ZERO〜訳ありオメガ、軍人アルファに囲われて幸せになります〜

犬っころ

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四章

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 あれから幾度となく試行錯誤を繰り返して──とうとう、6回目のカウンセリングが幕を開けた。

 その朝、クレインは白衣の下にいつもと同じ軍のシャツを着込みながら、病棟の奥へと無言で足を運んでいた。目の下の隈は隠しきれない。だが、顔色は冴えている。彼の中で既に“勝負”は始まっていた。

 いつものように、病室の自動ドアの前で一拍だけ間を置き、クレインは手をかけることなく開いた扉をくぐる。だが、今日に限って、歩みはわずかに乱れた。
 
 ――もう手札はない。

 そのことを誰よりも理解していたのはクレイン自身だった。いつも通りの雑談も、天気の話も、時事ネタも、何一つ意味を成さない。患者・奏の心に触れる言葉など、もはや枯れ果てていた。

 だが、だからこそ。今日の彼は違っていた。

 クレインは、無造作に病室の椅子を引き、いつもより乱雑に腰を下ろすと、正面から奏を捉えた。窓際に座り、淡い光を浴びる奏は、相変わらず視線を外に向けたままだ。誰にも、何にも興味がない、という風を装っている。波の揺れを目でなぞり、海鳥の羽ばたきに意識を流し、ただひたすら“ここにいないふり”を続けていた。

 クレインは、その姿を正面から受け止めたまま、低く、しかし確信に満ちた声で言った。

 「もう、話すネタが無い。だから今日は──私とノアの黒歴史を語ってやろうと思う」

 静寂が流れる。
 奏は、わずかに瞼を動かしたように見えたが、目線は依然として海の向こうに置かれたままだ。
 しかし、その空気が、わずかに変わる。

 「……軍学校に入ったのは私が19歳の時だ。ノアは15。私は飛び級で大学の医学課程を修了し、一度野戦病院にいた。だが……軍医でも無いのに、血に濡れた瓦礫の中で、賃金すら満足に出ない現場に立ち続けることに、ある日、心底嫌気が差した」

 ぽつり、ぽつりと語られる言葉は、思い出というより“記録”だった。熱を持たないはずの回顧に、しかしどこかしら僅かな怒りが滲んでいた。

 「その病院に辞表を叩きつけて、私は軍学校に入った。十人部屋のベッドの下には──まだあどけない15のガキが眠っていた。特例だ。特殊作戦軍からの推薦で、年齢も経験も飛び越えてきた異物。誰よりも優秀で……今じゃ考えられないが、情で簡単に揺れる奴だった」

 窓際の少年は、まだ反応しない。
 だが、わずかに肩が、震えたように見えた。
 気のせいかもしれない。
 けれど、クレインは続けた。

 「何度も殴り合った。四つ下の少年に拳で互角に渡り合われたのが、何より腹立たしかった。私の矜持が、脆くも音を立てた。だから、訓練に死ぬほど身を入れた。血が出ようが骨が軋もうが──奴に負けたくない、それだけだった」

 奏の眉が、ぴくりと動いた。
 その時だった。

 「……ふっ」

 まるで誤魔化すような鼻笑い。
 奏の唇が、はじめて動いたのだ。
 目は合っていない。
 けれど確かに、今この場に“反応”が返ってきた。

 「続けろ。……聞きたい」

 その声はかすれ、ぎこちなく、そして“甘えた”。
 否、甘えではない。もろさを剥き出しにした、裸の声だった。

 クレインは、一瞬だけ黙る。
 そして、息をひとつ吸い、あえて低く言葉を繋いだ。

 「……ここからが私の黒歴史だ。私は、気づけば四つ下の少年を──“対等なライバル”として見ていた。だからこそ、ある日……ノアが嫌がらせを受けていたのを知った時、私は……我慢できなかった」

 「……それで?」

 奏の声が、わずかに近づく。

 「真夜中だった。私はノアを叩き起こし、そのまま相手の部屋に乗り込んだ。成績の低いアホどもだ。ピアスを開けるために用意していたニードルを奪い、眠る相手の太腿に──思いきり、突き立ててやった」

