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14 わかってほしい男
父の書斎へ向かう廊下は静まり返っていた。
召使いたちは礼を取るが、その目が何となくいつもより伏せがちなのがわかる。
もう皆、何が起きたか知っているのだろう。
そう思うと首筋が熱くなった。
書斎の扉が開く。
父、ヴァンゼ侯爵は机の前に立っていた。
書類を広げたまま、椅子にも座っていない。
いつもなら人前でここまで露骨に怒りを見せる人ではないのに、今日は違った。
「入れ」
短い声に、カレルは喉の渇きを覚えながら部屋へ入った。
「ルーヴェン家から返答が来た」
その一言だけで、胸のあたりがひやりとした。
「……どう、だったのです」
父の目が氷のように冷たい。
「どうも何もない。婚約継続の余地なし、だ」
カレルは何も言えなかった。
わかっていたはずだ。エーディアは簡単に情に流される女ではない。
父伯爵も、国境の話を個人の恋慕で曲げる人ではない。
それでも、どこかで思っていたのだ。
ここまで大事になれば、むしろ向こうも穏便に収める方を選ぶのではないか。
自分一人が責められて終わるほど簡単には切れないのではないか、と。
「父上、ですが――」
「まだ“ですが”があるのか」
低い声が落ちてくる。
カレルの肩がびくりと震えた。
「僕だって、困っていたのです」
言ってから、それがひどく情けない言葉に聞こえた。
だが、もう止まらなかった。
「エーディアは賢い。だから、きちんと話せばわかってくれると……」
「わかってくれる?」
父の口元が歪む。
笑ったのではない。怒りを通り越して、呆れたのだ。
「お前は、自分が婚約を壊す側でありながら、なお“わかってもらう”つもりでいたのか」
「それは……」
「しかも、愛人を認めろとまで言ったそうだな」
カレルの顔から血の気が引いた。
やはりそこまで伝わっていた。
いや、当然だ。エーディアが隠すはずがない。
「父上、あれは」
「黙れ」
ぴしゃりと切られる。
「お前はまだわかっておらん。問題はお前が結婚を怖れていることでも、女相手にうまくいかぬことでもない」
「……」
「それを、自分一人では背負えぬまま、相手の家も娘も、国境の取り決めも、自分の都合のために使おうとしたことだ」
言葉が胸に刺さる。
だが半分しか入ってこない。
使おうとした、というのは違う。
そんなつもりではなかった。
自分だって苦しかったのだ。ただ少し、出口が欲しかっただけで。
そう思うのに、父の顔を見ていると、その言い訳を口にすることが妙に幼く思えてくる。
「お前はルーヴェン家の娘を、賢いから始末をつけてくれる相手だと思ったのだろう」
カレルは目を伏せる。
完全には否定できなかった。
――そうだ。
――エーディアなら泣きわめかない。理屈が通じる。
――感情を抑えて、何とか穏便な着地点を考えてくれる。
どこかでそう思っていた。
だがその瞬間、父の言葉の意味がようやく少しだけ形を持つ。
それは確かに、甘えだったのかもしれない。
「……しばらく王都へは出すなと、お前の母も言っている」
父が疲れたように額を押さえた。
「この家の中で頭を冷やせ。人前へ出れば、何を喋るかわからん」
「僕はそこまで」
「そこまでだ」
言い切られ、カレルは唇を噛んだ。
わかっていないのは、自分の方なのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
だが、どこまでがどう間違っているのかは、まだ霧の向こうにあるみたいに掴めない。
部屋を下がったあと、廊下の窓から見えた空は、重く曇ったままだった。
――エーディアは、もう戻らないと言ったのだろうか。
――それとも父伯爵が強く出ただけで、彼女自身はまだ少しは――
そこまで考えて、カレルは自分で自分に嫌気が差した。
――まだそんなことを思うのか。
けれど思ってしまう。
彼女は賢いのだから。
