彼の選んだ情景

渡弥和志

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彼の選んだ情景

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 その村に、月を見上げる子どもがいた。

 山に囲まれているせいか、空はひどく近く、星も月も手を伸ばせば触れられそうに見える。

「おとーさん、あそこ、ふたつ、ひかってる」

 娘は縁側に腰かけたまま、空を指さして言った。
 男は手にしていた木皿を置き、隣に座る。

「双子の月だ。今夜は、よく見えるな」

「おっきいね」

「満ちてるからな」

「いつもならんでる。なかよし」

「そうだな」

 それだけの会話だったが、娘は満足そうに頷いた。

 空を見る時間が好きなのだ。昼間は畑を駆け回り、川で石を投げ、家に戻ればすぐ眠ってしまうくせに、夜だけは不思議と目をこすりながら空を見続ける。

 男は、そんな娘の横顔を見ながら、静かに息を吐いた。


 この村に来て、もう五年になる。
 剣を持つことも、命を奪うこともない生活に、ようやく体が慣れてきた頃だった。

 最初のうちは、夜になるたびに目が覚めた。
 物音に身構え、無意識に指が剣を探し、そこに何もないことに気づいて、ようやく息をつく。
 戦いを遠ざけた後の静けさに、体のほうが慣れていなかった。

 それでも、娘が隣で眠るようになってから、少しずつ変わった。
 小さな寝言を聞くたびに、剣を握ろうとするよりも先に、毛布を引き寄せるようになった。
 眠りを妨げないよう、足音を殺して歩くことを覚えた。

