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RE117 A.A.7525/08/31
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ちりん、ちりん、とありもしない鈴の音がして。
昨日の自分が設定しておいたアラームの時間ぴったりに、伊月は目を覚ました。
いまひとつすっきりとしない目覚め。
もう少し寝ていたいような、そうでもないような。――自分でもよくわからない、どっちつかずの気持ちを抱えて。なにはともあれ、伊月はベッドの上を這うよう手を伸ばし、余剰魔力の縁に張り付いていたダイアログを叩くことで、控えめに鳴り続けていたアラームを黙らせる。
そこで力尽き、シーツの上にぱたりと落ちた手は、伊月の背中にぴったりと張り付いて様子を窺っていたキリエが、引きずり込むよう上掛けの中へと回収した。
(今日は起きてる)
キリエのそういうところが、伊月は案外嫌いではない。
徒人の考えることなどわからない、そんなものわかりたくもないと開き直って自分勝手に振る舞うような(討滅士という前世の職業柄、伊月が関わり慣れている)長命種と比べてしまえば、どちらが「長命種に伴侶として見初められた徒人」にとって都合が良く、付き合いやすい相手か。――そんなことは、改めて考えるまでもなかった。
「まだ眠そうだよ」
ただでさえ、二人分の体温でぬくまったベッドが伊月を離さないのに。双子に年格好を合わせた少年姿から、いつの間にか元の青年姿に戻っているキリエの手の平で目元を覆われ、視界に影が落ちると、伊月はすぐにでも意識を飛ばしてしまいそうになる。
「おきる……」
そのまますこん、と意識が落ちてしまえば諦めもついたのに。そうはならなかったから、伊月は目元に被せられた手の下で緩く頭を振って、それを拒否した。
横向きに抱えられていた体を、キリエから引き剥がすよう俯せにして。腕の力で持ち上げた体は、妙に気怠い。
ベッドの上に座り込んだ伊月が、体を支える腕さえ放せず、なかなか動き出せないでいると――
「魔力が足りなかったかな」
おもむろに、肘を突いて伸び上がってきたキリエが伊月に口付ける。
お伺いを立てるような、触れるだけの唇が離れても伊月が動かずにいると。本格的に体を起こしたキリエは伊月の腰を抱き寄せて、膝に乗せた幼子へ覆い被さった。
「ん……」
魔力を分け与えるついでというより、口の中を舐めるついでに魔力を分けられて。唾液とともに飲み下した魔力が、伊月自身の魔力に混ざる。
「――どう? 少しは良くなった?」
そんなことをしてなんの問題もないどころか、伊月の体調に好影響さえ与えられるのだから。吸血鬼という種はつくづく、伴侶となる徒人にとって都合良く造られていた。
「ちょっと怠かっただけ」
「うん」
「誰かさんが遅くまで付き合わせるから」
「ごめんね?」
回された腕の中で、抱きかかえられた伊月が大人しくしているのをいいことに、人懐っこい猫が甘えつくよう擦り寄ってきたキリエ。
放っておけばいつまでもそうしているのだろう、どうしようもない吸血鬼を押しやって、伊月は素直に緩んだ腕から抜け出す。
「伊月、まって」
そのままベッドからも下りてしまおうとする伊月を、控えめに腕を引いたキリエが引き止める。
「おはよう」
とってつけたような挨拶とともに押しつけられた唇は、伊月がろくでもない悪戯心を働かせる前に、さっさと離れていった。
「――おはよう」
◇ ◇ ◇
クローゼットの前で脱ぎ落とした寝間着が、ふわりと解けて魔素へと還る。
「そっちを着るの?」
あからさまでこそないが、伊月に「気付いて欲しい」という意図が透けて見えるほどにはわかりやすい不満顔で距離を詰めてくるキリエ。
隙あらば抱きついてこようとする、今の自分と同じような背格好の少年をぞんざいに押しやって。肌着一枚という心許ない格好の伊月は、クローゼットに吊るされている服の中から適当に、目に付いたものを手に取った。
「常識的に考えて、活性状態の……『服のように取り繕った魔力』しか身に着けないで外を出歩くのって、色々とまずいでしょ」
「私が、お前の服をうっかり定義破綻させるとでも?」
「そうは思わないけど――」
たとえ、その自負に足る能力を持ち合わせているのだとしても。この状況でごねるキリエは伊月の目に、自分の〔花嫁〕を裸同然の格好(なにしろ伊月個人の主観で、「服のように取り繕った魔力」は「高密度の余剰魔力」と大差が無い)で出歩かせようとする変態趣味の長命種としか映らない。
「前を開かないなら、裸にコート一枚で出かけてもいいって?」
どのみち、伊月がこうと決めたなら、キリエには精々、伊月の機嫌を損ねない程度にごねるくらいのことしかできなくて。
伊月の手から「まともな服」を取り上げ、自前の魔力で強引に飾り立てるようなことができるはずもないキリエは結局、不承不承の体で(これだけは譲れない、とばかりに)伊月が着替えるのを手伝った。
「靴擦れしたら嫌だし、靴下くらいはキリエのお手製でもいいわよ」
思っていたよりも諦めの早かったキリエに、伊月が譲歩とも呼べないような提案をすると。
伊月の髪を甲斐甲斐しく梳っていたキリエはぱっ、と表情を輝かせ。間髪入れず、床に広がる濃色の影から這い出してきた魔力が、伊月の爪先から太腿にかけてを覆って柔らかく物質化する。
「靴は?」
「……まぁ、いいんじゃない?」
ブラウスに袖を通し、スカートを穿いた時点でだいぶ寛容な気持ちになっていた伊月が、それくらいは誤差の範囲だろうと考えているうち。言質を取ったキリエの魔力は、伊月に翻意の余地を残さない速さで物質化した。
出来上がったパンプスに合わせて、無地だった靴下に模様が入る。
薔薇の蔓を模した模様が靴下の範囲を超えてスカートに及ぼうとするのを、伊月は埃でも払うよう叩き落とした。
(脱ぐ頃にはキリエの魔力に置き換わってそう……)
余剰魔力どころか体内魔力にまでキリエの魔力が混ざっている伊月は、他と比べて「キリエの魔力」に対する感覚が鈍い。
べったり纏わり付かれても気にならないほど馴染んでいる魔力を、魔術師としての技量で勝るキリエが「気付かれないように」と意識して忍ばせるなら。正直なところ、伊月は自分が身に着けている服の構成要素がいつの間にかすっかり置き換えられていたとしても、気付ける自信はなかった。
(まぁ、いいか)
うっかり十年ほど放置してしまった吸血鬼に対するアフターケア。これもその一環だ、と――。
たった一言、キリエに釘を刺せばそれで済む話を、伊月はあえて放置する。
「まだ終わらないの?」
「もうちょっと」
柔らかく足先を包んだパンプス。
靴下と同じ、注視していなければわからないほどゆっくりと動き続けている落ち着きのない模様を眺めて。髪のセットが終わるのを待っていた伊月はふと顔を上げ、開きっぱなしのクローゼットに備え付けられた鏡越し、過剰に取り込んだ魔力の捌け口として長さを増した幼子の髪を機嫌良く弄っているキリエを見遣る。
「扶桑なら、キリエにも私とお揃いの服とか用意してるんじゃない?」
「――そうかも」
櫛以外の道具は使わず(その代わり、有り余った魔力と災厄級認定相応の演算能力は無駄に注ぎ込んで)纏め上げた髪から、セットを始めて以来初めてと言っていいほど完全に手を放し、鏡越しの伊月と目を合わせたキリエ。
その顔には、わかりやすく「そんなことは考えてもみなかった」と書かれていた。
◇ ◇ ◇
伊月の部屋に入り浸って、自分の分の荷解きをまだ済ませていないというキリエとは、寮部屋を出てすぐのところで一旦別れて。
明かり取りの窓が床から天井近くまで切られている廊下を横切った伊月は、中庭側に迫り出すよう作られているLDK――寮の部屋割りを元に決められた「班」ごとに用意されている、共用設備の一つ――の出入り口で足を止め、扉のない開口部から部屋の中を覗き込んだ。
「おはよう――」
寮生の個室と比べて倍ほどの広さがあるLDKには、先客が一人。
パーティションのない、開放的なキッチンスペースで立ち働いていた奈月――伊月がキリエに預けている〔傀儡廻し〕用の傀儡――が、わざわざ手を止めて体ごと伊月を振り返る。
「おはよう」
伊月が〔傀儡廻し〕を起動していない、傀儡としての奈月が暇をしている間、その体を好きに使っているのはキリエなので。実のところ二度目になる挨拶を、元々傀儡一体一体に人格があるかのよう振る舞わせる癖のある伊月が不自然に感じる道理はなかった。
細かい話をすれば、奈月と更夜にはそれぞれ完全に別個の(伊月の手で、大本の魔力炉から取り分けられた)魔力炉が入っているのだから、なおのこと。
「すぐ食べられる?」
「テーブルに出したらね」
奈月の返答に、伊月は足を止めていた出入り口から廊下の向こうを振り返る。
「(鏡夜、ごはんー)」
少し前から目が覚めている気配のあった鏡夜はそれほど時間をかけず、伊月に割り当てられた個室の、すぐ隣の部屋から顔を覗かせた。
「――おはよう」
昨日の自分が設定しておいたアラームの時間ぴったりに、伊月は目を覚ました。
いまひとつすっきりとしない目覚め。
もう少し寝ていたいような、そうでもないような。――自分でもよくわからない、どっちつかずの気持ちを抱えて。なにはともあれ、伊月はベッドの上を這うよう手を伸ばし、余剰魔力の縁に張り付いていたダイアログを叩くことで、控えめに鳴り続けていたアラームを黙らせる。
そこで力尽き、シーツの上にぱたりと落ちた手は、伊月の背中にぴったりと張り付いて様子を窺っていたキリエが、引きずり込むよう上掛けの中へと回収した。
(今日は起きてる)
キリエのそういうところが、伊月は案外嫌いではない。
徒人の考えることなどわからない、そんなものわかりたくもないと開き直って自分勝手に振る舞うような(討滅士という前世の職業柄、伊月が関わり慣れている)長命種と比べてしまえば、どちらが「長命種に伴侶として見初められた徒人」にとって都合が良く、付き合いやすい相手か。――そんなことは、改めて考えるまでもなかった。
「まだ眠そうだよ」
ただでさえ、二人分の体温でぬくまったベッドが伊月を離さないのに。双子に年格好を合わせた少年姿から、いつの間にか元の青年姿に戻っているキリエの手の平で目元を覆われ、視界に影が落ちると、伊月はすぐにでも意識を飛ばしてしまいそうになる。
「おきる……」
そのまますこん、と意識が落ちてしまえば諦めもついたのに。そうはならなかったから、伊月は目元に被せられた手の下で緩く頭を振って、それを拒否した。
横向きに抱えられていた体を、キリエから引き剥がすよう俯せにして。腕の力で持ち上げた体は、妙に気怠い。
ベッドの上に座り込んだ伊月が、体を支える腕さえ放せず、なかなか動き出せないでいると――
「魔力が足りなかったかな」
おもむろに、肘を突いて伸び上がってきたキリエが伊月に口付ける。
お伺いを立てるような、触れるだけの唇が離れても伊月が動かずにいると。本格的に体を起こしたキリエは伊月の腰を抱き寄せて、膝に乗せた幼子へ覆い被さった。
「ん……」
魔力を分け与えるついでというより、口の中を舐めるついでに魔力を分けられて。唾液とともに飲み下した魔力が、伊月自身の魔力に混ざる。
「――どう? 少しは良くなった?」
そんなことをしてなんの問題もないどころか、伊月の体調に好影響さえ与えられるのだから。吸血鬼という種はつくづく、伴侶となる徒人にとって都合良く造られていた。
「ちょっと怠かっただけ」
「うん」
「誰かさんが遅くまで付き合わせるから」
「ごめんね?」
回された腕の中で、抱きかかえられた伊月が大人しくしているのをいいことに、人懐っこい猫が甘えつくよう擦り寄ってきたキリエ。
放っておけばいつまでもそうしているのだろう、どうしようもない吸血鬼を押しやって、伊月は素直に緩んだ腕から抜け出す。
「伊月、まって」
そのままベッドからも下りてしまおうとする伊月を、控えめに腕を引いたキリエが引き止める。
「おはよう」
とってつけたような挨拶とともに押しつけられた唇は、伊月がろくでもない悪戯心を働かせる前に、さっさと離れていった。
「――おはよう」
◇ ◇ ◇
クローゼットの前で脱ぎ落とした寝間着が、ふわりと解けて魔素へと還る。
「そっちを着るの?」
あからさまでこそないが、伊月に「気付いて欲しい」という意図が透けて見えるほどにはわかりやすい不満顔で距離を詰めてくるキリエ。
隙あらば抱きついてこようとする、今の自分と同じような背格好の少年をぞんざいに押しやって。肌着一枚という心許ない格好の伊月は、クローゼットに吊るされている服の中から適当に、目に付いたものを手に取った。
「常識的に考えて、活性状態の……『服のように取り繕った魔力』しか身に着けないで外を出歩くのって、色々とまずいでしょ」
「私が、お前の服をうっかり定義破綻させるとでも?」
「そうは思わないけど――」
たとえ、その自負に足る能力を持ち合わせているのだとしても。この状況でごねるキリエは伊月の目に、自分の〔花嫁〕を裸同然の格好(なにしろ伊月個人の主観で、「服のように取り繕った魔力」は「高密度の余剰魔力」と大差が無い)で出歩かせようとする変態趣味の長命種としか映らない。
「前を開かないなら、裸にコート一枚で出かけてもいいって?」
どのみち、伊月がこうと決めたなら、キリエには精々、伊月の機嫌を損ねない程度にごねるくらいのことしかできなくて。
伊月の手から「まともな服」を取り上げ、自前の魔力で強引に飾り立てるようなことができるはずもないキリエは結局、不承不承の体で(これだけは譲れない、とばかりに)伊月が着替えるのを手伝った。
「靴擦れしたら嫌だし、靴下くらいはキリエのお手製でもいいわよ」
思っていたよりも諦めの早かったキリエに、伊月が譲歩とも呼べないような提案をすると。
伊月の髪を甲斐甲斐しく梳っていたキリエはぱっ、と表情を輝かせ。間髪入れず、床に広がる濃色の影から這い出してきた魔力が、伊月の爪先から太腿にかけてを覆って柔らかく物質化する。
「靴は?」
「……まぁ、いいんじゃない?」
ブラウスに袖を通し、スカートを穿いた時点でだいぶ寛容な気持ちになっていた伊月が、それくらいは誤差の範囲だろうと考えているうち。言質を取ったキリエの魔力は、伊月に翻意の余地を残さない速さで物質化した。
出来上がったパンプスに合わせて、無地だった靴下に模様が入る。
薔薇の蔓を模した模様が靴下の範囲を超えてスカートに及ぼうとするのを、伊月は埃でも払うよう叩き落とした。
(脱ぐ頃にはキリエの魔力に置き換わってそう……)
余剰魔力どころか体内魔力にまでキリエの魔力が混ざっている伊月は、他と比べて「キリエの魔力」に対する感覚が鈍い。
べったり纏わり付かれても気にならないほど馴染んでいる魔力を、魔術師としての技量で勝るキリエが「気付かれないように」と意識して忍ばせるなら。正直なところ、伊月は自分が身に着けている服の構成要素がいつの間にかすっかり置き換えられていたとしても、気付ける自信はなかった。
(まぁ、いいか)
うっかり十年ほど放置してしまった吸血鬼に対するアフターケア。これもその一環だ、と――。
たった一言、キリエに釘を刺せばそれで済む話を、伊月はあえて放置する。
「まだ終わらないの?」
「もうちょっと」
柔らかく足先を包んだパンプス。
靴下と同じ、注視していなければわからないほどゆっくりと動き続けている落ち着きのない模様を眺めて。髪のセットが終わるのを待っていた伊月はふと顔を上げ、開きっぱなしのクローゼットに備え付けられた鏡越し、過剰に取り込んだ魔力の捌け口として長さを増した幼子の髪を機嫌良く弄っているキリエを見遣る。
「扶桑なら、キリエにも私とお揃いの服とか用意してるんじゃない?」
「――そうかも」
櫛以外の道具は使わず(その代わり、有り余った魔力と災厄級認定相応の演算能力は無駄に注ぎ込んで)纏め上げた髪から、セットを始めて以来初めてと言っていいほど完全に手を放し、鏡越しの伊月と目を合わせたキリエ。
その顔には、わかりやすく「そんなことは考えてもみなかった」と書かれていた。
◇ ◇ ◇
伊月の部屋に入り浸って、自分の分の荷解きをまだ済ませていないというキリエとは、寮部屋を出てすぐのところで一旦別れて。
明かり取りの窓が床から天井近くまで切られている廊下を横切った伊月は、中庭側に迫り出すよう作られているLDK――寮の部屋割りを元に決められた「班」ごとに用意されている、共用設備の一つ――の出入り口で足を止め、扉のない開口部から部屋の中を覗き込んだ。
「おはよう――」
寮生の個室と比べて倍ほどの広さがあるLDKには、先客が一人。
パーティションのない、開放的なキッチンスペースで立ち働いていた奈月――伊月がキリエに預けている〔傀儡廻し〕用の傀儡――が、わざわざ手を止めて体ごと伊月を振り返る。
「おはよう」
伊月が〔傀儡廻し〕を起動していない、傀儡としての奈月が暇をしている間、その体を好きに使っているのはキリエなので。実のところ二度目になる挨拶を、元々傀儡一体一体に人格があるかのよう振る舞わせる癖のある伊月が不自然に感じる道理はなかった。
細かい話をすれば、奈月と更夜にはそれぞれ完全に別個の(伊月の手で、大本の魔力炉から取り分けられた)魔力炉が入っているのだから、なおのこと。
「すぐ食べられる?」
「テーブルに出したらね」
奈月の返答に、伊月は足を止めていた出入り口から廊下の向こうを振り返る。
「(鏡夜、ごはんー)」
少し前から目が覚めている気配のあった鏡夜はそれほど時間をかけず、伊月に割り当てられた個室の、すぐ隣の部屋から顔を覗かせた。
「――おはよう」
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