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二章
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しおりを挟む部屋から戻った蓮は、制服の水気を拭きながら、事務室の一角にある職員用のカルテ保管棚へと足を運んだ。
先輩達からは哀れな目で見られた。
「……光一、さん」
重ねられたファイルの中から、指定されたIDを探し出し、一冊のバインダーを取り出す。
「椿」に入所するすべての利用者には、生活歴や健康状態、過去の病歴、家族構成、本人の希望までもが記録された「フェースシート」が作成されていた。
蓮はゆっくりとページをめくり、その情報の一つひとつに視線を落とす。
──年齢、七十五。既往歴、特になし。
──血圧・心電図・肺活量など、健康指標すべて「正常」。
──認知機能テスト結果も問題なし。
──BMI標準、内臓機能も加齢相応。
「……健康そのもの、か」
呟いた声に、どこか困惑の色が滲んでいた。
だが──
ページをめくると、ひとつだけ、違和感を持った欄が現れた。
「身体的特徴・既往外傷歴:右下腿部 切創による筋断裂、歩行補助具使用歴あり。現在も歩行機能に制限。痛み・痺れの訴え継続中。全身状態良好だが、リハビリ完全拒否。要観察」
切創──つまり、刃物で深く切ったということだ。
場所は右足のふくらはぎ。
その深さや傷の入り方によっては、筋肉や腱に重大な損傷を及ぼす。
蓮は目を細めた。
「……自傷か、それとも……」
詳細は書かれていなかったが、「事故」とも「外傷」とも明記されていない。
もし他者による暴力なら、通報歴が記載されるはずだ。
だがその痕跡はない。つまり──本人が語らなかった、あるいは語れなかったという可能性が高い。
また、「リハビリ完全拒否」という文言も引っかかった。
椿では、リハビリは義務ではない。
ただし、それが「回復の可能性を残している」場合は、通常、本人にも働きかけが行われる。
にもかかわらず「完全拒否」と記載されているということは、何度も試みた末に諦められた、ということだ。
──治す気がない。
──動くつもりもない。
──生きようとする意志が、残っていない。
先ほどの初対面が、ふと蘇る。
無言で、ただ座っていた光一の姿。
湯呑みをぶつけた手の動きには、怒りよりも「空虚な習慣」のような鈍さがあった。
あれは衝動ではなく、儀式だ。
自分を拒絶しようとする形だけの抗い。
本気で他人を傷つける気配は、まるで感じられなかった。
──たぶん、この人はもう、立ち上がるつもりも、逃げるつもりもない。
蓮は、ファイルを閉じ、しばらく無言のまま指先を滑らせる。
(それでも)
思い返すのは、自分の過去だった。
──介護職をしていたとき、何人もの「死にたい人」に出会ってきた。
──ホストになったとき、何人もの「生きたがっているのに壊れている人」を見てきた。
──どちらの顔も、光一の顔にはあった。
蓮は静かに立ち上がった。
彼がどうして右足を切ったのか、その理由は知らない。
誰を失い、何を抱え、ここへたどり着いたのかも、まだわからない。
けれど──
この孤島の、日陰の部屋で、誰とも関わらず黙って座り続けるだけのその人を、ただ放ってはおけないと思った。
「……お疲れさま」
誰に向けたものでもない言葉を、蓮は自分の胸の奥へと吐き出すように呟いた。
勤務の終わりは、すっかり日が落ちていた。
夜の島は風が強く、木々が擦れ合う音がどこかざらついて聞こえる。
静けさが深いぶん、耳鳴りのように心音だけが膨らんでいく。
「椿」での生活も、気づけば一週間が経っていた。
介護士としての業務は多忙だったが、蓮にとってそれはもはや「日常」だった。
着替えを手伝い、食事の準備をし、薬の管理、排泄の介助──
手の中で老いた肌を支える感覚は、昔の記憶とつながっていた。
それでも、光一との関係は相変わらずだった。
あれから毎日部屋を訪れても、会話はほとんどなかった。
返事もない。目も合わない。
ただ、蓮が畳を拭いて帰ろうとすると、いつの間にか空の湯呑みが洗面器に置かれている。
最初は床に投げ捨てられていたそれが、今では丁寧に口を伏せて置かれているのを、蓮は何も言わず見ていた。
「……ただいま」
薄暗い廊下を抜けて、蓮は自室の引き戸を開けた。
畳の匂いと、わずかに残る夕飯の香り。
部屋の奥の布団には、静かに眠る雅也の寝息が重なっていた。
「──」
蓮は、ふと机の上に視線を落とす。
そこに、小さなメモ用紙が一枚、置かれていた。
『今日はスパゲティだった。ちゃんとご飯食べてね。蓮兄、大好き。』
走り書きのように不揃いな字。
けれど、一文字一文字に、確かに息が通っていた。
それを目にした瞬間、蓮は呼吸を止めた。
思わず笑いそうになって、けれど喉が詰まった。
熱くなるはずの目も、もう涙が出る場所を失くしたのか、ただ乾いたままだった。
(……馬鹿だな、ほんと)
そっと手でメモを押さえ、蓮は部屋の奥へと歩いていく。
眠る雅也は、ほんの少し口を開けて、子どものような寝顔をしていた。
点滴の管が腕に固定され、呼吸は浅いが穏やか。
額には少し汗が浮かんでいる。
蓮は布団の傍に膝をつき、そっとその頬に触れた。
体温がある──それだけで、まだ生きていることが信じられる。
