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第一章 花吹雪
第三話
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「遅かったじゃないか」
「桜井さんの剣技に見とれてまして」
「俺が二階級特進したがってるように見えたか?」
「今日は休みですから二階級特進はないんじゃないかと」
「やっぱりバっくれればよかった」
「冗談ですよ」
如月は笑って言った。
「で、遅れたホントの理由は?」
「刃物を持っているという報告を受けたので指叉を探してまして」
その言葉に警官達や、その周りを見たが指叉はなかった。
「ちょうど近所の学校の安全教室で指叉を貸し出しててありませんでした」
紘彬の視線に気づいた如月が言った。
「意味ねぇ」
紘彬は思いきり脱力した。
そんなものを探すより早く来てくれた方がどれだけ有難かったか。
「如月巡部長」
男を立たせた警官の一人が如月に声をかけた。
「桜井さん、これを。警視総監賞確実ですよ」
如月が手錠を差し出した。
「警視総監賞?」
きっと報告書を山程書かせられるだろう。
紘彬はさっきの警官の方を振り返った。
「中沢」
「中山です」
「お前が手錠かけろ」
「いえ、自分は見てただけですから」
中山は慌てて手を振った。
「見つけたのも子供を助けたのもお前だ。お前が逮捕しろ。こんな住宅街しかない管轄で手柄を立てるのは大変だろ。俺は手柄なんていらないから」
うっかり手柄を立てて昇進でもすることになったら大変だ。
出世したらよそへ栄転と言うことになってしまうし、より責任の重い地位に就かされるだろう。
それに何より大量の報告書を書くのが面倒だ。
「しかし……」
「巡査、桜井さんのご厚意を受けとけ」
紘彬の考えを読み取った如月は中山に手錠を渡した。
それから紘彬に向き直った。
「桜井さん、お手数ですが、今回のことを報告書に……」
「やっぱり書かなきゃダメか」
紘彬はため息をついた。
「どうせあいつがケガさせたか殺したかした被害者の捜査があるよな」
「まぁまぁ」
如月は宥めるように笑った。
「逮捕はしませんでしたから警視総監賞は無理でも、署長から表彰されるかもしれませんよ」
「賞状貰ってもなぁ……」
あんまり嬉しくない。
警察に入ってからはともかく、学生時代は表彰されるのは珍しくなかったから賞状の類は腐るほどある。
両親も慣れてしまったせいか高校に入る頃にはもう貰ってきてもその辺の引き出しに放り込んでいた。
「金一封は出るかな」
「無理じゃないかと。どちらにしろそんな大金じゃないですよ」
如月は二十代前半という若さで巡査部長になっただけあって、警視総監賞を貰ったことがある。
金一封を貰ったのも一度や二度ではないのだろう。
「金一封か、振替休日でももらえないかなぁ」
「どっちも無理でしょうねぇ」
「やっぱりなぁ。せめてクリーニング代くらい経費で落ちないかな」
「それも無理かと」
「せっかく呼び出されないようにスマホの電源切ってたのに」
紘彬は上着の胸ポケットからスマホを出すと電源を入れた。
「それ規則違反ですよ」
如月は苦笑した。
「マスコミに叩かれてもいいから逃げれば良かった」
紘彬は、いつものように本気とも冗談ともつかない口調で言った。
それを如月は笑って聞き流しながら、初めて会った二年前のことを思い出していた。
二年前――。
その日、如月は刑事になった初日で、配属先の刑事課課長のオフィスへと出向いた。
如月が大して広くないオフィスへ入っていくと先客がいた。
身長百七十センチの自分よりさらに十センチ以上背の高い男性で、整った顔立ちをしていた。
それが桜井紘彬だった。
ぱっと見はすらりとして細身に見えるが、胸板は厚く、ワイシャツの首回りやスーツに隠れている二の腕はきつそうだった。
紘彬は大卒で国家公務員試験を受けて刑事になったので、一見頭脳派に見えるが柔道と剣道の有段者だ。
高校時代、剣道の全国大会で優勝したこともあるらしい。
紘彬のことは聞いていた。
と言うか、東京の警官で知らない人間はいないのではないかと言うくらい噂になっていた。
紘彬と同じ署に配属になるというのも同期のものがメールで知らせてくれていたからすぐに分かった。
「桜井警部補でありますか? 自分は……」
如月が直立して敬礼をしながら話しかけると、
