精神的ショックか。
それともその全てか──
いずれにせよ、この状態は“放置できる段階”を超えている。

「おい、奏──」

呼びかけながらバイタル測定を開始する。
脈拍、呼吸数、指先の冷え……数値として現れたのは、あまりに危うい結果だった。

血圧は上78、下42。
ほぼ失神直前の低血圧。顔色は青白く、唇には血の気がなかった。

それでも奏は、口を開いた。

「……ちょっと寝すぎただけだ」

そう言って、平然とした表情を保つ。

その言葉が、逆にクレインの理性を試した。
なぜ、ここまでになっても助けを求めないのか。
いや、求められないのか。

だが視線を落としたとき、その“矛盾”がひとつ、形になっていた。

奏の指先には、ナースコールのコードが握られていた。
長く引き伸ばされ、壁際まで引きずられているその姿は、まさに“葛藤”の痕跡だった。

──きっと、呼ぼうとした。
──けれど、押せなかった。

手の中にありながら、ボタンを押すことが出来なかった。

それを見たとき、クレインの胸中に浮かんだのは、怒りでも苛立ちでもなかった。

──まったく、どこまで──

続きかけた言葉を、彼は飲み込んだ。

目の前の少年は、壊れかけた猫のように、助けてと叫ばぬまま丸まっている。
ただ静かに、ただ耐えることで、命を繋ごうとしていた。

そしてそれに気づいた瞬間、クレインは無言で立ち上がり、点滴の準備へと向かった。
その背中には、諦念にも似た重さがのしかかっていた。
だがそれでも、彼は医者であることをやめなかった。
たとえ沈黙しか返ってこなくとも──

“ここにいる”ことが、今の彼にできる唯一の処置なのだと、分かっていた。
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