 守るということが、斬ることだけではないと、今さらのように知った。

 誰かを失わないために戦うのではなく、誰かと同じ朝を迎えるために、ただ生き延びる。
 それだけの理由で、今日まで歩いてきた。

 それが弱さなのか、逃げなのか、男には分からなかった。
 だが、娘の手の温もりを思い出すたび、この選択だけは、間違っていなかったと思えた。


「寒くないか」

「だいじょうぶ」

 そう言いながら、娘は男の上着の裾をつまんでいる。
 寒いのではなく、ただくっついていたいだけなのだと、男には分かっていた。

 少し前まで、こういう距離の取り方を、彼は知らなかった。
 誰かと並んで座る時間も、同じ空を見上げる意味も。
 それを教えたのは、この小さな手だ。

「おとーさん?」

「ああ、すまない」

 男は小さく首を振り、向き直る。

「そろそろ中に入ろう。夜風が冷える」

「えー、もうちょっと」

「また明日だ」

 娘は一瞬だけ唇を尖らせたが、すぐに立ち上がった。

「じゃあ、あしたもいっしょにみる?」

「ああ」

 その約束だけで、娘は満足したようだった。

 男はふと足を止めた。
 遠くの空を、もう一度だけ振り返る。

 かつて、自分の隣に立って、同じ空を見上げていた誰かの姿が、脳裏に浮かびかけて────すぐに、消えた。

 思い出すな、というつもりはなかった。
 だが、今は思い出す必要もない。

「おとーさん、はやく」

「今行く」

 娘の声に応じ、男は歩き出す。
 過去は背中に置いたまま。
 今、手を引いている小さな命だけを、確かに感じながら。



 その夜、雨が降った。
 山に弾かれた雨音が、屋根を叩き、土を打ち、村全体が静かなざわめきに包まれる。
 娘は布団の中で、何度か寝返りを打っていた。

「……怖いか?」

 男が声をかけると、闇の中で小さな頭が揺れた。

「ちがう。おとーさん……おはなしして」

「話?」

「まえの、ひと」

 男の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まる。

「……前の人?」

「うん。ときどき、ゆめにでてくるひと」

 娘は眠たそうな声で言った。

「しろいひと。やさしい」

 男は、返す言葉を探していた。
 だが、見つからなかった。

 白い。
 優しい。

 それだけで、胸の奥が、ひどく静かに軋んだ。

「……その人は、何をしてる」

「えっと……そばにいてくれる」

 それだけ言って、娘は再び目を閉じた。

 男は、雨音を聞きながら、天井を見つめる。

 そばにいてくれる。

 それは、かつて誰かが、自分にしてくれたことだ。

 何もできなくて、何も守れなくて。
 それでも、ただ隣に座ってくれた。
 言葉を交わさずとも、祈るように、ただ。

 男は、そっと拳を握った。

 守れなかった過去がある。
 取り戻せない選択がある。

 それでも今、自分の手の中には、確かな温もりがある。
 それを離す理由は、どこにもなかった。

「……すまない」

 誰に向けたのか分からない言葉が、闇に溶けた。



 翌朝、雨は上がり、村にはいつもの音が戻っていた。
 娘は何事もなかったように目を覚まし、外へ飛び出していく。

「きょうは、はれ!」

「そうだな」

 男は洗濯物を干しながら、娘の後ろ姿を見守った。

 走り方も、転び方も、笑い方も、何ひとつ覚えてはいない。
 しかしふとした仕草だけが、どうしようもなく、あの人を思い出させる。

 それを、奇跡だと思うか。
 それとも、ただの偶然だと思うか。

 男は、答えを選ばなかった。
 今ここにいる、この子が現実だ。
 それで、十分だった。



 昼過ぎ、村の広場が少しだけ騒がしくなった。

 泣き声だった。
 娘は真っ先に駆けていった。

「どうしたの?」

 転んで膝を擦りむいた幼い子が、地面に座り込んでいた。
 血は滲んでいるが、大した傷ではない。
 それでも泣いてしまうのは、子どもには当たり前だ。

「だいじょうぶ」

 娘はそう言って、しゃがみ込んだ。
 自分の服の裾を破り、ぎこちなく傷を押さえる。

「ほら、ぎゅってして」

 幼い手つきで、精一杯、誰かの真似をするように。

 泣き声が、少しずつ小さくなる。

 その光景を、男は少し離れた場所から見ていた。

 胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。

 同じ仕草を、かつて見たことがある。

 同じ声色で、同じように、誰かを安心させていた人を。
 記憶の中の姿と、今、目の前にある姿が、重なりかけて────

 男は、目を伏せた。

 違う。
 これは、別の命だ。
 似ているだけで、同じではない。
 そして、同じでなくていい。

 娘は、傷の手当てを終えると、ぱっと顔を上げて言った。

「ほら、もうないてない」

 幼い子は、こくこくと頷いた。
 それだけで、誇らしげに笑う。

 男は、ゆっくりと歩み寄り、娘の頭に手を置いた。

「……よくやった」

「えへへ」

 それだけで、娘は満足そうに笑った。
 かつて、自分が守れなかった人は────
 今、自分の手の中にいるわけじゃない。

 しかし。

 守ることのできる時間は、ここにある。
 失ったものの代わりではなく。
 続いていく、別の物語として。
 男は、そっと娘の手を取った。

「帰ろう」

「うん」

 二人は並んで、家路につく。
 夕暮れの空には、薄い月が浮かび始めていた。
 娘は足を止めて、それを見上げる。

「あのさ」

「どうした」

「ゆめのひとね……ときどき、わらってる」

「……そうか」

「でも、さいごは、いなくなる」

 男は、何も言えなかった。

「でもね」

 娘は、男の手をぎゅっと握る。

「いまは、おとーさんがいるから、へいき」

 胸の奥に、静かに、何かが落ちた。
 それは、痛みでも後悔でもなく────
 ようやく辿り着いた、受け入れに近い感情だった。

「……そうだな」

 月を見上げたまま、男は言う。

「それで、いい」

 過去は、もう戻らない。
 しかし、消えるわけでもない。

 思い出は、こうして、別の形で、生き続ける。
 名前も、顔も、語られなくても。

 それでも確かに、誰かの中に残り、誰かの歩みを支えている。
 それなら、それでいい。
 それが、あの人が願った世界なら。

 男は、静かに歩き出した。
 娘の小さな手を引いて。
 戦いのない、名もない村の、ありふれた夕暮れへ。

 それが、彼が選び続ける情景だった。






 ━━━━


お読みいただき、誠にありがとうございました。
もしお気に召しましたら、評価・ご感想などお待ちしております。

また、こちらは長編『ヘルドゥラの神々:漆黒の女王』のスピンオフでもあります。
世界観など気に入ってくださるようでしたら、ぜひ長編本編や、他の短編も覗いてみてくださいませ。
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