「呼び捨てでいいよ。そっちの方が先輩だろ。俺、警官になったばっかだぜ」
紘彬は如月の言葉を遮った。
「存じております」
「だから、敬語はいいって。そっちは何年目?」
「五年目です」
「叩き上げじゃないか」
「叩き上げなんて恐れ多い。自分はまだ若輩者でありますから……」
如月は慌てて手を振った。
「どっちにしろ先輩先輩」
紘彬は気にした様子もなく、如月の背中をばんばん叩きながら明るく言った。
上下関係の厳しい警察組織で何年も過ごしてきた如月は戸惑って紘彬を見上げた。
「しかし、階級が……」
「階級ねぇ。あんまり有難くないんだけどな。警部補って国家公務員だからな」
「国家公務員試験を受けたんですから当然かと……」
「そうなんだけどさ。何か失敗して降格にならないかな」
一つ下なら地方公務員だろ、などと言っている。
この人は正気なんだろうか。
如月は自分より背の高い紘彬の顔を見上げながら思った。
「降格したら給料も減るんですよ」
殉職すると二階級特進するのは退職金などの額を増やすためである。
給料にしろ退職金にしろ階級が上がるほど上がるから、階級を上げて遺族に支払われる額を増やすのだ。
「それに降格するほどの不祥事起こしたら普通はクビですし」
「けどなぁ……。とんでもない田舎に転勤させられたらどうするよ。俺んち江戸時代から東京――昔は江戸だけど――に住んでるから田舎なんて旅行とかでしか行ったことないんだよな」
「東京都の場合、絶海の孤島がいくつもありますから地方公務員でもあまり変わらないんじゃないかと」
「そうだよなぁ。空港が無くて船は週一便なんてとこも珍しくないしなぁ」
紘彬は誰にともなく頷いた。
「まぁ、島嶼部に飛ばされることになったら辞めるけどな」
紘彬は明るい顔で言った。
早く警部補になって故郷に転属したい如月としてみれば贅沢な話なのだが、不思議と腹は立たなかった。
そもそもこの人はこんなところにいるのが何かの間違いなのだ。
卒業した大学からして医大である。
大塚の監察医務院への就職も内定していた。
それが何をとち狂ったか、突然国家公務員試験を受けて警官になったと思ったら、今度は何やら不祥事を起こしたらしく、速攻でキャリアから外れたという変わり種だ。
不祥事の原因は誰も知らないらしい。ホントに不祥事を起こしたのかどうかさえ定かではない。
ただ、キャリアを外れたのは確かのようだった。
「桜井さんの剣技に見とれてまして」
「俺が二階級特進したがってるように見えたか?」
「今日は休みですから二階級特進はないんじゃないかと」
「やっぱりバっくれればよかった」
「冗談ですよ」
如月は笑って言った。
「で、遅れたホントの理由は?」
「刃物を持っているという報告を受けたので指叉を探してまして」
その言葉に警官達や、その周りを見たが指叉はなかった。
「ちょうど近所の学校の安全教室で指叉を貸し出しててありませんでした」
紘彬の視線に気づいた如月が言った。
「意味ねぇ」
紘彬は思いきり脱力した。
そんなものを探すより早く来てくれた方がどれだけ有難かったか。
「如月巡部長」
男を立たせた警官の一人が如月に声をかけた。
「桜井さん、これを。警視総監賞確実ですよ」
如月が手錠を差し出した。
「警視総監賞?」
きっと報告書を山程書かせられるだろう。
紘彬はさっきの警官の方を振り返った。
「中沢」
「中山です」
「お前が手錠かけろ」
「いえ、自分は見てただけですから」
中山は慌てて手を振った。
「見つけたのも子供を助けたのもお前だ。お前が逮捕しろ。こんな住宅街しかない管轄で手柄を立てるのは大変だろ。俺は手柄なんていらないから」
うっかり手柄を立てて昇進でもすることになったら大変だ。
出世したらよそへ栄転と言うことになってしまうし、より責任の重い地位に就かされるだろう。
それに何より大量の報告書を書くのが面倒だ。
「しかし……」
「巡査、桜井さんのご厚意を受けとけ」
紘彬の考えを読み取った如月は中山に手錠を渡した。
それから紘彬に向き直った。
「桜井さん、お手数ですが、今回のことを報告書に……」
「やっぱり書かなきゃダメか」
紘彬はため息をついた。
「どうせあいつがケガさせたか殺したかした被害者の捜査があるよな」
「まぁまぁ」
如月は宥めるように笑った。
「逮捕はしませんでしたから警視総監賞は無理でも、署長から表彰されるかもしれませんよ」
「賞状貰ってもなぁ……」
あんまり嬉しくない。
