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1巻
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しおりを挟む序章 冷たい光の先
社会人だから、大人だから、男だから……
そんな押し付けは、もういい加減にしてほしい。
「相葉、ここ抜けてるぞ」
明日顧客に提出する予定の最終見積もりと仕様書を、先輩に叩き付けられた。それは今朝、急遽作成を頼まれたものだ。
現時刻二十二時。とっくに定時は超えている。
そもそも昼に確認のために提出していたものを、今ごろになって確認ってどういうことだよ、と思うが、俺はグッと言葉を呑み込んだ。
「すみません。どこが抜けてましたか」
「昼に先方から電話があって一部仕様変更になっただろうが」
そんな話は聞いていない。思わず眉根が寄る。
「明日、朝一で持っていくんだから早めに頼むぞ」
「すみません。仕様変更についての連絡をいただいてないので、最終仕様がわからないのですが」
「は? 教えられなくてもわかれよ。お前、社会人何年目だ。今回の案件、元々自分に関係ないからって、こんなミスしてるんじゃないのか? お前には期待してるんだからしっかりしてくれよ」
俺より二年先輩のその男は、嫌々という態度を欠片も隠さず、最終仕様のメモを机に置いてさっさと帰った。
……そう。この案件は俺には関係がない。だから、情報が入ってくるわけがないんだ。
そもそもさっきの仕様変更は、俺が書類を提出した後に起こったことだろう。タイミングからして、先輩は修正が必要だと絶対に知っていたはずだ。
ようやく自分の仕事が片付いて帰れるところだったのに、更に残業……
俺は昇華しきれない苛立ちに、誰もいなくなった部屋でパソコンの画面を見つめながら、思いきり頭を掻き毟った。
期待してるから厳しくしているってなんだよ。ただのいびりじゃないのか? 元はと言えば、先輩の伝達ミスが原因じゃないか。
けれど、どんなに不本意な仕事だろうが、社内の事情で顧客に迷惑をかけるわけにはいかない。
俺は気持ちを切り替えて、すぐに訂正作業に入った。
作業が終わって時計を見ると、二十四時。
偉そうな態度の先輩社員がさっさと帰っていったことを思い出すだけで、気分が沈んだ。
自分の名前など一切残らない仕事に追われ、達成感を得られないまま、こんな時間までヨレたスーツを着ている自分が惨めに思える。
「まぁ……独身の一人暮らしの男なんて、便利に使える人員だよなぁ……」
わかってはいる。
でも、理解と許容は別だ。今日必死に作った書類や資料は、自分ではない誰かの地位を上げるために使われるのだろう。
他人頼りの仕事なんてそのうち絶対にボロが出るのにな……まぁ俺の考えを押し付ける気はないけど。
大きなため息を一つ。
照明の落とされた暗い会社のエントランスを出ると、酒を飲んでゴキゲンなサラリーマンの姿がちらほらと見えた。
毎日残業で、最近は飲みに出歩くこともない。
それどころか、休みを仕事に潰されたせいで、彼女からも捨てられるザマだ。
――何やってんだよ、俺。
駅に続く大通り。なかなか変わらない歩行者用信号に疲れが増す。
青になり、地面を踏みしめる感覚が曖昧なまま、一歩踏み出した。
瞬間、青白く光る車のライトが強烈な刺激となって目の奥に入ってくる。
視界の端に映る信号の色は、間違いなく青い。
――おいおい……信号無視かよ……
どこか冷静な思考とは異なり、疲れ切って弛緩した体は反応が遅れた。
目前に迫っている車体。
運転手の視線はこちらを見ない。
ああ、これが噂の、事故の直前には周りがスローモーションで見えるってやつか。終わったな、俺。
後ろで状況に気付いたらしい若い女の子の悲鳴が聞こえる。
ごめんな、見知らぬ少女。この勢いだと俺、君のトラウマになるかもしれないわ。
とてつもない衝撃が俺を襲う。
痛みはない。
圧迫感に似た鈍い感覚。
急激に血液が冷える。
ひたすら視界を白く染める光は冷たかった。
◇ ◆ ◇
「――おい……意識は……――……水……――……」
ざわざわと人の声が聞こえる。
瞼の裏に感じるのは、暖かい陽の光だ。
俺、助かったのか……?
