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第六章
第六章 第二話
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店の片付けが終わり、流と水緒は帰途に就いた。
「水緒、錦絵ってこれのことか?」
流は懐から紙を出すと水緒に見せた。
台の上にずっと畳んだ紙が置いてあった。
質問を考えている時、その紙を見れば何か思い付くかもしれないと思って開いてみたら女の絵だった。
〝水緒〟と書いてあるから水緒の絵らしいと分かったが、ただの絵だから「これは何か」と聞いたところで「絵だ」としか答えようがなくて困らせてしまうのではないかと思っていたから聞いてなかったのだ。
本物の方がずっと綺麗だが、それでも水緒の絵だから持ち歩いていた。
「持っててくれたの!?」
水緒が驚いたように言った。
「水緒がくれたのか?」
「うん」
質問することが尽きてきていたので丁度いいから錦絵について訊ねてみた。
水緒は色々と話してくれた。
錦絵のことだけでも家に着いた後、台所でもまだ話を聞けるくらいはあった。
となると江戸に来てからの五年間に他にも様々なことがあったではないかと思ったが、鬼に喰われそうになったり、行く当てもないまま彷徨うのと違い、江戸での出来事は誰にとっても当たり前のことだから取り立てて言う必要はないと考えたのかもしれない。
花火もそうだったが江戸中の人間が毎年見ているなら敢えて口にするようなことではないと考えても不思議はない。
流にとってはむしろ江戸の暮らしの方が当たり前ではないのだが、流と出会ってから桐崎と知り合う前までの僅かな期間を除けば水緒は規模の違いこそあれ人間達の中で暮らしていたのだから流と水緒では〝当たり前〟が違うという事が分からず、流が何を知っていて何を知らないのか判断が付かないのだろう。
そうなると流の方から聞くしかないのだが何を知らないのかが分からないと訊ねようがない。
流自身ですら〝知らない〟という事を〝知らない〟のでは水緒では尚のこと何を〝知らない〟のか分からないだろう。
最初は危険な目に遭わないように送り迎えをしているつもりだったが、一所懸命になって説明してくれているのを聞いているうちに護衛は口実で、実際はただ水緒と一緒にいたいだけだと気付いた。
送り迎えをすればその分だけ長く側に居られる。
水緒は誰にでも――人間だけではなく桐崎の家にいる化猫や道端の犬にも優しいが、自分には特別優しいような気がするのは自惚れなのだろうか。
一緒に過ごすうちに記憶を失う前の自分が水緒をどう思っていたのか分かってきた。
今まで流にこんな風に優しくしてくれた者は一人も居なかった。
人間は鬼を恐れているはずなのに水緒は優しい。
鬼だと知っていて尚ずっと一緒にいてくれたのだ。
そんな水緒だから好きになった。
きっと後にも先にもこんな気持ちになるのは水緒だけだ。
その日はまだ聞いたことのない職業の者が通り掛からず、流は質問を思いあぐねていた。
〝知らない〟という事を〝知らない〟ものの事は質問のしようがない。
〝在る〟という事すら知らない事は聞くことも出来ない。
質問するにも知識が必要なのだ。
流は思案に暮れながら黙って歩いていた。
水緒は何も言わずに随いてくる。
流が口を開くのを待ってくれているのだ。
ひょっとしたら水緒は質問が口実だという事に気付いているのかもしれない。
五年以上も一緒にいたのだ。
当然、流のことはよく知っているだろう。
人を疑わない性格だから本当に聞きたいことがあると思っていることも考えられなくはないが。
母が居なくなって一人になってからは誰かと口を利くことなどなかったから話をしたことがない。
それは水緒と出会ったばかりの時も同じだったはずだし、その頃に戻ったのなら流があまり話をしないという事も分かっているだろう。
水緒の表情を窺う限り、流が黙っていても平気そうだ。
この五年間も流の方から話すことは殆どなくて慣れているのかもしれない。
黙っていても問題ないのなら無理に話さなくてもいいだろう。
流はそう考えて思い付いた時だけ質問することにした。
夕方、水緒を迎えに行くために家を出ようとした時、
「流、まだ話が終わってないのか? いつ頃の話まで聞いた?」
桐崎に声を掛けられた。
「しばらく前に昔の話は五年前ここに来たところまでで終わった。けど、あの店の辺りはよく男共が女に絡んでる。水緒一人じゃ危ない」
流がそう答えると桐崎は黙り込んだ。
それについては桐崎も同じ事を考えていたのだろう。
「流、これは以前のお前にも言ったことだが、水緒は人間だ。お前より先に死ぬ」
鬼の流にとっては水緒が死んだ後の時間の方が遥かに長い、と。
流はその言葉に息を飲んだ。
そんな事は考えたことも無かった。
水緒が無事でいさえすればずっと一緒にいられると思っていた。
年老いた人間もいるが、流も水緒と同じように年を取っていくのだと思い込んでいた。
記憶を失う前、桐崎と知り合った時は流と水緒は既に仲が良すぎて引き離すのは無理だった。
だが、幸か不幸か流は記憶を失った。
それと共に水緒への想いも消えた。
水緒のことを忘れたままでいれば、いなくなった後の心配をしなくても済む。
桐崎はそう言った。
「妖でも鬼でもいい。あるいは人間でも、とにかく他の者と親しくなることを覚えなさい。水緒がいなくなっても一人にならずに済むように」
桐崎はそう言うと奥へ戻っていった。
こういう事だったのか……。
桐崎が水緒から流を引き離そうとしていた理由。
記憶を失う前は今以上に水緒に惚れていたのだとしたら尚のこと水緒がいなくなったあと流がどうなるか分からない。
