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春 四
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その日も貴晴は母から「早く妻を」とせっつかれていた。
祖父の邸に行けという話はうやむやになったらしい。
あれ以来、何も言われなくなった。
「いいですか、早く妻を……」
母がくどくどと何やら言っているのを聞きながら貴晴は横目で庭を眺めていた。
「み吉野の み山の上の 月影に 桜の白き 色やうつらむ」
母がいきなり歌を詠じた。
貴晴が思わず母に視線を戻すと母は、してやったりという笑みを浮かべた。
「帝の行幸の時に管大納言の大姫が詠んだのだそうです。帝や春宮様も感心していらしたとか」
母が言った。
なんだ、春宮狙いか……。
貴晴は興味を失って庭に目を戻した。
先日の帝の行幸なら歌会ではない。
歌会でもないのに帝や春宮がいるところを狙いすまして詠じたというのなら帝や春宮に聞かせるためだろうし、聞かせたかったのは気を引きたかったからだ。
ならば妃になりたいという事だろうし、だとすれば出世の見込みのない下級貴族など鼻にも引っ掛けないだろう。
「どう思いますか?」
母が言った。
どうと言われても……。
手の届かない相手なのにどうしろというのか。
いっそ適当な姫との話を付けてきてくれれば楽なのに……。
この前の国司の娘とか……。
貴族の結婚は男が妻の元に通う妻問婚が普通だが親が決める政略結婚もないわけではない。
貴晴が母になんと答えようか悩んでいると由太がやってきた。
由太は貴晴の乳母子――乳母の子供、つまり乳兄弟である。
「失礼致します。隆亮様がお見えです」
由太の声に、
「母上、今日はこれで失礼します」
と言うと母がそれ以上何か言う前に席を立った。
持つべきものは気の利く乳母子と身分の高い友である。
まぁ隆亮自身はそれほど身分が高いわけではないが父親が右大臣なのだ。
右大臣は数少ない大納言より上の官職である。それより遥か下の木っ端役人からしたら雲の上の存在なのだ。
当然訊ねてきたら最優先で出迎えなければならない。
「由太、よくやった」
貴晴がそう言って部屋に入ると隆亮が座っていた。
助け船を出してくれたわけじゃなかったのか……。
「邪魔したか?」
隆亮が声を掛けてきた。
「いや、助かった。母上がうるさかったんでな」
「何をやらかした」
隆亮が笑いながら訊ねる。
「そろそろ妻を、と」
貴晴が答える。
「それは当然だろう」
隆亮が言った。
女性に興味がない貴晴と違い、隆亮には既に妻がいる。しかも二人。
私と同い年なんだがな……。
もっとも十八だから妻二人は普通だ。
なんなら子供がいてもおかしくない。
隆亮とは二年前に出掛けた先で知り合った。
人付き合いの苦手な貴晴の数少ない友人である。
「これまでいいと思った女性が一人もいなかったのか?」
その問いに一瞬、二年前に会った少女が浮かんだ。
隆亮と知り合った時に出会った少女である。
それを慌てて振り払う。
いくらなんでも子供なんて……。
そもそも顔も見てないし……。
幼馴染みでもない限り好きな女性の顔を見たことがないのは普通だが。
しかし顔だけではなく、どこの誰なのかも分からないのではどうしようもない。
「だから香の匂いに気付かなかったのか」
「香?」
そういえば良い香りがしている。
「実は夕辺、妻の一人が香を焚き込めてしまってな。だが今日はもう一人の妻のところに行くと約束してるんだ」
「うちで香を焚いてほしいのか?」
「いや、お前との仲を疑われたくない」
隆亮が真顔で答える。