目を開けようとするが、酷く眠い時のように瞼が震えるだけで開かない。
それがもどかしくて、俺は無理やり声を出して意識を醒まそうとした。
けれど、息を吸い込んだところに思いっきり水を流し込まれ、盛大にむせる。
「……っ!? ゲッホぉ!! ……グッ……ゴホッ!?」
誰だ!? 意識がない人間に水を無理に飲ませると、溺死する可能性あるからな!? 人命救助に見せかけた殺人だぞ!?
そう文句を付けようとするが、まだ声が出ない。
俺はゆっくり瞼を開け、光でぼやける視界が馴染むのを待った。
そして自分を取り囲む存在に目をやる。
瞬間、思った――
「あ、俺全然助かってないわ」
俺の体を支えている奴には、獣みたいな耳――所謂ケモミミに尻尾が付いている。ついでに、傍らにはでかい狼。
場所はどことも知れぬ森の中だ。
――これ、どう見ても日本じゃないよね……?
これが、俺――相葉徹が異世界にトリップした経緯である。
第一章 演習場に変な奴が落ちていた
我々バルド王国の騎士団は優秀である。
特に王が直に指揮する近衛団は、王家と同じ狼の血を引く獣人が多く、厳しい階級制度に律された最強の部隊だ。
そんな部隊が演習を行う森に、酷く馴染みのないモノが現れたのは突然だった。
森での偵察訓練の最中、縄張りに起こった異変。周囲の気配に敏感な狼や犬の獣人である俺達は、当然すぐに気付いた。
「アイザック隊長……今……急に……」
俺――アイザックとペアを組んでいた新人騎士は、警戒心を露にして尾を下げる。
「ああ。急に馴染みのない匂いが出現した……中央の大樹のほうだな」
火薬の燃え滓や煤に似ているが、少し違う。
そして、それに混じって微かに花の香りがする。
そんな匂いが急に森の中央に現れるなどありえない。
偵察訓練のため散っていた隊員達も同じく警戒したのだろう。各所から異変ありの遠吠えが響いた。
誰か一ペアだけを確認に向かわせても良いが、今までに嗅いだことのない匂いを正しく判断できるか不安が残る。
この近衛団の隊長である俺は、瞬時に獣化し、「全員目的地に急行」の合図を出す。
その遠吠えに応じる遠吠えが各所から響くのを確かめ、一気に駆けた。
匂いの元に近付くにつれ、隊員達の駆ける音が大きくなってくる。
ガサガサと茂みを駆け抜けると、中央の大樹の下に得体の知れない匂いの元が横たわっていた。
姿は獣人に似ているが、酷くツルッとしている。首の後ろの鬣すらない。
近付くと、薄ら血の香りがした。窮屈そうな服の下に、おそらく傷があるのだろう。
俺と医療部隊の隊員は獣化を解き、ソレを覗き込んだ。
「隊長。コレは……どうしましょう? 生きているようですが」
ソレの顔色はすこぶる悪いが、呼吸はある。俺はしばし、考え込んだ。
「とりあえず意識を戻す。汗が酷いから水を持ってこい」
頭部や目に見える範囲の外傷を確認し、ソレを抱き起こす。少し体が起こされたことで呼吸がしやすくなったのか、寄せられた眉が緩んだ。
「おい。聞こえるか? 聞こえたら手を握れ」
だが、手を握り声をかけても、ソレは握り返してこない。
それに……四足歩行などしたことがないような手の柔らかさだ。
こんな手で駆けたら血塗れになる。
その柔らかな手に爪を立て痛みを与えると、指先がぴくりと動いた。
――意識は薄らあるが自力で体を動かせない状態か。
「おい。水は飲めるか?」
そう問いかけた時、瞼が微かに揺れた。しばらく声をかけ続けているうちに、喉が渇いていたのかソレは口を開ける。
「よし、飲め」
俺は水筒を口に突っ込む。思った以上になみなみと入っていた水が、勢いよくソレの口の中に流れ込んでいった。
危険だなと思った時にはすでに遅く、ソレは思いっきりむせる。
閉じられていた目が開き、その瞳が露になった。
まるで暗闇の中の猫獣人のような丸い瞳。虹彩の色は濃く、子どものように大きい。
流石にこの大きさで子どもということはないだろうが、何かの変異種だろうか。
周囲の隊員達もあまりに無防備なソレが気になるらしく、ジリジリと囲むサークルを狭めている。
そして完全にソレの目が開く。きょろりと周囲を見て、「あ、俺全然助かってないわ」と一言呟いて再度意識を消失させた。
