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二章
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しおりを挟むここでは基本的に、一人の利用者に対して一人の介護士が専任でつく「ワンツーマンスタイル」が徹底されていた。
それは単なる効率性やサービス向上のためだけでなく、医療と看取りを目的としたこの施設の性質上、心身両面での寄り添いが最重要とされていたからだ。
だからこそ、利用者本人──そしてその家族と、いかにして信頼関係を築けるかが何よりも重視される。
ここ「椿」に入所しているのは、ただの老人ではない。
かつて政界の中枢にいた元国会議員、スクリーンに名を残した大御所俳優、上場企業の創業者、地方の名士……
いずれもその筋で名を挙げた人物ばかりで、医療とともに「名誉ある老後」を静かに過ごすために選ばれた島だ。
だからこそ、この施設では、利用者の本名は出されない。
蓮の手元にある書類にも、フルネーム記載がされておらず謎が多い。
この島に来た瞬間から、彼らは肩書きでも実名でもない、「呼ばれたい名前」で呼ばれる。
それは、かつての自分を降ろすための儀式であり、老いを受け入れるための静かな合図でもある。
「じゃあ、さっそく蓮くんが担当する利用者のもとへ、挨拶に行こうか」
蓮の隣で声をかけてきたのは、年上の先輩介護士だった。穏やかな口調に、どこか申し訳なさそうな間が混じるのを蓮は感じ取る。
「はい。よろしくお願いします」
きっぱりと返事をして一歩踏み出したその直後、すぐ背後から聞こえた声に、蓮は無意識に立ち止まった。
「雅也くん、ここには子どもの利用者はいないから……ちょっと寂しいかもしれないけど、よろしくね。お部屋、行こっか」
そう言って声をかけた若い看護師が、雅也の手をそっと引く。
雅也は黙ったままだったが、視線を少しだけ蓮に向け、ゆっくりと頷いてから看護師に連れられて歩き出した。
その小さな背中が、病院の白い廊下に吸い込まれていく。
蓮は、そこでようやく肩の力を抜いた。
握っていた拳に、わずかに汗が滲んでいた。
「……来て早々、すごく申し訳ないんだけど」
先輩介護士が気まずそうに言葉を継ぐ。
「蓮くんが担当する“光一さん”、ちょっと──いや、かなりひねくれててね。荒っぽい人で、すぐ手が出ちゃうんだ。あ、もちろん、注意はしてるんだけど……その、怖くない?」
「……そうですか」
蓮は少しだけ眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。
そして次の瞬間には、あまりにあっさりとした声で言い切った。
「大丈夫です。慣れてますから」
事実だった。
暴力に、罵倒に、侮蔑に──慣れすぎていた。
真城暁臣の下で過ごした日々は、ただ痛みに耐える時間ではなかった。
そこには、踏みつけにされながらも「見放されなかった」という微妙な絆があり、同時に、境界線の消えた暴力が静かに蓮の感情をすり潰していった。
痛みよりも、悲しみよりも、もっと鈍く深いものが心の奥に残っていた。
蓮は、もう誰かに殴られたところで「心が傷つく」ような繊細さを持ち合わせていなかった。
ホストをしていた頃も同じだ。
理不尽な怒鳴り声や、気に入らないからとグラスを投げつけてくる客などいくらでもいた。
殴られ、引っ掻かれ、吐瀉物を浴び、でも笑顔でシャンパンを注ぐ。
そんな日々を笑ってやり過ごすためには、感情の一部を切り落とすしかなかった。
そしていつしか蓮は思うようになった。
「犯されなければいい。好きにならなければ、心は死なない」と。
人に情を寄せれば、奪われる。
心を開けば、裏切られる。
信じたら、壊される。
それを、何度も何度も味わってきた。
だから蓮にとって、暴力というのはもう「出来事」ではなく、日常の一部だった。
誰かに殴られることよりも、誰かに「優しくされること」の方が、よほど怖い。
そして今は──雅也のために、その鈍くなった心を盾にする覚悟でここに来た。
彼の痛みを、自分の傷で受け止めることができるなら、それでいい。
たとえ再び心をすり減らすことになっても、弟が安らげる場所を手に入れられるのなら、それが一番の報いになる。
「……じゃあ、行こうか。光一さん、今日も多分、不機嫌だけど」
「はい」
蓮は一礼し、先輩の後を静かに歩き出した。
行き先は、老人ホームの奥にある、一番陽当たりの悪い個室。
そこにはきっと、他の誰にも馴染まない「ひねくれ者」が待っている。
だが蓮は、その扉の先にすでに「何も期待しない」覚悟でいた。
笑われても、殴られても、それでも自分はここに居続ける。
真城の元から逃げるときにそう決めていた。
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