「実は祖父様に呼ばれたんだ。ちょうど桜が満開らしいからどうだ?」
隆亮が言った。
外を歩き回れば匂いが薄れるという事だろう。
薄れなくても祖父の邸で着いたと言い訳出来る。
それで花見に誘いに来てくれたらしい。
「いいぞ」
貴晴は快諾した。
隆亮に連れてこられたのは都の郊外にある邸だった。
貴晴が降りた牛車の横を別の牛車が通り過ぎていく。
この先の寺に行くのだろう。
「貴晴?」
隆亮が声を掛けてきた。
「ああ、すまん」
貴晴が答える。
「なんだ、寺なんかじっと見て。出家でもする気か?」
隆亮が冗談めかして訊ねてきた。
「ああ、よく考える」
貴晴が真顔で返すと、
「本気か!?」
隆亮が驚いた表情を浮かべた。
「出家すれば妻も持たなくてすむし歌会にも出られるようになる」
貴晴が言った。
「歌会に呼ばれるのは坊さんだからじゃなくて歌が上手いからだ」
隆亮が突っ込む。それから、
「出家しなくたってお前なら出られるだろ」
と言った。
「目立ちたくない」
貴晴が答える。
「坊さんになったからって姿が見えなくなるわけじゃないぞ」
隆亮が言った。
姿が見えないのに声だけ聞こえる方が目立つと思うが……。
貴晴は心の中で突っ込み返した。
目立ちたくないのは隆亮が考えているのとは違う理由なのだが。
貴晴はそれ以上、何も言わず隆亮に随いて邸に入った。
邸に入るとそこにいたのは貴晴の祖父だった。
「……何故ここに」
貴晴はそう言ってから隆亮の方を振り返った。
「お前、実は俺の伯父か従兄弟だったのか?」
「なわけないだろ」
隆亮が突っ込む。
「お前が呼んでも来ないから隆亮殿に頼んで連れてきてもらったのだ」
祖父が言った。
「お知り合いだったとは存じませんでした」
貴晴は無愛想に答えた。
とはいえ隆亮の父と祖父は公卿同士なのだから知り合いでも不思議はない。
「大事な話があるのだ」
祖父が言った。
「処分のことでしたら母上に……」
「縁起でもないことを言うな!」
祖父が貴晴の言葉を遮った。
処分というのは財産の相続のことである。
祖父の邸に行けという話はうやむやになったらしい。
あれ以来、何も言われなくなった。
「いいですか、早く妻を……」
母がくどくどと何やら言っているのを聞きながら貴晴は横目で庭を眺めていた。
「み吉野の み山の上の 月影に 桜の白き 色やうつらむ」
母がいきなり歌を詠じた。
貴晴が思わず母に視線を戻すと母は、してやったりという笑みを浮かべた。
「帝の行幸の時に管大納言の大姫が詠んだのだそうです。帝や春宮様も感心していらしたとか」
母が言った。
なんだ、春宮狙いか……。
貴晴は興味を失って庭に目を戻した。
先日の帝の行幸なら歌会ではない。
歌会でもないのに帝や春宮がいるところを狙いすまして詠じたというのなら帝や春宮に聞かせるためだろうし、聞かせたかったのは気を引きたかったからだ。
ならば妃になりたいという事だろうし、だとすれば出世の見込みのない下級貴族など鼻にも引っ掛けないだろう。
「どう思いますか?」
母が言った。
どうと言われても……。
手の届かない相手なのにどうしろというのか。
いっそ適当な姫との話を付けてきてくれれば楽なのに……。
この前の国司の娘とか……。
貴族の結婚は男が妻の元に通う妻問婚が普通だが親が決める政略結婚もないわけではない。
貴晴が母になんと答えようか悩んでいると由太がやってきた。
由太は貴晴の乳母子――乳母の子供、つまり乳兄弟である。
「失礼致します。隆亮様がお見えです」
由太の声に、
「母上、今日はこれで失礼します」
と言うと母がそれ以上何か言う前に席を立った。
持つべきものは気の利く乳母子と身分の高い友である。