◇ ◆ ◇
俺――相葉徹が再度目を覚ますと、そこは見知らぬテントの中だった。
室内にはランプが吊られており、炎が揺らいでいる。
狼やファンタジーなケモミミを認識した俺は、あのまま気を失ったらしい。
一体どれ程の時間が経っているのか……
ここ数日の激務に、ただでさえ体が悲鳴を上げていたのだ。
――休日? そんなもの幻だ。
「起きたか」
突如聞こえた声に、俺は寝心地の良いベッドから体を起こす。目の前にさっきのケモミミがいた。
――うん。よく見たらイケメンだな。いや、よく見なくてもイケメンだ。
頭の上に耳あるけど……
とりあえず状況把握に努める。なにせ、自分の記憶の中では俺は死んでいるはずなのだ。
「あの……ここは?」
「ここはバルド王国、近衛騎士団の訓練地だ。そして俺は近衛騎士団隊長のアイザック・ウォルフ。君は何者だ」
イケメンのケモミミ――アイザック隊長の目がスッと細められる。
金色に光る虹彩が警戒を表しているのが見て取れた。
慎重に対応しなければ……
「俺は徹。相葉徹と言います」
「ではトオル。君はどうやってこの森に入った?」
「……わかりません。車が……あの……死んだと思っていたら……気が付いたらここにいて……森で狼と貴方に囲まれていました」
俺の返事を聞いたアイザック隊長は、何かを考えるように顎に手を添えた。
「あの、アイザック隊長さん……?」
「何だ?」
「失礼ながら……俺は今まで、貴方のような獣の特徴を併せ持った外見の人を見たことがありません。この辺りでは……その……普通なのでしょうか?」
彼の目が見開かれる。
「普通……だな。この世界において獣の特性を持たぬ獣人はいない。お前のように耳が横に付いている猿の獣人もいるが、お前は獣人には必ずある鬣がない」
アイザック隊長の長い腕が伸びてきて、俺の短く整えた襟足から首筋をツツツと撫でた。爪が皮膚を掠り少しピリリと痛みが走る。
「お前は一体、何者だ?」
その反応に、俺は悟る。
――ああ。もう。これ確実に異世界だ。しかも人間がいないパターン。
けれど、言葉が通じ、人間が存在しないことは、ラッキーかもしれない。
人間が食糧になっている世界……とかだと二度目の死は近かったはずだ。
きっとこの人に見つけられたのも幸運だったのだろう。
「アイザック隊長さん。俺はおそらく、違う世界から来ました」
言い訳する理由も、演技をする技術もないため素直に打ち明ける。
「……そうか。まぁ、納得できる」
アイザック隊長は大きく頷いた。
自分でも信じられないことを随分と簡単に納得する彼に、俺は首を傾げる。すると、真剣な表情でアイザック隊長が口を開いた。
「お前からは嗅いだことのない匂いがする。火薬のようだが、違う……焦げたような、変な匂いだ」
そして隊長さんは、俺の汚れたスーツのジャケットの匂いを嗅いだ。俺は思わず身を引く。けれど、彼は俺の反応に構わず、匂いを嗅ぎ続けた。
「それに、少し花の香りに似た匂いもする」
「あー……あの。おそらく車の排気ガスの匂いだと。燃料を燃やして走る乗り物があって……。花の匂いは、洋服を洗う洗剤ですかね? すみません、今、汗臭くて……」
俺の答えに少し首を傾げる隊長さんが可愛い。ケモミミの癒し効果はイケメンでも有効だ。
「隊長さん。俺、死んだって思ってたんです。けど……生きているなら、これからはしっかりと生きていきたいんです」
思わず口をついて出た言葉に、自分の意思を自覚した。
――ああ、俺……生きたかったんだ……
日本とか地球とか、場所は関係なく、ずっと尊厳のある生活がしたかった。
「そうか……。それで?」
「俺、コッチの常識はないと思います……。けれど、自分のできることをして、生きている実感を持ちたい。だから、お願いします! 俺に生きていく手段を教えてください!」
思いきり頭を下げると、子どもを撫でるように頭に手を当てられる。
大きな手だ。とても安心できる、分厚い手。
「生きていく……か。戦闘系の獣人以外は、どこかの王に存在を認めてもらい、国に属さなければ話にならない。そこから特性に応じた職に就くことだな。――そして……俺達は三日後に王のもとへ帰る予定だ」
――つまり?
