5 / 47
春 五
しおりを挟む
「お前に頼みたいことがあるのだ。任せたいこと、と言ってもいい」
「…………」
貴晴は黙っていた。
「実はお前を弾正台に補したいと……」
「悪い冗談はやめて下さい。弾正台というのは親王がなるものでしょう」
貴晴はぴしゃりと言った。
「今でこそ親王の名誉職のようになっているが本来は非違を糾す役職だ――親王や左右大臣を含めた者の」
親王や左右大臣を含めた者の非違……。
非違とは違法行為、つまり犯罪のことである。
下級貴族や庶民相手なら検非違使でいい。
わざわざ弾正台を補すということは――。
「取り締まる必要が出てきたと言うことですね。身分の高い者を」
貴晴が言った。
「さすが卿のお孫さんは聡いですね」
隆亮が言った。
「へつらうな。お前の父親は右大臣だろうが」
貴晴が隆亮を睨む。
もしも右大臣が悪事に関わっていたとしたら隆亮の父が捕まることになるのだ。
「お前の父親が失脚したらお前も出世出来なくなるんだぞ」
といっても貴族の処分など反省文程度なのだが。
特に上級貴族は。
重くても太宰府への流罪だし、それも数年で許されることが大半だ。
「幸い私にはまだ子供がいないからな。そのときは一緒に出家して歌会に出よう」
隆亮が明るく言った。
出家って……。
妻達はどうする気なんだ……。
父親が悪事に関わっていないと信じているのか出世できなくても構わないと思っているのか――。
「監察官としての実体がなくなってしまったから親王の名誉職のようになっているが、別に親王でなければなれないわけではない」
「大納言がなって尹大納言と呼ばれた者もいるからな」
隆亮が言った。
こいつ、あらかじめ祖父上から話を聞いてたな……。
尹大納言など大分長いこといなかったのだから昔の記録を調べたのでなければ知っているはずがない。
「実体がないなら悪事を働いた者を突き止めたとして捕らえることは出来ないでしょう」
「うむ、帝に奏上した上で検非違使が捕らえることになるな」
「アホらしい」
貴晴は吐き捨てるように言うと立ち上がった。
そもそも弾正台が有名無実化したのは捕らえるのに帝の裁可が必要だったからだ。
帝といえど身内や権力を持っている公卿に対しては強く出られず処分が甘くなる。
遙か昔は皇后(中宮)は皇族でなければなれなかったから帝の外祖父も帝だった。
そのため帝の権力は強かった。
だが、いつしか大臣の娘も皇后になれるようになり、いまや大納言の娘もなれるようになった。
大抵は皇后の産んだ皇子が次の帝になるから、そうなると貴族が帝の外祖父になる。
そのため帝の親族である貴族が非違を犯したときの処罰も甘くなった。
大した処分を下さないのなら摘発しても無駄だし、中下級貴族や庶民相手なら検非違使でいい。
弾正台の実権は徐々に検非違使に移っていき、ついには親王の名誉職でしかなくなった。
断固とした処分を下すことに改めるのならともかく、そうではないなら何も貴晴がなる必要はない。
そうでなくても貴晴は帝とは関わり合いになりたくないと思っているのだ。
「失礼致します」
貴晴はそう言うと祖父が何か言う前に踵を返した。
邸を出た貴晴が歩いていると向こうから牛車がやってくるのが見えた。
車体が白っぽく見えるのは檳榔という植物を編んだ物で覆っているからで『檳榔毛の車』といって四位以上でなければ乗れない牛車である。
貴晴は足を止めると道を譲るために脇に避けた。
よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。
牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。
当然さっきの話が出るだろう。
それが嫌なら歩いて帰るしかない。
まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。
そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。
どうやらこの先にある寺で何かあるらしい。
法会か歌会か……。
花の季節だから花を絡めた題詠で詠ませる歌会かもしれない。
山は満開の桜で淡い色に染まっている。
二年前、貴晴が信じていた世界は偽りだったと知った。
あそこは近くに寺があったのだし、あのとき出家すれば良かった……。
「届かめと なげきを空に 墨染めの……」
貴晴が呟いた。
下の句はどうするか……。
「桜は野辺の 煙なるかな」
不意に女性の声が聞こえてきて貴晴は振り返った。
背後に止まっていた牛車に乗っている女性が下の句を読んだのだ。
貴晴が何か言う前に牛車が動き始めて寺の方へ行ってしまった。
どうやら寺の入口が混んでいたから空くのを待っていたらしい。
「ああ、管大納言か」
追い掛けてきた隆亮が牛車を見送りながら言った。
「管大納言? なんであの牛車が管大納言の車だって分かった?」
檳榔毛の車は他にも二、三台は見掛けたから車だけでは判断出来ないはずだ。
「姫が乗ってるだろ」
隆亮がそう言って牛車の後ろの御簾を指した。
牛車の後ろの御簾から女性の衣裳の裾が見えている。
この季節らしい桜の襲だ。
「管大納言の大姫って、歌が評判だって言う?」
貴晴が訊ねると、
「ああ」
隆亮が頷いた。
「…………」
貴晴は黙っていた。
「実はお前を弾正台に補したいと……」
「悪い冗談はやめて下さい。弾正台というのは親王がなるものでしょう」
貴晴はぴしゃりと言った。
「今でこそ親王の名誉職のようになっているが本来は非違を糾す役職だ――親王や左右大臣を含めた者の」
親王や左右大臣を含めた者の非違……。
非違とは違法行為、つまり犯罪のことである。
下級貴族や庶民相手なら検非違使でいい。
わざわざ弾正台を補すということは――。
「取り締まる必要が出てきたと言うことですね。身分の高い者を」
貴晴が言った。
「さすが卿のお孫さんは聡いですね」
隆亮が言った。
「へつらうな。お前の父親は右大臣だろうが」
貴晴が隆亮を睨む。