「……ありがとね、雅也」
かすれた声で、そう呟く。
この子がいるから、今ここにいる。
この子を失えば、自分はもう戻る場所がなくなる。
それがわかっているからこそ、必死に笑って、立って、働いて──
……でも、それでも。
どうしようもなく、独りになりたくなる夜がある。
蓮は立ち上がると、寝息を立てる弟を見下ろし、そっと障子を閉めた。
そして押し入れの奥に隠していた布袋を引き出す。
中には、缶チューハイや焼酎、ウイスキーのミニボトルが数本。
病室に持ち込むには過剰すぎる度数の酒たち。
誰にも見られないように、その袋を抱えて部屋を出た。
老人ホームと病院の間にある中庭──
その裏手に、夜だけひっそりと開ける非常口がある。
職員が煙草を吸うときに使うスペースだ。
風除けの壁と、簡易のベンチ。薄暗く、人の気配もない。
蓮はそこに腰を下ろし、袋から一本、銀色の缶を取り出す。
「……乾杯、でもしとくか」
誰にともなく呟きながら、蓮は缶を開ける。
炭酸のはじける音だけが、夜の静寂に小さく弾けた。
ぐい、と一口で半分ほど飲み下す。
アルコールの熱が喉を焼き、胃へと沈んでいく。
目を閉じると、頭が少しだけ軽くなった気がした。
「誰かに愛されるって、怖いよな」
ぽつりと呟く。
誰も聞いていない。だからこそ、言えた。
あのメモが嬉しくてたまらなかった。
でも、それが嬉しいと思ってしまった自分が、どこか恐ろしくなった。
もしもまた、失ったらどうしよう。
また、あの痛みに襲われたら、今度こそ立ち上がれなくなる気がする。
蓮は缶を傾け、残りを一気に飲み干した。
冷たさと熱さが喉の奥で交錯し、胃の底に沈んでいく。
二本目の缶を開けた頃、蓮はふと手を止めた。
アルミの冷たさが、指の熱でぬるくなっていた。
喉の奥にはじんわりとアルコールが染み、顔も少し火照っていたはずなのに──不意に、風の冷たさが意識に刺さる。
目の前に広がるのは、ただの裏庭。
煙草の吸殻と、誰かが読み捨てた週刊誌。
コンクリートと金属の匂いしかないこの場所に、何のために腰を下ろしているのか、蓮は急に分からなくなった。
「……そういえば、俺。海、見てねぇな」
ぽつりと、声が漏れた。
来てから一週間、仕事と看病と最低限の睡眠。
移動だって屋内の廊下ばかり。
この島が海に囲まれていることを、蓮はいつの間にか忘れていた。
思いつきのまま、蓮は立ち上がった。
足元に転がった空き缶を拾い、袋の口を結ぶ。
その中から、小さめのウイスキーボトル一本だけをポケットに滑らせ、歩き出す。
夜の島は静まり返っていた。
どこかの施設から漏れた灯りが、ぽつぽつと点々と続いているが、人影はない。
潮風が鼻をつく。
ざらりとした冷たい空気が、喉を通り越して肺を叩く。
風の向こうに、波の音が聞こえた。
──本当に、すぐそこなんだな。
蓮は歩いた。
感覚でしかないが、月の方角へ足を向ければ、自然と道は傾斜を下り、砂利から土へ、そしてやがて──足元が、柔らかく沈んだ。
「……着いたか」
そこは小さな浜辺だった。
街灯もない、完全な闇。
だが月が明るかった。
異様なほど青白く、そして静かに、蓮の足元まで照らしていた。
波は穏やかだった。
寄せては返す白波が、リズムもなく砂を撫でていく。
蓮は海辺にそのまま腰を下ろした。
砂はまだ冷えていて、薄いズボンの布地越しにその冷たさが伝わる。
だが不快ではなかった。
手を伸ばしてポケットから小瓶を取り出す。
キャップを回すと、ウイスキーの香りがふっと広がった。
アルコールの濃厚な匂いと、潮の香りが、意外にもよく馴染む。
「……乾杯、暁臣。まだ俺の事探し回ってるのかな、いつになったら見つけてくれるかな」
誰にともなく、けれど確かに名を呼んで、蓮は瓶を傾けた。
熱い液体が喉を焼いた。
その痛みが、どこか懐かしくもあった。
目を閉じる。
──あの部屋、あの手、あの声。
強引で、傲慢で、支配的で酷く愛おしい男だった。
真城暁臣。
あの人が蓮の人生に踏み込んできた時から、すべてが狂い、すべてが動き出した。
自由を奪われ、身体を支配され、心を試され、それでも──
「……なんで、思い出してんだろ、俺」
独り言のように、つぶやいた。
海は何も答えず、波だけが寄せては返す。
蓮はもう一度酒を口に含み、静かに目を細めた。
月が水面に映り、ゆらゆらと揺れている。
それを見ていると、なぜか真城の瞳を思い出した。
光ではなく、重さのある視線。
自分の中の「逃げ場」を一瞬で見抜いてくる、あの眼差し。
蓮はあの人が嫌いだった。
恐ろしくて、疎ましくて、憎くて──
けれど、離れると、寂しい。
「……やっぱ、俺。おかしいな」
ひとり、砂の上で笑った。
夜の冷たさに凍えるでもなく、酒の熱に溺れるでもなく、ただ、笑った。
もう戻る気もない。
けれど忘れることもできない。
月が高い。
潮が足を濡らし、冷たくひんやりと靴下に染み込む。
蓮は瓶の残りを飲み干し、ポケットにしまうと、何も言わずに立ち上がった。
また明日も、光一の部屋へ行かなければならない。
また、怒鳴られるかもしれない。
けれど、構わない。
蓮は月に背を向けて、波打ち際をゆっくりと歩き出した。
そして静かに部屋へ戻ると椅子に座ったまま眠った。
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