そろりと上げた視線が、優しそうな瞳とかち合う。
「連れていってやるから、それまでは俺達の隊の雑用をするといい」
「っ! 隊長さんっ!!」
俺は喜びと安心で思わず泣いてしまった。この涙はアイザック隊長と俺だけの秘密だ。
早くも俺は、こういう上司ならどこまでも付いていきたいと思っていた……切実に。
――俺は今、大学時代、留学していた友人が、外国での文化の違いを熱弁していたことを思い出していた。その時は、同じ人間が生活しているのだから言う程のものではないだろうと笑い飛ばしていたのだ。
そんな俺の前には、大きな干し肉と見るからに硬そうなパンが一つ置かれている。
全く笑えない。
そう、丸一日食事をとっていなかった俺の腹が盛大に空腹を訴えたことから、この事態は起きた。
ちょうど隊の皆さんも食事の時間だったらしく、アイザック隊長が食堂舎へ連れてきてくれたのだ。
「どうした? 食わないのか?」
正面から覗き込んでくる隊長の手元にも、同じく干し肉とパン。ナイフやフォークは見当たらない。
「隊長さん……申し訳ないんですが、これはどうやって食べたら良いですか?」
俺は恐る恐る尋ねた。
いや、なんとなく想像はできている。だって周りの獣人達は普通に食べているんだもの。
「どうした? 普通に歯で繊維を解しながら食えばいい」
そう言うと隊長は、さも柔らかなものを食べるかのように干し肉を噛む。
――ええ。俺にはそれができないんです!! 爪が当たってカチッて音が鳴るレベルの肉だよ、どうしろと……!?
しかし空腹が限界なのも事実。
俺はとりあえず肉を齧ってみることにした。
「むっ……はむっ……ググッ……! カリリッ!」
切れない。削れない。歯が立たないとはまさにこのこと。
微かに肉の出汁っぽいモノは味わえているが、それだけだ。
行儀が悪いとは思いつつも一旦肉を置き、パンにチャレンジする。
――ガチッ……
あ、ダメだ。こっちも歯が立たない。
しかも肉と違って旨みも少ないので労力のムダ。水分だけ持っていかれる状況だ。
俺が再度肉を掴もうとすると、スッと肉の上に手がかざされた。
何だろうと思い、手の持ち主を見遣る。すると、憐れな存在を見る顔でアイザック隊長がこちらを見ていた。
周囲からも視線を感じる。
見渡すと、皆一様になんとも言い難い顔だ。
中には目頭を押さえている獣人までいる。
「トオル……寄越せ」
隊長が俺の肉を掴む。
「え、隊長さん……俺それ食べたいです」
もしかして食べないんだと思われたのかと不安になった俺は、彼に声をかける。隊長は軽く頷き返してくれた。
「ああ、食わせてやるからちょっと待て」
肉を口元に持っていき、面白いようにスルスルと繊維を解いていく。
彼が、軽く噛んでは裂くという動作を続けること、数分。裂きイカのように解された肉の山が、手元に戻ってきた。
他人の口で処理されたことは気になるが、隊長さんが俺のためにしてくれたのだ。それを嫌がるのは失礼だろう。
それに空腹だから、正直気にしている余裕がない。
「ありがとうございます隊長さん!」
俺は、その肉を頬張る。
細かくなった肉は先程と違い、程良い弾力で、口の中に肉の味が一気に広がった。
美味しい。素材のポテンシャルが高いのか、味付けが良いのか、飽きずにずっと食べていられる。
思わず笑顔になって食べ進めていると、横から何やら温かいモノが差し出された。
「パンのミルク粥です」
