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一章
104
あの出来事から、約一週間が経っていた。
時間にすればたった七日。されど、その短さは蓮にとって意味を成さなかった。
身体に残る真城から刻み込まれた焼印の火傷の疼き、微かに残る焦げた匂い、床に染み付いた冷たさ──それらが過去の幻覚ではなく「現実だった」と脳に教え込むには、ほんの数日で十分だった。
本能の奥底に、言葉では説明しきれない何かが刻み込まれていた。
それは鞭ではなく、焼き印でもなく、「逃げた先に何が待っているか」を理解させられた結果だった。
だから蓮はもう門の鍵を気にしなくなった。
玄関の靴を見ながら「どこにでも行ける」と分かっていながら、その一歩を踏み出す気配すら見せなくなった。
本家の襖が全開であろうと、見張りがいなかろうと、蓮は黙って自室に戻る。
まるで自分の足が、自分の意志とは別の命令で動いているかのように。
だがその一方で、蓮の「蓮らしさ」は失われていなかった。
軽口は変わらず叩いた。悪態も以前と同じように吐いた。
真城の前では、これまで通りの歯向かい方をし、わざと怒らせるような言動を投げかけることすらあった。
それが単なる虚勢なのか、拗れた甘えなのか、本人も分かっていなかった。
ただ、明確に変わったことがひとつだけある。
真城の「おいで」の声に、蓮はもう眉一つ動かさず、黙って従うようになった。
以前のように肩をすくめたり、「行きたくない」と背を向けることはない。
誘われれば、目を逸らさずに近づき、抱かれれば素直に身を預けた。
嫌がる素振りを見せることすら、もうなかった。
まるで、それが最初からそう決まっていたかのように。
飼われることに抗っていたのではなく、順番を間違えていただけのように。
蓮の瞳の奥には、まだ熱が残っていた。だがその熱は、反抗の火種ではなく、「もう二度と躾られたくない」と思う、痛みと記憶の温度だった。
そして、真城はそんな蓮を、より一層“可愛がる”ようになった。
それは単なる愛玩でもなければ、気まぐれな慈しみでもない。
躾け終えた犬が、手の平に大人しく顎を乗せてきた瞬間のあの甘さと、征服の余韻──
そう、蓮の反抗的な目つきや突き刺すような言葉が、今や自分の手のひらで転がせる範囲内に収まったという事実に、真城は深く満たされていた。
「寒いんでしょ。温めてあげる、おいで」
夜風が吹けば真っ先に自分の羽織を脱いで掛け、朝に顔を見れば機嫌を探るように顎を撫で、食事も一番上等なものを与え、何よりも先に蓮の口へ運ばせた。
まるで壊れた玩具に金細工を施し、棚に飾るような扱いだった。
それでいて、蓮が自分以外の男と少しでも目を合わせれば、さりげなく腰を引き寄せて独占欲を匂わせる。
ある時などは、柳と二言ほど軽口を交わした蓮に無言で煙草の火を近づけかけて、森内に静かに止められたこともある。
蓮に手を触れる頻度も増えた。
髪を梳かし、耳元を撫で、胸元の火傷の跡を優しくなぞる。
それがまるで、そこに自分の“印”があることを確認する儀式のように。
「……痛い?」
唐突に聞かれ、蓮が「別に」と言えば、
真城は安心したように微笑む。それが飯時でも関係ない。
可愛がるとは、与えることではない。
奪っておいて、それでもなお懐かせることだ。
真城はそれを知っていたし、
蓮の瞳がそのたびに僅かに濡れ、
けれど背を向けることなく身を寄せてくるのを見て──
この“愛し方”は、きっと間違っていないと確信していた。
今日の夕餉も、大広間に組員たちがずらりと並んだ状態で始まった。
その中心には、真城──そしてその膝の中に、蓮。
柔らかく背を預けた蓮の細い体を、真城は片腕で優しく抱き込んでいた。
あくまでさりげなく、だが逃がす気は微塵もない。まるで自分の膝が“本来あるべき場所”であるかのように当然の顔でそこに蓮を座らせていた。
