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三章
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台所には、本来なら当番の組員が立つはずだった。
けれど今は、それどころではない。
本家の外では、トラックが突っ込み、塀が崩れ、警察が乗り込んでいる。
そんな状況で、食事の用意が整うはずがなかった。
「……仕方ねぇな」
エプロンの紐をきゅっと締めながら、蓮は調理台へと向かう。
冷蔵庫を開け、食材の残量をざっと確認する。棚の奥に積まれた乾物、冷凍室の肉類、前日に下処理された野菜。あるもので、何とかするしかない。
考えるべきは──
・冷めても美味しいこと
・腹持ちがいいこと
・アレルギーの心配がないこと
・衛生的かつ一度に大量に作れること
・食欲のない者でも“喉を通せる味”
本格的な抗争が始まった。
これから数日、組員たちは休む間もなく動き続ける。
怪我人も出るだろう。気を張りすぎて何も食えない者もいるはずだ。
だからこそ──今、自分にできることは、たったひとつ。
「まずは、食わせる」
それが、蓮にとっての“闘い方”だった。
彼の前には、まな板と包丁があった。
冷たいタイルの床の上では、ラーメンが静かに寝息を立てていた。
調理場の窓の外には、まだ白い煙がゆらゆらと立ち上っている。
けれど、この台の上には、確かな“命を繋ぐもの”があった。
味噌汁の出汁をひと煮立ちさせ、味噌を溶かす。
豆腐とわかめを静かに加え、ひと混ぜして火を止めた。
大釜では、ちょうど五目ご飯が炊き上がる音がしていた。湯気がふわりと立ちのぼり、醤油と鶏肉の香ばしい香りが調理場の天井に広がっていく。人参、椎茸、ごぼうの色合いもふっくらと仕上がりそうだ。
傍らでは、油揚げの甘煮がことことと音を立てている。
焦げないよう、弱火で煮含めながら、蓮はひと息ついた。
──まさか自分が、本家の調理場で、数百人分の飯を炊く日が来るなんて。
椿にいた頃は、調理場に立つことなど一度もなかった。
あの高級老人ホームには、国家資格を持った調理師と栄養士が揃っていたし、厨房は不要な時は完全に立ち入り禁止。蓮の役目はあくまで介護、ケア、そして時折の世間話だった。
それでも──
光一が、「甘いもんが食いたい」と一度、ぽつりと漏らしたことがあった。
身体も満足に動かせなくなってストレスが溜まっていたのだろうあの頃。
光一がそうかは分からないがそもそもロング服役をしたことがある人は甘いものに固執しやすいと風の噂で聞いた。
誰もが光一のそれを“我儘”だと流した中で、蓮だけが、それを拾った。
それが、管理栄養士の資格を取ろうと思ったきっかけだった。
きっと、何かを作りたかったのではない。与えられるばかりだった人生の中で、誰かに“作ってやる”側に立ちたかっただけなのかもしれない。
蓮は、ふと手を止め、冷蔵庫の方へ視線を向けた。
そういえば──
古株の組員が、よくシチューに生クリームを使っていた。牛乳ではなく、濃厚でこってりとした、脂肪分の多いやつ。
近々シチューを作るつもりなのだろうがこの騒動じゃ古株なら忙しすぎて作れないだろう。
先程冷蔵庫から砂糖を出した時に、開封していない生クリームのパックが何本も奥の方に並んでいた。多分、もうすぐ賞味期限が切れるものもある。
蓮は、ぼんやりとその在庫を思い浮かべた。
──甘いものを作る機会なんて、もう二度とないかもしれない。
椿を出た時、そう思っていた。
けれど、今。ここで。戦場のようなこの屋敷の中で。
炊き込みご飯を仕込み、味噌汁を仕上げ、甘煮の香りに囲まれて、ふと頭に浮かんだのは──光一が最後に笑った時の顔だった。
あの人は、甘いものを食べるときだけ、子供みたいな顔をした。
その記憶が、手の中にまだ残っている気がして、蓮は静かに口角を上げた。
「……生クリームの期限もあるし、ケーキでも作っちゃうか」
つぶやいた声は、誰にも聞こえないような微かなものだった。
けれど、その言葉が空気を震わせた。
ラーメンが、まどろみの中で耳をぴくりと動かす。うどんは床で伸びをして、くぐもった声をひとつ漏らす。
蓮は、エプロンの紐を結び直した。
調理台の端には、まだ誰の手もつけていない卵のカゴがある。
砂糖も、小麦粉も、ベーキングパウダーもある。
オーブンは古いが、まだ動く。
──なら、作る理由は、十分だ。
外では煙が立ち上り、誰かが怒鳴っているかもしれない。
だがこの調理場だけは、蓮が守る。
誰かが戻ってきたとき、腹を満たせるものと、心を少しだけ和らげる甘さが、ちゃんとそこにあるように。
それが蓮にできる、蓮にしか出来ない存在意義だ。
蓮は、生クリームの入ったパックを取り出し、指先でそっと振って中身の状態を確かめた。