いつの間にかパンは下げられていたようだ。そして気を使って、これを調理してくれていたらしい。
「ありがとうございます。えっと……?」
粥を作ってくれた獣人の名前がわからず隊長に視線を投げると、察してくれたのか彼はすぐに紹介してくれた。
「ああ、ソイツは狼犬の獣人でルードという。若手だが頼りになる奴だ。ルード、トオルはわけあって我々の生活に馴染みがない。気にかけてやってくれ」
「承知しました、アイザック隊長」
姿勢を正して去ろうとするルードに、俺はもう一度声をかける。
「ルード……さん。ありがとうございます」
「いいえ。トオル、私は一隊員であり、敬われる立場ではありません。敬称や敬語は使わないでください」
「え? ああ。うん。わかったよ、ルード」
話すことはもうないとばかりに素早く去っていく姿に、嫌われたのかと不安を覚えた。ただ隣の隊長は彼の態度について特に気にしていないようだ。
とりあえず俺は食事に集中した。
パン粥はミルクの優しい味がする。
俺は、肉と粥ですっかり満腹だ。
食事を終えると、アイザック隊長に話しかけられた。
「トオル。その服の匂いはいささか獣人の鼻にはキツイ。すまないが我々の服に着替えてほしい。それと、血の匂いがする。酷い怪我ではないようだが、俺の天蓋で体を拭いてから治療をしよう。その後で服を変えればいい」
「わかりました。すみません、服までお借りすることになって……」
「いや、こちらの都合だしな。予備の作業服は溜まっていく一方だったから気にするな」
そう言うと隊長が席を立つ。俺も彼に付いていく。
その時の俺は、更に異文化の壁を感じる事態がそこで待っていようとは、欠片も想像していなかった。
テントへ戻ると、入り口の前に水瓶三本とタライが一つ、そして数種類の服が置いてあった。
隊員の誰かが持ってきてくれたのだろう。それにしても対応が素早い。
訓練された組織とはこういうものなのか、と自分の働いていた会社と比べ、つい感心してしまう。
それらの荷物を持ち、アイザック隊長がテントの中へ入った。俺もそれに続く。
さっきは気が付かなかったが、存外広いテントにはカーテンで仕切られた場所が数箇所存在した。その中の一つに、簡易な洗い場のような場所がある。
「ここで、まずは汚れを落とせ。傷は痛むだろうが、しっかりと洗い流しておかないと後が怖いからな。髪はそこに置いてある緑のオイルを揉み込んで、それを流せばいい。終わったら……この黒いのが下着だ。これを着て出てこい。ベッドで手当てをする」
渡された体を洗う用のタオルは、やや固めの麻布のような手触りだ。これで傷口を洗ったら確かに痛いだろうと予測できる。
俺がタオルを受け取ったのを確認すると、隊長はすぐにカーテンを閉めてその場を離れた。
俺は鏡を前に服を脱ぎ、衣服を入れるようにと渡された麻袋に詰める。
どうせこのスーツはもう着られない程に傷んでいる。多少手荒く扱っても気にならない。
服を脱いで鏡で確認すると、そこに映る肌に大きな傷はないようだった。
酷い痛みがないことで多少予想はしていたが、実際目にすると不思議だ。
見たところ、擦り傷が数箇所あるだけ。脇腹と背中、太腿……見事に服に隠れていた部分だな。
血が若干滲んではいるが、熱を持ったり腫れていたりということはない。
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