 「ははっ、クソじゃねぇか……!」

 ついに、奏の肩が揺れた。声が漏れた。
 それは乾いたものではなく、頬を緩め、目を細めた、本物の笑い。

 「それのどこが黒歴史なんだよ。……友達思いの良いやつじゃねぇか」

 クレインは、不意に、目の前の少年を正面から見返す。
 そこにはもう、完全に“閉じた壁”はなかった。

 「……教官と、もっと上にドヤされたさ。『マッドサイエンティスト』とプリントされたTシャツで訓練を受けさせられた。その姿を好きだった女にからかわれたことが、今でも腹立たしい」

 「ふっ、苦い記憶だな」

 「そうだ。だから私は誓った。以後、完全犯罪以外はやらない、と」

 「……お前、本物のマッドサイエンティストじゃねぇか」

 笑いが、自然に溢れた。
 目と目が合う。奏の中で、何かが音を立てて外れた。

 「──君の友達は、どんなやつが居た」

 クレインの問いに、奏は少しだけ口を噤んでから、ゆっくりと呟くように言った。

 「友達、なのかは……分かんねぇけど。……伊月って言うんだ。毎日、ノア以外は……伊月から連絡が来る」

 その言葉は、明確な意思を持って“クレインに向けられた”初めての返答だった。
 クレインは思わず背筋を伸ばし、白衣の内ポケットからカルテを取り出すと、手元に記した。

 ──《認知を得た》

 彼は小さく、鼻で笑った。
 そして心の中でひとこと、つぶやいた。

 (……私は今、奏というアイドルを盲信するファンのようではないか)

 ──だが。
 その自己嫌悪すら、今は少しだけ心地よかった。

 「……でも、それはクレインの黒歴史であって、ノアの黒歴史ではないだろう」

 淡々と返されたその一言には、かすかな笑いを噛み殺したような響きが混ざっていた。口角がほんのわずかに吊り上がっていたのを、クレインは見逃さなかった。

 その気配に少しだけ安堵を覚えながらも、彼は演技の続きを忘れなかった。視線は逸らさず、記憶の奥から取り出した一枚の情景を丁寧に言葉に変換していく。

 「……ノアには、秘密にしておけよ」

 前置きとして、やや声を潜める。わざとらしい“内緒話”の口調にしたのは、もちろん演出だったが、どこか本心でもあった。

 「ある夜だ。あの時はサバイバル訓練の最中でな。日中は灼熱地獄、夜は凍えるような湿地帯。睡眠時間なんてまともに取れる状況じゃなかった。交代制で見張りに立っていたが、その夜はノアの番じゃなかった。隣で、死んだように眠っていたはずのノアが──急に、腰を引いて起き上がった」

 そこまで語ると、クレインの脳裏に一瞬、あの夜の薄暗い天幕と、ぬかるんだ地面の手触りが蘇る。

 「こっそりと誰にも声をかけず、川に向かったんだ。見張りをしていたわけじゃない。……何してたと思う?」

 奏はクレインの言葉に耳を澄ませたまま、しかし顔はまだ笑っていない。ただ、微かに唇が揺れていた。

 「一人で……パンツを洗ってた」

 その一言で、奏の肩がびくりと揺れた。だがクレインはさらに続ける。

 「……ノアの精通は16の夏。サバイバル訓練、2日目の夜。夜明け前の川辺で、誰にも気づかれないように洗濯してたんだ。顔、真っ赤にしながらな」

 沈黙。

 ──そして。

 「え、っ……ふふっ……それ、ほんとに黒歴史じゃん……!」

 吹き出した。

 笑いを堪えきれないというよりも、嬉しさと驚きが混ざったような反応だった。奏の声が、病室の壁に弾けるように反響する。普段の彼からは考えられないほどに、豊かな音だった。