甘いものを作る理由なんて、いつだってひとつでいい。
──誰かに食わせたい。
それだけだった。
けれど今は、それどころではない。
本家の外では、トラックが突っ込み、塀が崩れ、警察が乗り込んでいる。
そんな状況で、食事の用意が整うはずがなかった。
「……仕方ねぇな」
エプロンの紐をきゅっと締めながら、蓮は調理台へと向かう。
冷蔵庫を開け、食材の残量をざっと確認する。棚の奥に積まれた乾物、冷凍室の肉類、前日に下処理された野菜。あるもので、何とかするしかない。
考えるべきは──
・冷めても美味しいこと
・腹持ちがいいこと
・アレルギーの心配がないこと
・衛生的かつ一度に大量に作れること
・食欲のない者でも“喉を通せる味”
本格的な抗争が始まった。
これから数日、組員たちは休む間もなく動き続ける。
怪我人も出るだろう。気を張りすぎて何も食えない者もいるはずだ。
だからこそ──今、自分にできることは、たったひとつ。
「まずは、食わせる」
それが、蓮にとっての“闘い方”だった。
彼の前には、まな板と包丁があった。
冷たいタイルの床の上では、ラーメンが静かに寝息を立てていた。
調理場の窓の外には、まだ白い煙がゆらゆらと立ち上っている。
けれど、この台の上には、確かな“命を繋ぐもの”があった。
味噌汁の出汁をひと煮立ちさせ、味噌を溶かす。
豆腐とわかめを静かに加え、ひと混ぜして火を止めた。
大釜では、ちょうど五目ご飯が炊き上がる音がしていた。湯気がふわりと立ちのぼり、醤油と鶏肉の香ばしい香りが調理場の天井に広がっていく。人参、椎茸、ごぼうの色合いもふっくらと仕上がりそうだ。
傍らでは、油揚げの甘煮がことことと音を立てている。
焦げないよう、弱火で煮含めながら、蓮はひと息ついた。
──まさか自分が、本家の調理場で、数百人分の飯を炊く日が来るなんて。
椿にいた頃は、調理場に立つことなど一度もなかった。
あの高級老人ホームには、国家資格を持った調理師と栄養士が揃っていたし、厨房は不要な時は完全に立ち入り禁止。蓮の役目はあくまで介護、ケア、そして時折の世間話だった。
それでも──
光一が、「甘いもんが食いたい」と一度、ぽつりと漏らしたことがあった。
身体も満足に動かせなくなってストレスが溜まっていたのだろうあの頃。
光一がそうかは分からないがそもそもロング服役をしたことがある人は甘いものに固執しやすいと風の噂で聞いた。
誰もが光一のそれを“我儘”だと流した中で、蓮だけが、それを拾った。
それが、管理栄養士の資格を取ろうと思ったきっかけだった。
きっと、何かを作りたかったのではない。与えられるばかりだった人生の中で、誰かに“作ってやる”側に立ちたかっただけなのかもしれない。
蓮は、ふと手を止め、冷蔵庫の方へ視線を向けた。
そういえば──
古株の組員が、よくシチューに生クリームを使っていた。牛乳ではなく、濃厚でこってりとした、脂肪分の多いやつ。
近々シチューを作るつもりなのだろうがこの騒動じゃ古株なら忙しすぎて作れないだろう。
先程冷蔵庫から砂糖を出した時に、開封していない生クリームのパックが何本も奥の方に並んでいた。多分、もうすぐ賞味期限が切れるものもある。
蓮は、ぼんやりとその在庫を思い浮かべた。
──甘いものを作る機会なんて、もう二度とないかもしれない。
椿を出た時、そう思っていた。
けれど、今。ここで。戦場のようなこの屋敷の中で。
炊き込みご飯を仕込み、味噌汁を仕上げ、甘煮の香りに囲まれて、ふと頭に浮かんだのは──光一が最後に笑った時の顔だった。
あの人は、甘いものを食べるときだけ、子供みたいな顔をした。
その記憶が、手の中にまだ残っている気がして、蓮は静かに口角を上げた。
「……生クリームの期限もあるし、ケーキでも作っちゃうか」
つぶやいた声は、誰にも聞こえないような微かなものだった。
けれど、その言葉が空気を震わせた。
ラーメンが、まどろみの中で耳をぴくりと動かす。うどんは床で伸びをして、くぐもった声をひとつ漏らす。
蓮は、エプロンの紐を結び直した。
調理台の端には、まだ誰の手もつけていない卵のカゴがある。
砂糖も、小麦粉も、ベーキングパウダーもある。
オーブンは古いが、まだ動く。
──なら、作る理由は、十分だ。
外では煙が立ち上り、誰かが怒鳴っているかもしれない。
だがこの調理場だけは、蓮が守る。
誰かが戻ってきたとき、腹を満たせるものと、心を少しだけ和らげる甘さが、ちゃんとそこにあるように。
それが蓮にできる、蓮にしか出来ない存在意義だ。
蓮は、生クリームの入ったパックを取り出し、指先でそっと振って中身の状態を確かめた。
甘いものを作る理由なんて、いつだってひとつでいい。
──誰かに食わせたい。
それだけだった。
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