蛇飼の魔女

葉月+(まいかぜ)

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蛇足

爛れた幸福

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 なんて男に目を付けられてしまったんだろう。
 目を覚ますなり、泥のように重い体を自覚して頭を抱える。
 合意の上だった。
 それは間違いない。
 けれど限度というものがある。
 同じ魔族だと思って好き放題しやがって。
 どう考えても今は憎らしい男の顔を押しやるよう隙間なく合わさった体を引き剥がし、腰へと回る腕から逃れようともがく。

「まだはえーよ…」

 ヨシュアはぐずる子供のように唸った。
 この際、抱き枕扱いも許容できる。
 女扱いされるよかマシ。
 そんな事後。
 無駄とは知りつつ続ける抵抗の中で一糸まとわぬ体に覚えのない変化を認め、左手の甲へと目が釘付けられる。
 体中に散った鬱血とは別に、見逃すことのできない「所有印」が刻まれていた。

「ちょっと…」
「んー…」
「ヨシュア!」

 寝るんじゃない。
 起きろ。
 肩を掴みぐらぐら揺するだけでは埒が明かないと、しまいには適当な伸び方をした黒髪をひっ掴み、痛みに歪んだ容貌へと暴挙の理由を突きつける。

「こんなの聞いてない!」

 左手の甲。
 本来なら傷一つ、シミ一つなく、ろくに日焼けさえしていないはずの白い肌。
 そこに、今は誰かさんの目のよう青い模様が浮かび上がっている。
 それが「何」かは、知っていた。

「…嫌なわけ?」

 己の尾を噛む蛇。
 ウロボロス。
 いかにも「らしい」形状や、百歩譲ってそれがそこにあることは良しとするとして。
 それでも、だ。

「無断で契約印(レージング)刻むとか聞いたことない…!」
「…そうか?」

 ようやく体を半分起こせたところ。
 往生際悪くしがみついて離れないヨシュアは片肘ついて伸び上がり、背中側から掴んだ肩を引いてシシィの努力を踏みにじる。

「こういう時のためのものだろ、むしろ」

 いよいよ目を覚まし、乗り上がってきた男が重い。

「俺以外の男がお前に触ると弾けるから、気をつけろよ」
「なんつーものを…!」
「お前が俺のものになって、俺がお前のものにならないのはいかにも不公正だろう?」

 そんな律儀さを必要としてはいなかった。
 むしろ飽きたら捨てる、遊び半分くらいの関係がちょうどいい。
 気安く傍にいられる。
 気楽に、無責任な関係を楽しめた。
 |契約印なんて(こんな)ものを刻まれてはいよいよ逃げ道というものがない。

「本気なの」
「冗談言ったつもりはないけどな」
「だって、レージングよ? 奴隷印ならまだしも契約印なんて…」
「…別に、お前に同じものは求めちゃいない。どうせどうにもできないんだ。諦めてつけとけよ」

 投げ出していた左手を拾い、その甲に刻まれた契約印(レージング)へと唇を触れさせ、魔力を注ぐ。
 たったそれだけのことで体は熱を持った。
 たったそれだけのことで熱を持つのが、契約印を刻まれた契約者の体というものだ。

「ヨシュア…」
「ん?」

 やめて。
 それとも、「もっと」?
 何を言おうとしたのかさえ、あっという間にわからなくなってしまうほどの魔力を注がれ、体からはくたりと力が抜ける。
 舌さえ回らなくなって、どうにもならない体をヨシュアは機嫌良く抱え込んだ。
 抱き枕にされる。
 体内で混ざり合う魔力が恐ろしく馴染み、それが心地良くて仕方ないのも、契約印を刻まれたせいだ。
 《マナ》を傷付け、存在を損ない、魂を繋がれた。
 けれどそれは、印を施したヨシュアにも言えること。
 ヨシュアの《マナ》もまた傷付き、その存在は損なわれ、魂を繋がれている。
 取り返しのつかない契約だ。

「お前だけだって言ったろ」

 望まれることを「恐ろしい」と感じたのは初めて。










「ジーザス! お前もか、蛇息子!」

 前触れも、先触れもなく突如として部屋に現れた不躾な男の第一声が、それ。
 シシィ共々、怠惰な午睡に浸っていたヨシュアは目を覚まし、何を考えるよりまず上掛けをひっ掴んでシシィの体を覆い隠した。
 それからようやく体を起こし、腹の底から湧き上がる殺意を抑えようともせずに、唸る。

「何しにきやがった…」

 寝台の足元に立つ男は、それでも涼しい顔。
 白い肌に銀の髪。
 一目見て巨人と知れる、藍色の目をした男だ。

「久々に体動かせるようになったからかわいい息子の顔を見に」
「帰れ」
「いやそれがさー、ロキに下克上されちゃって。僕もう《王》に戻れないんだよね」
「失せろ」
「…冷たくない?」
「去(い)ね」