 「お腹吊りそ……っ、ふ、ふふっ、まじかよ……ノアのくせに……っ」

 肩を震わせ、腕を抱えて身をよじる。ベージュの病衣が揺れ、白い喉元がちらりとのぞいた。顔は火が灯ったように赤くなり、笑いのあまり涙まで浮かべている。

 その姿に、クレインは──内心、ほんの少し息を呑んだ。

 年齢に見合わない、過剰なほどの冷静さと沈黙で塗り固められていた奏という少年が、今この瞬間だけは、年相応の少年として存在していた。

 ──ようやく、やっとだ。

 言葉にしないまでも、胸の奥に熱が広がっていく。努力の果てに訪れた、初めての“揺れ”だった。

 クレインは静かに椅子にもたれ、視線を逸らさないまま、少しだけ、口元を緩めた。

 奏はまだ笑いながら、息を吸うのも苦しそうに肩を上下させている。眉尻が下がり、身体は小刻みに震えていた。

 「……可笑しすぎて……ほんと……やべぇ……」

 その呟きが途切れたとき、ふと奏が目を上げた。そして、ほんの一瞬だったが、確かに──クレインの目と視線が重なった。

 睨むでもなく、嘲るでもなく。

 ただ、笑いを共有した者として。

 それは、**“それなりの会話”**とは到底呼べないほどの、濃密な時間だった。

 しばらくして──奏の笑いは徐々に収束していった。けれどその名残は、唇の端にほのかに残っていた。

 肩で荒く息をしながら、手の甲でうっすら滲んだ涙をぬぐう仕草が、やけに素直だった。

 「……バカだな、ノア」

 ぽつりとこぼれたその呟きには、今までのような皮肉も棘もなかった。どこか親しみと、軽い照れのようなものすら滲んでいた。

 クレインはそれを聞き逃さない。

 「ああ、バカだ。……だが、お前に言われたくはないだろうな、アイツも」

 クレインがそう返すと、奏はまた小さく噴き出した。だが今度は声を立てず、ほんのわずかに肩が揺れただけ。

 「なぁ、クレイン」

 と、奏が言った。表情に笑みの名残を残したまま、どこか急に真顔に戻ったその声音が、妙に静かだった。

 「そのノアの話、本人に言ったら……怒ると思うか?」

 クレインはほんの少し考え込むように顎を指でさすり、やがてひとつだけ鼻で笑うように答えた。

 「怒るだろうな。恥ずかしさで顔をしかめながら、『クレイン、てめぇ絶対わざと話しただろ』とか言う。そうしてから三日は口をきかないかもしれん。が──それ以上にはならない」

 「ふぅん……なんで?」

 「信頼してるからだよ。あいつは、そういうやつだ」

 その言葉が落ちると同時に、部屋に一瞬だけ沈黙が戻った。だがそれはこれまでの“硬直した沈黙”ではない。ただ、言葉が咀嚼されるまでの時間だった。

 奏は目を伏せたまま、膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。唇の内側を、何か思い出すように舌で押す仕草。

 「……伊月も、そういうとこ、あるかも」

 ようやく、もう一つの名前が、奏の口から自然にこぼれた。

 クレインは目を細める。口角がほんの少し上がった。

 「伊月、か」

 「……うん。友達?なのかな。親と子ぐらい年は離れてる。あいつ、バカだけどさ、なんか──憎めないっていうか。毎日メールしてくるし。ノアが居ないとき、唯一うざくない相手だった」

 「ふむ……じゃあ、こう考えようか。ノアと伊月、どちらか片方としかメールできなくなるとしたら、どっちを選ぶ?」

 意地の悪い問いだったが、クレインはあえて口にした。

 奏は、ちっと舌打ちをし、むすっとした顔でクレインをにらんだ──が、それは照れ隠しに近いもので、明確な拒絶ではなかった。

 「どっちかとか決められるわけねぇだろ。……つーか、くだらねぇ」

 それを聞いたクレインは、軽く肩をすくめた。

 「くだらない質問にも、ちゃんと答えが返ってくるようになったな。大きな進歩だ」

 「……うるせぇ」

 言葉ではそう言いながらも、奏の声色に不機嫌さはなかった。むしろ、どこかくすぐったそうな、それでいて少し照れたような、年相応の“素直になれない”響きが宿っていた。

 それを聞いてクレインは、カルテを閉じた。

 「……今日はもう、十分だろう。これ以上は、私の方が照れくさくなってきた」

 「だったら最初から黒歴史なんか語るなよ」

 「おかげで、じゃがいも扱いからは脱出できた。……だろ?」

 そう言って、クレインが立ち上がると、奏は再び、ほんのわずかに笑った。

 だがその笑みには、確かに“信頼”の片鱗が混じっていた。

 病室の天井は、静かに照明を灯している。外はまだ薄曇りだが、どこか──明るくなった気がした。
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