まぁ隆亮自身はそれほど身分が高いわけではないが父親が右大臣なのだ。
右大臣は数少ない大納言より上の官職である。それより遥か下の木っ端役人からしたら雲の上の存在なのだ。
当然訊ねてきたら最優先で出迎えなければならない。
「由太、よくやった」
貴晴がそう言って部屋に入ると隆亮が座っていた。
助け船を出してくれたわけじゃなかったのか……。
「邪魔したか?」
隆亮が声を掛けてきた。
「いや、助かった。母上がうるさかったんでな」
「何をやらかした」
隆亮が笑いながら訊ねる。
「そろそろ妻を、と」
貴晴が答える。
「それは当然だろう」
隆亮が言った。
女性に興味がない貴晴と違い、隆亮には既に妻がいる。しかも二人。
私と同い年なんだがな……。
もっとも十八だから妻二人は普通だ。
なんなら子供がいてもおかしくない。
隆亮とは二年前に出掛けた先で知り合った。
人付き合いの苦手な貴晴の数少ない友人である。
「これまでいいと思った女性が一人もいなかったのか?」
その問いに一瞬、二年前に会った少女が浮かんだ。
隆亮と知り合った時に出会った少女である。
それを慌てて振り払う。
いくらなんでも子供なんて……。
そもそも顔も見てないし……。
幼馴染みでもない限り好きな女性の顔を見たことがないのは普通だが。
しかし顔だけではなく、どこの誰なのかも分からないのではどうしようもない。
「だから香の匂いに気付かなかったのか」
「香?」
そういえば良い香りがしている。
「実は夕辺、妻の一人が香を焚き込めてしまってな。だが今日はもう一人の妻のところに行くと約束してるんだ」
「うちで香を焚いてほしいのか?」
「いや、お前との仲を疑われたくない」
隆亮が真顔で答える。
「実は祖父様に呼ばれたんだ。ちょうど桜が満開らしいからどうだ?」
隆亮が言った。
外を歩き回れば匂いが薄れるという事だろう。
薄れなくても祖父の邸で着いたと言い訳出来る。
それで花見に誘いに来てくれたらしい。
「いいぞ」
貴晴は快諾した。
隆亮に連れてこられたのは都の郊外にある邸だった。
貴晴が降りた牛車の横を別の牛車が通り過ぎていく。
この先の寺に行くのだろう。
「貴晴?」
隆亮が声を掛けてきた。
「ああ、すまん」
貴晴が答える。
「なんだ、寺なんかじっと見て。出家でもする気か?」
隆亮が冗談めかして訊ねてきた。
「ああ、よく考える」
貴晴が真顔で返すと、
「本気か!?」
隆亮が驚いた表情を浮かべた。
「出家すれば妻も持たなくてすむし歌会にも出られるようになる」
貴晴が言った。
「歌会に呼ばれるのは坊さんだからじゃなくて歌が上手いからだ」
隆亮が突っ込む。それから、
「出家しなくたってお前なら出られるだろ」
と言った。
「目立ちたくない」
貴晴が答える。
「坊さんになったからって姿が見えなくなるわけじゃないぞ」
隆亮が言った。
姿が見えないのに声だけ聞こえる方が目立つと思うが……。
貴晴は心の中で突っ込み返した。
目立ちたくないのは隆亮が考えているのとは違う理由なのだが。
貴晴はそれ以上、何も言わず隆亮に随いて邸に入った。
邸に入るとそこにいたのは貴晴の祖父だった。
「……何故ここに」
貴晴はそう言ってから隆亮の方を振り返った。
「お前、実は俺の伯父か従兄弟だったのか?」
「なわけないだろ」
隆亮が突っ込む。
「お前が呼んでも来ないから隆亮殿に頼んで連れてきてもらったのだ」
祖父が言った。
「お知り合いだったとは存じませんでした」
貴晴は無愛想に答えた。
とはいえ隆亮の父と祖父は公卿同士なのだから知り合いでも不思議はない。
「大事な話があるのだ」
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