まず間違いなく水緒の方が先に死ぬから流のためを思って離れさせようとしていたのだ。
「水緒、錦絵ってこれのことか?」
流は懐から紙を出すと水緒に見せた。
台の上にずっと畳んだ紙が置いてあった。
質問を考えている時、その紙を見れば何か思い付くかもしれないと思って開いてみたら女の絵だった。
〝水緒〟と書いてあるから水緒の絵らしいと分かったが、ただの絵だから「これは何か」と聞いたところで「絵だ」としか答えようがなくて困らせてしまうのではないかと思っていたから聞いてなかったのだ。
本物の方がずっと綺麗だが、それでも水緒の絵だから持ち歩いていた。
「持っててくれたの!?」
水緒が驚いたように言った。
「水緒がくれたのか?」
「うん」
質問することが尽きてきていたので丁度いいから錦絵について訊ねてみた。
水緒は色々と話してくれた。
錦絵のことだけでも家に着いた後、台所でもまだ話を聞けるくらいはあった。
となると江戸に来てからの五年間に他にも様々なことがあったではないかと思ったが、鬼に喰われそうになったり、行く当てもないまま彷徨うのと違い、江戸での出来事は誰にとっても当たり前のことだから取り立てて言う必要はないと考えたのかもしれない。
花火もそうだったが江戸中の人間が毎年見ているなら敢えて口にするようなことではないと考えても不思議はない。
流にとってはむしろ江戸の暮らしの方が当たり前ではないのだが、流と出会ってから桐崎と知り合う前までの僅かな期間を除けば水緒は規模の違いこそあれ人間達の中で暮らしていたのだから流と水緒では〝当たり前〟が違うという事が分からず、流が何を知っていて何を知らないのか判断が付かないのだろう。
そうなると流の方から聞くしかないのだが何を知らないのかが分からないと訊ねようがない。
流自身ですら〝知らない〟という事を〝知らない〟のでは水緒では尚のこと何を〝知らない〟のか分からないだろう。
最初は危険な目に遭わないように送り迎えをしているつもりだったが、一所懸命になって説明してくれているのを聞いているうちに護衛は口実で、実際はただ水緒と一緒にいたいだけだと気付いた。
送り迎えをすればその分だけ長く側に居られる。
水緒は誰にでも――人間だけではなく桐崎の家にいる化猫や道端の犬にも優しいが、自分には特別優しいような気がするのは自惚れなのだろうか。
一緒に過ごすうちに記憶を失う前の自分が水緒をどう思っていたのか分かってきた。
今まで流にこんな風に優しくしてくれた者は一人も居なかった。
人間は鬼を恐れているはずなのに水緒は優しい。
鬼だと知っていて尚ずっと一緒にいてくれたのだ。
そんな水緒だから好きになった。
きっと後にも先にもこんな気持ちになるのは水緒だけだ。
その日はまだ聞いたことのない職業の者が通り掛からず、流は質問を思いあぐねていた。
〝知らない〟という事を〝知らない〟ものの事は質問のしようがない。
〝在る〟という事すら知らない事は聞くことも出来ない。
質問するにも知識が必要なのだ。
流は思案に暮れながら黙って歩いていた。
水緒は何も言わずに随いてくる。
流が口を開くのを待ってくれているのだ。
ひょっとしたら水緒は質問が口実だという事に気付いているのかもしれない。
五年以上も一緒にいたのだ。
当然、流のことはよく知っているだろう。
人を疑わない性格だから本当に聞きたいことがあると思っていることも考えられなくはないが。
母が居なくなって一人になってからは誰かと口を利くことなどなかったから話をしたことがない。
それは水緒と出会ったばかりの時も同じだったはずだし、その頃に戻ったのなら流があまり話をしないという事も分かっているだろう。
水緒の表情を窺う限り、流が黙っていても平気そうだ。
この五年間も流の方から話すことは殆どなくて慣れているのかもしれない。
黙っていても問題ないのなら無理に話さなくてもいいだろう。
流はそう考えて思い付いた時だけ質問することにした。
夕方、水緒を迎えに行くために家を出ようとした時、
「流、まだ話が終わってないのか? いつ頃の話まで聞いた?」
桐崎に声を掛けられた。
「しばらく前に昔の話は五年前ここに来たところまでで終わった。けど、あの店の辺りはよく男共が女に絡んでる。水緒一人じゃ危ない」
流がそう答えると桐崎は黙り込んだ。
それについては桐崎も同じ事を考えていたのだろう。
「流、これは以前のお前にも言ったことだが、水緒は人間だ。お前より先に死ぬ」
鬼の流にとっては水緒が死んだ後の時間の方が遥かに長い、と。
流はその言葉に息を飲んだ。
そんな事は考えたことも無かった。
水緒が無事でいさえすればずっと一緒にいられると思っていた。
年老いた人間もいるが、流も水緒と同じように年を取っていくのだと思い込んでいた。
記憶を失う前、桐崎と知り合った時は流と水緒は既に仲が良すぎて引き離すのは無理だった。
だが、幸か不幸か流は記憶を失った。
それと共に水緒への想いも消えた。
水緒のことを忘れたままでいれば、いなくなった後の心配をしなくても済む。
桐崎はそう言った。
「妖でも鬼でもいい。あるいは人間でも、とにかく他の者と親しくなることを覚えなさい。水緒がいなくなっても一人にならずに済むように」
桐崎はそう言うと奥へ戻っていった。
こういう事だったのか……。
桐崎が水緒から流を引き離そうとしていた理由。
記憶を失う前は今以上に水緒に惚れていたのだとしたら尚のこと水緒がいなくなったあと流がどうなるか分からない。
まず間違いなく水緒の方が先に死ぬから流のためを思って離れさせようとしていたのだ。
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