警察に入ってからはともかく、学生時代は表彰されるのは珍しくなかったから賞状の類は腐るほどある。
両親も慣れてしまったせいか高校に入る頃にはもう貰ってきてもその辺の引き出しに放り込んでいた。
「金一封は出るかな」
「無理じゃないかと。どちらにしろそんな大金じゃないですよ」
如月は二十代前半という若さで巡査部長になっただけあって、警視総監賞を貰ったことがある。
金一封を貰ったのも一度や二度ではないのだろう。
「金一封か、振替休日でももらえないかなぁ」
「どっちも無理でしょうねぇ」
「やっぱりなぁ。せめてクリーニング代くらい経費で落ちないかな」
「それも無理かと」
「せっかく呼び出されないようにスマホの電源切ってたのに」
紘彬は上着の胸ポケットからスマホを出すと電源を入れた。
「それ規則違反ですよ」
如月は苦笑した。
「マスコミに叩かれてもいいから逃げれば良かった」
紘彬は、いつものように本気とも冗談ともつかない口調で言った。
それを如月は笑って聞き流しながら、初めて会った二年前のことを思い出していた。
二年前――。
その日、如月は刑事になった初日で、配属先の刑事課課長のオフィスへと出向いた。
如月が大して広くないオフィスへ入っていくと先客がいた。
身長百七十センチの自分よりさらに十センチ以上背の高い男性で、整った顔立ちをしていた。
それが桜井紘彬だった。
ぱっと見はすらりとして細身に見えるが、胸板は厚く、ワイシャツの首回りやスーツに隠れている二の腕はきつそうだった。
紘彬は大卒で国家公務員試験を受けて刑事になったので、一見頭脳派に見えるが柔道と剣道の有段者だ。
高校時代、剣道の全国大会で優勝したこともあるらしい。
紘彬のことは聞いていた。
と言うか、東京の警官で知らない人間はいないのではないかと言うくらい噂になっていた。
紘彬と同じ署に配属になるというのも同期のものがメールで知らせてくれていたからすぐに分かった。
「桜井警部補でありますか? 自分は……」
如月が直立して敬礼をしながら話しかけると、
「呼び捨てでいいよ。そっちの方が先輩だろ。俺、警官になったばっかだぜ」
紘彬は如月の言葉を遮った。
「存じております」
「だから、敬語はいいって。そっちは何年目?」
「五年目です」
「叩き上げじゃないか」
「叩き上げなんて恐れ多い。自分はまだ若輩者でありますから……」
如月は慌てて手を振った。
「どっちにしろ先輩先輩」
紘彬は気にした様子もなく、如月の背中をばんばん叩きながら明るく言った。
上下関係の厳しい警察組織で何年も過ごしてきた如月は戸惑って紘彬を見上げた。
「しかし、階級が……」
「階級ねぇ。あんまり有難くないんだけどな。警部補って国家公務員だからな」
「国家公務員試験を受けたんですから当然かと……」
「そうなんだけどさ。何か失敗して降格にならないかな」
一つ下なら地方公務員だろ、などと言っている。
この人は正気なんだろうか。
如月は自分より背の高い紘彬の顔を見上げながら思った。
「降格したら給料も減るんですよ」
殉職すると二階級特進するのは退職金などの額を増やすためである。
給料にしろ退職金にしろ階級が上がるほど上がるから、階級を上げて遺族に支払われる額を増やすのだ。
「それに降格するほどの不祥事起こしたら普通はクビですし」
「けどなぁ……。とんでもない田舎に転勤させられたらどうするよ。俺んち江戸時代から東京――昔は江戸だけど――に住んでるから田舎なんて旅行とかでしか行ったことないんだよな」
「東京都の場合、絶海の孤島がいくつもありますから地方公務員でもあまり変わらないんじゃないかと」
「そうだよなぁ。空港が無くて船は週一便なんてとこも珍しくないしなぁ」
紘彬は誰にともなく頷いた。
「まぁ、島嶼部に飛ばされることになったら辞めるけどな」
紘彬は明るい顔で言った。
早く警部補になって故郷に転属したい如月としてみれば贅沢な話なのだが、不思議と腹は立たなかった。
そもそもこの人はこんなところにいるのが何かの間違いなのだ。
卒業した大学からして医大である。
大塚の監察医務院への就職も内定していた。
それが何をとち狂ったか、突然国家公務員試験を受けて警官になったと思ったら、今度は何やら不祥事を起こしたらしく、速攻でキャリアから外れたという変わり種だ。
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