 本人の言い分を鵜呑みにするなら、間抜けな巨人の元《王》。
 そして、正真正銘ヨシュアの父親でもある男。
 つまり、いい年こいた大人だ。なにせヨシュアでさえ、現在の暦が四桁へ届くがどうかという頃には自我を持っていた。大陸に「人」という種が生まれるより以前からその存在を認められているような化け物相手に、いったい何を心配してやることがあるものか。
 子供(ヨシュア)はとうに親離れした。
 ならば、親(ロキ)もとっとと子離れするべきだ。
 そういう考え。
 ロキがロキであることを思えば親子である事実さえ否定してしまいたいくらいだが、さすがにそこまで薄情にもなれない。
 返して言えば、親子関係を認めることがロキに対して示すことのできる情として精一杯のところだ。
 それ以上は無理。
 むしろ顔も見たくない。

「ん…」

 ほらみろ。
 騒がしくしたからシシィが起きた。
 お前のせいだ。

 そういう睥睨。
 ロキは堪(こた)えた風もなく、飄々と肩を竦めて身を乗り出す。

「ヨシュ…?」
「潜ってろ」
「むぅ…」

 よりにもよって「ロキ」へわざわざ恋人を見せびらかすようなことをするはずもなく、ヨシュアはシシィを沈め、真新しい契約印へと魔力を注いだ。
 そうしておけば、ロキとてそう気安くちょっかいはかけられない。
 シシィの動きも抑えられて一石二鳥。

「お前には関係ないかもしれないけどさぁ…ロキが人のなりそこないみたいな子供に契約印刻んだ挙句《印》の眼までやっちゃって、《マナ》を並列化してる僕たちモロに影響くらっちゃったんだよね。そのせいで《王》に戻れなくなるわ、お姫さまのことが愛おしくてたまらないわでもう大変…。
 だからお前のことも取り込んで巻き添えにしてやろうかとわざわざ出張ってきたんだけど――」
「ざけんな」
「うん。その様子だと効果薄そうだからやめとく。
 フェンリルがスカジとくっついたのは知ってたんだけどなぁ…お前いつ契約なんてしたわけ?」
「…昨夜」
「うっわ、最悪。ここのところ僕なんでこんなついてないの」

 心当たりなら商売ができるほどあるだろうに、白々しいロキを睨みつけたまま、早くどっか行ってくれないだろうかとヨシュアは考える。
 何が哀しくてこの、契約を交わしてから日も浅く、混ぜ合った《マナ》と存在が落ち着くまでの気怠くも幸福な時間に、血の繋がりがあるとはいえシシィ以外――それも、この世で最もどうでもいい部類の男――の相手をしていなければならないのか。

「ヘルの所にでも行けよ」
「顔くらい見せなよ」
「断る。減る」
「…お前までロキみたいなこと言い出す始末だ。世も末だね」
「それ、結局はあんたの性質(たち)だろ」
「はっはっはー。…そんなわけないだろ」
(どうだか…)

 いい加減、押さえた上掛けの下でじたばたしているシシィに構いたくて。
 ヨシュアは殊更鬱陶しいものでも見るような目をロキへと向け、視線で「失せろ」と訴えた。
 それが通じたのか、はたまたそういう気分だったのか、なんにしろロキは「ちぇっ」と拗ねた子供のように零し、現れた時と同様、何の痕跡も残すことなく姿を掻き消す。
 ヨシュアはその魔力が室内どころか、船のどこにも残っていないことを念入りに確かめてから、ようやくシシィを開放した。
 跳ね上げられた上掛けで改めて裸の体を包み、よっこらせ…と抱き寄せる。

「誰と話してたの…?」
「疫病神」
「…商人が?」
「疫病神は不味いか…」

 幸い、契約の余韻は未だ続いていた。
 心地よさに酔うようシシィへすり寄れば、ロキのことなど簡単にヨシュアの頭からは吹き飛ぶ。

「ヘルとかロキとか聞こえたけど」
「……さっき来てたのがロキで、ロキがロキと呼ぶのはヨトゥンヘイムのウトガルド・ロキで、ヘルはヘル」
「|死者の国(ヘルヘイム)の?」
「そ」
「ロキ、って…あのロキ?」
「ヨトゥンヘイム生まれの巨人で神の《王》オーディンと義兄弟の契りを交わしたロキがそう何人もいるなら、どのロキかはちょっと答えられないな」

 あんなものが何人もいてはたまらない。
 そう思いながらもからかうように言って、ヨシュアはそれ以上の質問を封じるため、シシィの唇をそっと塞いだ。
 優しく、戯れじみて、他愛なく、子供のように。
 ただ触れるだけの口付け。
 それが控えめでいて、ヨシュアからすると精一杯穏便な「黙れ」のサインだと、シシィでも気付く。
 だから大人しく口を噤んで、ついでに目も閉じた。

「それでも、やっぱりあの男は疫病神だ」

 静かな眠りが欲しければ、時として好奇心を絞め殺す必要も、ある。




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