もしも右大臣が悪事に関わっていたとしたら隆亮の父が捕まることになるのだ。
「お前の父親が失脚したらお前も出世出来なくなるんだぞ」
といっても貴族の処分など反省文程度なのだが。
特に上級貴族は。
重くても太宰府への流罪だし、それも数年で許されることが大半だ。
「幸い私にはまだ子供がいないからな。そのときは一緒に出家して歌会に出よう」
隆亮が明るく言った。
出家って……。
妻達はどうする気なんだ……。
父親が悪事に関わっていないと信じているのか出世できなくても構わないと思っているのか――。
「監察官としての実体がなくなってしまったから親王の名誉職のようになっているが、別に親王でなければなれないわけではない」
「大納言がなって尹大納言と呼ばれた者もいるからな」
隆亮が言った。
こいつ、あらかじめ祖父上から話を聞いてたな……。
尹大納言など大分長いこといなかったのだから昔の記録を調べたのでなければ知っているはずがない。
「実体がないなら悪事を働いた者を突き止めたとして捕らえることは出来ないでしょう」
「うむ、帝に奏上した上で検非違使が捕らえることになるな」
「アホらしい」
貴晴は吐き捨てるように言うと立ち上がった。
そもそも弾正台が有名無実化したのは捕らえるのに帝の裁可が必要だったからだ。
帝といえど身内や権力を持っている公卿に対しては強く出られず処分が甘くなる。
遙か昔は皇后(中宮)は皇族でなければなれなかったから帝の外祖父も帝だった。
そのため帝の権力は強かった。
だが、いつしか大臣の娘も皇后になれるようになり、いまや大納言の娘もなれるようになった。
大抵は皇后の産んだ皇子が次の帝になるから、そうなると貴族が帝の外祖父になる。
そのため帝の親族である貴族が非違を犯したときの処罰も甘くなった。
大した処分を下さないのなら摘発しても無駄だし、中下級貴族や庶民相手なら検非違使でいい。
弾正台の実権は徐々に検非違使に移っていき、ついには親王の名誉職でしかなくなった。
断固とした処分を下すことに改めるのならともかく、そうではないなら何も貴晴がなる必要はない。
そうでなくても貴晴は帝とは関わり合いになりたくないと思っているのだ。
「失礼致します」
貴晴はそう言うと祖父が何か言う前に踵を返した。
邸を出た貴晴が歩いていると向こうから牛車がやってくるのが見えた。
車体が白っぽく見えるのは檳榔という植物を編んだ物で覆っているからで『檳榔毛の車』といって四位以上でなければ乗れない牛車である。
貴晴は足を止めると道を譲るために脇に避けた。
よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。
牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。
当然さっきの話が出るだろう。
それが嫌なら歩いて帰るしかない。
まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。
そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。
どうやらこの先にある寺で何かあるらしい。
法会か歌会か……。
花の季節だから花を絡めた題詠で詠ませる歌会かもしれない。
山は満開の桜で淡い色に染まっている。
二年前、貴晴が信じていた世界は偽りだったと知った。
あそこは近くに寺があったのだし、あのとき出家すれば良かった……。
「届かめと なげきを空に 墨染めの……」
貴晴が呟いた。
下の句はどうするか……。
「桜は野辺の 煙なるかな」
不意に女性の声が聞こえてきて貴晴は振り返った。
背後に止まっていた牛車に乗っている女性が下の句を読んだのだ。
貴晴が何か言う前に牛車が動き始めて寺の方へ行ってしまった。
どうやら寺の入口が混んでいたから空くのを待っていたらしい。
「ああ、管大納言か」
追い掛けてきた隆亮が牛車を見送りながら言った。
「管大納言? なんであの牛車が管大納言の車だって分かった?」
檳榔毛の車は他にも二、三台は見掛けたから車だけでは判断出来ないはずだ。
「姫が乗ってるだろ」
隆亮がそう言って牛車の後ろの御簾を指した。
牛車の後ろの御簾から女性の衣裳の裾が見えている。
この季節らしい桜の襲だ。
「管大納言の大姫って、歌が評判だって言う?」
貴晴が訊ねると、
「ああ」
隆亮が頷いた。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
Blue Moon 〜小さな夜の奇跡〜
葉月 まい
恋愛
ーー私はあの夜、一生分の恋をしたーー
あなたとの思い出さえあれば、この先も生きていける。
見ると幸せになれるという
珍しい月 ブルームーン。
月の光に照らされた、たったひと晩の
それは奇跡みたいな恋だった。
‧₊˚✧ 登場人物 ✩˚。⋆
藤原 小夜(23歳) …楽器店勤務、夜はバーのピアニスト
来栖 想(26歳) …新進気鋭のシンガーソングライター
想のファンにケガをさせられた小夜は、
責任を感じた想にバーでのピアノ演奏の代役を頼む。
それは数年に一度の、ブルームーンの夜だった。
ひと晩だけの思い出のはずだったが……
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
【完結】指先が触れる距離
山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。
必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。
「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。
手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。
近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる