名探偵一条湊の事件簿

Sora_Shirakawa

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白鷺館殺人奇譚

第24話【沈黙の部屋】

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 部屋の中央に敷かれたカーペットの縁に、舞は指をかけた。

 何気ない一枚の布にしか見えない。けれど、この部屋には他に何もない。デスクも、棚も、装飾も――あるべきものがすべて欠けていた。

 だからこそ、このカーペットが不自然だった。

(……めくれば、何かが分かるかもしれない)

 そう思い、ゆっくりと身を屈めた。

 その瞬間だった。

 背後に、ふわりと風が動いた。

 誰かが、立っている――。

 「……え?」

 振り返ろうとした。けれど、肩に触れた手がそれを止めた。

 それは驚くほど優しい手つきで、むしろ拒絶の意志を奪うように、静かに、舞の動きを封じた。

 「や、だっ……」

 声を上げかけた口元に、ふいに何かが押し当てられる。

 白い布のようなもの。そこから、甘く、どこか冷たい匂いが鼻に流れ込んだ。

 (なに……この匂い……)

 ぼんやりとした思考の中で、それだけを感じる。

 喉が熱い。頭の中に霞がかかったように、視界がぶれていく。

 「やめ……や、めて……っ」

 必死で振りほどこうとしたが、腕が動かない。膝が折れ、崩れ落ちる。

 最後に耳に届いたのは――。

 『だいじょうぶよ』

 その声が、誰のものだったかを、思い出す前に――舞の意識は闇に沈んだ。

 

 *

 

 再び目を開けたとき、部屋は静まり返っていた。

 どれほどの時間が経ったのか、分からない。

 けれど、すぐに違和感が襲いかかってくる。

 体が重い。息が、浅い。喉が焼けつくように乾いていた。

 (……何が……)

 立ち上がろうとした瞬間、視界の端に“それ”が映った。

 ――七輪。

 小さな火種が、赤く脈打っている。

 煙は目に見えない。けれど、部屋に漂う空気は明らかにおかしい。

 (これ……一酸化炭素? 私、ここに閉じ込められて……)

 呼吸がどんどん苦しくなる。空気が薄い。息ができない。

 立ち上がり、ふらつく体で窓へ駆け寄る。

 ……開かない。ガムテープで内側から貼られ、破れないよう補強されている。

 扉に駆け寄る。取っ手を回す――回らない。

「鍵が……外から……っ!」

 頭がくらくらする。視界の端が暗くなりかける中で、舞は扉に体当たりするように叩き始めた。

「――誰かっ! ここにいるの、お願い……!」

 こぶしが熱くなる。痛みはもう感じなかった。

「助けて……誰か、お願いっ!!」

 空気の薄い密室に、舞の声だけが響いていた。


 *


 時計がないため、正確な時間は分からない。だが、使用人室の空気に、目に見えない“沈黙”が長く垂れ込めていた。

 あれから、どれくらい経っただろうか――舞が「ちょっと確認してくる」と言って部屋を出てから。

 湊はずっと、その背中が脳裏から離れなかった。

 彼女が言っていたのは、北側。二階の収納あたり。

 ただの見落とし。そう言っていたけれど――。

「……戻ってこないな」

 誰よりも先に口を開いたのは赤坂だった。腕を組んだまま、落ち着きのない視線を扉に投げている。

「菊池のことよね?」

 柏原が低く問う。

「ここを出て、もう二十分は経ってる」

 白鳥が時計のない空間で正確にそれを言い当てたのは、彼なりの“冷静”だったのかもしれない。

 湊は立ち上がる。

「探しに行こう。何かあったのかもしれない」

「だな。さすがに、もう遅すぎる」

 赤坂も椅子を蹴るようにして立ち上がった。

「四人で手分けして回ろう。北側の収納、回廊、トイレ周り、それぞれの客室。可能性がある場所は一通り確認する」

「その判断には同意します」

 白鳥も立ち上がり、ジャケットの袖を整えながら頷いた。

 

 そのときだった。

「私も……ご一緒していいかしら?」

 柔らかな声が部屋を満たした。

 指宿涼夏が、静かに立ち上がっていた。

「舞さんのこと、私も心配で。ずっと気になってたの」

 一瞬、柏原がちらりと湊に目をやる。

 湊もまた、迷った。

 だが、決断するには時間が惜しかった。

「……分かった。じゃあ、五人で。回廊と北側は分担しよう」

「じゃあ、十分後に再集合でよろしいですかな?」

 白鳥が提案し、全員が頷く。

 

 そして――五人は使用人室を出て、闇の中へと散っていった。

 その直後、薄暗い廊下を歩く指宿の足取りだけが、ほかの誰よりも静かだった。

 まるで、これが“最初から決まっていた役割”であるかのように。
 
 「じゃあ、手分けして探しましょう」

 柏原が全体を見渡しながら指示を出す。2階は広く、探索するには役割分担が不可欠だった。

「回廊は広い。俺と柏原で西側、赤坂と白鳥で東側。涼夏、お前は――」

「私が北側を見てくるわ」

 すぐさま涼夏が名乗り出る。

「舞ちゃんが最後に向かったのは、そっちのはず。足跡のような痕跡もあったし、気になるの」

 その一言に、全員が頷いた。特に異を唱える者もなく、五人はそれぞれの方角へと歩き出した。

 *

 それからどれほど経っただろうか。湊は柏原と共に、古びた回廊の西側を丁寧に確認していた。

「……ここも異常はないな」

「そうね。けれど……」

 そのとき、突然、遠くから女性の声が響いた。

「――ちょっと! 誰か来て!」

 明らかに涼夏の声だった。

「涼夏……!?」

 湊と柏原が顔を見合わせる。赤坂と白鳥も音を聞きつけて走ってきた。

「今の、指宿さんの声だよな!?」

「北側からだ!」

「行くぞ!」

 四人は足音を鳴らしながら、一斉に北側の突き当たりへと駆け出した。

 北側の突き当たり、扉の前で、涼夏がこちらに気づいて振り返った。

「あ、皆さん……! ちょうどよかった。この部屋から、さっき音が聞こえたんです。でも、鍵がかかっているようで……中に入れなくて……」

 そう言いながら、涼夏は扉を軽くノックする。

 ――コン、コン。

 返事はない。ただ、扉の隙間から、何かが漏れ出しているような――。

「……なんだ? ドアの隙間から……煙……?」

 湊が顔をしかめて呟くと、白鳥が声を上げる。

「まさか火事、ですか?」

「こうしちゃいられねぇ! くそっ、開かねぇ!」

 赤坂が勢いよくノブをひねるが、扉はびくともしない。歯噛みし、体を沈めて助走をつけると――。

「下がってろ! 俺がやる!」

 赤坂が肩から突っ込むように扉に体当たりをかけた。重い音が響き、錠の周辺がギシリと軋む。

「もう一発、いくぞ!」

 二度目の突撃で、バキン、と扉の蝶番が悲鳴を上げ、ようやく扉が少しだけ開いた。

 その隙間から、白い煙がふわりと流れ出してくる。

「くっ……!」

「舞っ!」

 湊が叫びながら室内へと駆け込む。白く煙るその部屋の中で、仰向けに倒れた菊池舞が、床に横たわっていた。

 唇は紫色に染まり、胸の上下運動はあるものの極めて微弱。意識は完全に失われていた。

「窓を開けろ! 急げ!」

 白鳥が叫ぶ。赤坂が駆け寄るが――。

「ガムテープかよ……開かねぇ!」

 窓には内側から何重にもガムテープが貼られ、完全に封じられていた。

「離れて耳を塞いで!」

「あ?」

 一発、乾いた銃声が部屋に響き渡ったと思ったら、ガムテープに穴が空き、硝子が砕け散った。
 窓を覆っていたガムテープの向こうから、冷たい外気が流れ込んできた。

「これで換気できる。舞さんを早く!」

「あ、ああ」

 赤坂は舞を担いで部屋の外へ出た。
 部屋に残った湊と柏原、白鳥は、残る窓硝子を全て割って、空気を入れ換えた。
 
「……それにしても七輪か。まさか、こんな手を……」

 床に置かれた七輪の中には、なおも赤い火種が残っている。

「一酸化炭素中毒だ。密室で火を焚いて……窒息させようと……」

 湊の低い声が、場の空気を凍らせた。

 涼夏は蒼白な顔で口元を押さえ、舞の姿を呆然と見つめていた。

 使用人部屋に舞を運び込むと、理沙と沙耶、小田切が驚愕の表情を浮かべて立ち上がった。
 ベッドに横たわっていた高峰凜も、驚いたように身を起こしかけるが、足の痛みに顔をしかめてうめいた。

「舞さん!? なにが……」

「今は説明してる暇はねぇ! 柏原、頼む!」

 赤坂が息を切らしながら舞を凜の隣の簡易ベッドに横たえると、柏原はすぐにその体に向き直った。

「脈はあるけど浅い……呼吸も弱いし、唇が紫色に変色してる。一酸化炭素中毒の症状ね」

 そう呟くと、柏原はまず舞の衣服をゆるめて気道を確保。顎先を上げ、頭を少し後ろに倒す。
 そして次の瞬間、彼女は周囲を見回して、舞の体をそっと横向きにさせた。

「気道が塞がる危険がある。仰向けのままじゃ舌が落ち込むし、吐いたときに詰まる。回復体位にするわ」

 舞の上の足を曲げ、片腕を下に通して頭を支えるようにし、呼吸がしやすくなるよう横向きに固定する。

「これで、少しは安全な状態になるわ。とにかく、今は新鮮な空気を吸わせること。窓を開けて、換気を続けて」

 白鳥と理沙がすぐに頷き、部屋の窓を開放し始めた。

「なんでそこまで詳しいんだ?」

 赤坂が問うと、柏原は肩越しに小さく返した。

「警察学校で応急処置の訓練くらいは受けてるのよ」

 沙耶は舞のそばに膝をつき、手を握りしめる。

「舞さん……助かるんですよね……?」

「この場でできることはやったわ。あとは、どれだけ早く医療機関に繋げられるか」

 部屋の空気は凍りついたように静まり返っていたが、誰もが祈るように舞の呼吸の音に耳を澄ませていた。

 誰もが言葉を飲み込み、ただ見守っていた。

 柏原は舞の頬に手を添え、懐中電灯で瞳孔を確認する。わずかではあるが、光に対して反応が返ってきた。

「……大丈夫、反応がある。意識は、戻りかけてるわ」

 その言葉に、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

「ほ、ほんとか……!」

 赤坂が思わず声を上げる。

 舞のまぶたが、かすかに揺れた。微細な動きだったが、誰もがそれを見逃さなかった。

「……ん……」

 聞こえたのは、喉を震わせるような小さな吐息。意識はまだ朦朧としているようだったが、確かに彼女は生きている。生きて、ここにいる。

「舞さん……!」

 沙耶が思わず舞の手を握る。凛とした指先が、わずかにぴくりと反応を返した。

「よかった……っ、本当によかった……!」

 理沙が思わず胸を押さえる。息をついているのは彼女だけではない。小田切も、白鳥も、安堵の吐息を漏らしていた。

「まだ油断はできないけど……このまま回復してくれる可能性はある」

 柏原の冷静な声が、全員の耳に届く。

「しばらくはこのまま横向きにして、換気を続けましょう。脳に酸素が届けば、少しずつ意識もはっきりするはずよ」

 湊は部屋の隅にあった時計に目を向ける。時刻は、午前六時をまわっていた。

 夜は終わりを迎え、曇天ながらも、窓の外にはわずかな光が差し始めていた。

「……夜明け、か」

 そう呟いた湊の視線は、まだ安堵しきれない不穏な何かを捉えているようだった。

「でも……終わっていない」

 舞が助かったことで、命の灯は1つ救われた。しかし――。

「犯人は、まだこの館の中にいる」

 その事実だけは、何一つ変わっていなかった。
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