蓮は特に嫌がる素振りも見せず、真城の胸に埋もれるようにしてご飯を食べている。
その口元はいつも通り無遠慮に、けれどどこか満ち足りていて、炊き立ての白米を一口頬張るたびに、ほんのりとした笑みが漏れる。
「んま……っ」
小さく呟くその声に、真城の喉が小さく鳴る。
抱く腕の力が自然と強まり、蓮の細い腰がぐっと背後へ引き寄せられる。
その瞬間、真城の手が蓮の腹を撫でるように這い、ちらりと火傷の痕の上を通過した。
「痛くない?」
誰にも届かない低い声で囁くと、蓮は首を少しだけ横に振る。
「…逆に痛かったら何してくれんの?」
そう応える声は拗ねたようで、それでも逃れる気配はない。
むしろ、それが“今の自分の居場所”であることを無意識にでも受け入れているようだった。
周囲の組員たちは、それぞれ箸を止めずに食事を続けながらも──
この異様な空気に対する居心地の悪さを、どこか肌で感じ取っている。
柳は無言で冷めた目を向け、森内は少しだけ眉を顰めたあと視線を皿に落とした。
だが真城は気にしない。いや、わざと見せている。
「今日もいっぱい食べるね、かぁわいい。もう一杯食べる?」
「ちょっとだけ」
それだけで、真城の声は甘く蕩ける。
そのままもう片方の手で、蓮の顎を優しく持ち上げ、口元に焼き魚を近づける。
「ほら、あーん」
「……子供じゃねぇし」
「いいから」
渋々ながらも蓮は口を開け、魚を受け取る。
その姿が、まるで“飼い慣らされた動物”のように見えることに、誰もが目を伏せたくなる。
だが真城だけは、陶酔していた。
己の膝に抱え込んだ小さな獣が、ようやく牙を抜かれ、優しく手ずから餌を与えることができる存在になったことに。
そんな甘やかな地獄のような時間が、今日もまた静かに、大広間に流れていた。
その時だった。
「……んー、これもう飽きた」
そう言って、蓮がちらりと向かい側に視線を流す。
ちょうどそこには、柴が無言で白米を口に運んでいる。
その脇に置かれた副菜の唐揚げが、湯気を立てながら二つ、ぽつんと乗っていた。
次の瞬間、蓮の箸が音もなく伸びた。
すっと――迷いもなく柴の皿の上に侵入し、狙いを定めた唐揚げを一つ掴んだかと思うと、そのまま己の小皿にぽとりと落とした。
まるでそれが「当然の権利」かのように、満足げに微笑む。
柴の箸が止まった。
唐揚げ一つ減った皿をじっと見つめたのち、視線を蓮に向ける。
「……っ、てめぇ」
柴の目が一瞬で鋭くなる。
「やりやがったなコラ。なに人の唐揚げパクってんだクソガキ!」
「は? 一個ぐらいケチんなよデブ。お前どうせあとで残すじゃん」
「はァ!? てめぇ今“デブ”っつったか!? 唐揚げぐらいで殺すぞおらァ!!」
「やってみろチビ。今日も寝言は立ってから言え!」
次の瞬間、バンッと音を立てて立ち上がった柴が、テーブル越しに蓮へ身を乗り出した。
箸を持ったまま応戦する蓮との間に火花が散る。
その様子に、周囲の空気が一気に凍りつく。
「おい……おまえら」
仁の低い声が落ちた。
蓮は無言で柴の頭に白米を投げつける。
柴はそれを素手で払い落とすと、容赦なく蓮に茶碗を投げ返す。
「食いもん投げんなクズ!」
「それはそっちだろバーカ!」
「表出ろオラァ!!」
「喜んで!」
バチィンッ!と二人の額がテーブルの上でぶつかり合った瞬間――
「……いい加減にしろッ」
その一言が放たれた瞬間、場の空気が一変した。
静かすぎる仁の声に、全員の背筋が凍る。
柴も蓮も、まるで冷水を浴びたように動きを止める。
沈黙。
全員が呼吸すら忘れる中、柴と蓮は目を見合わせ、次第に顔をそむけた。
「……すんませんでした」
「……ごめんなさい」
ぴたりと静まった空間に、再び箸の音が響き始める。
その瞬間だけは、唐揚げの一個が戦争の引き金になると、誰もが学んだ。
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