本当は、自分の苦しさも、少しはわかってくれているのではないかと。
そしてその考えのどこがいけないのか、彼にはまだ半分もわかっていなかった。
召使いたちは礼を取るが、その目が何となくいつもより伏せがちなのがわかる。
もう皆、何が起きたか知っているのだろう。
そう思うと首筋が熱くなった。
書斎の扉が開く。
父、ヴァンゼ侯爵は机の前に立っていた。
書類を広げたまま、椅子にも座っていない。
いつもなら人前でここまで露骨に怒りを見せる人ではないのに、今日は違った。
「入れ」
短い声に、カレルは喉の渇きを覚えながら部屋へ入った。
「ルーヴェン家から返答が来た」
その一言だけで、胸のあたりがひやりとした。
「……どう、だったのです」
父の目が氷のように冷たい。
「どうも何もない。婚約継続の余地なし、だ」
カレルは何も言えなかった。
わかっていたはずだ。エーディアは簡単に情に流される女ではない。
父伯爵も、国境の話を個人の恋慕で曲げる人ではない。
それでも、どこかで思っていたのだ。
ここまで大事になれば、むしろ向こうも穏便に収める方を選ぶのではないか。
自分一人が責められて終わるほど簡単には切れないのではないか、と。
「父上、ですが――」
「まだ“ですが”があるのか」
低い声が落ちてくる。
カレルの肩がびくりと震えた。
「僕だって、困っていたのです」
言ってから、それがひどく情けない言葉に聞こえた。
だが、もう止まらなかった。
「エーディアは賢い。だから、きちんと話せばわかってくれると……」
「わかってくれる?」
父の口元が歪む。
笑ったのではない。怒りを通り越して、呆れたのだ。
「お前は、自分が婚約を壊す側でありながら、なお“わかってもらう”つもりでいたのか」
「それは……」
「しかも、愛人を認めろとまで言ったそうだな」
カレルの顔から血の気が引いた。
やはりそこまで伝わっていた。
いや、当然だ。エーディアが隠すはずがない。
「父上、あれは」
「黙れ」
ぴしゃりと切られる。
「お前はまだわかっておらん。問題はお前が結婚を怖れていることでも、女相手にうまくいかぬことでもない」
「……」
「それを、自分一人では背負えぬまま、相手の家も娘も、国境の取り決めも、自分の都合のために使おうとしたことだ」
言葉が胸に刺さる。
だが半分しか入ってこない。
使おうとした、というのは違う。
そんなつもりではなかった。
自分だって苦しかったのだ。ただ少し、出口が欲しかっただけで。
そう思うのに、父の顔を見ていると、その言い訳を口にすることが妙に幼く思えてくる。
「お前はルーヴェン家の娘を、賢いから始末をつけてくれる相手だと思ったのだろう」
カレルは目を伏せる。
完全には否定できなかった。
――そうだ。
――エーディアなら泣きわめかない。理屈が通じる。
――感情を抑えて、何とか穏便な着地点を考えてくれる。
どこかでそう思っていた。
だがその瞬間、父の言葉の意味がようやく少しだけ形を持つ。
それは確かに、甘えだったのかもしれない。
「……しばらく王都へは出すなと、お前の母も言っている」
父が疲れたように額を押さえた。
「この家の中で頭を冷やせ。人前へ出れば、何を喋るかわからん」
「僕はそこまで」
「そこまでだ」
言い切られ、カレルは唇を噛んだ。
わかっていないのは、自分の方なのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
だが、どこまでがどう間違っているのかは、まだ霧の向こうにあるみたいに掴めない。
部屋を下がったあと、廊下の窓から見えた空は、重く曇ったままだった。
――エーディアは、もう戻らないと言ったのだろうか。
――それとも父伯爵が強く出ただけで、彼女自身はまだ少しは――
そこまで考えて、カレルは自分で自分に嫌気が差した。
――まだそんなことを思うのか。
けれど思ってしまう。
彼女は賢いのだから。
本当は、自分の苦しさも、少しはわかってくれているのではないかと。
そしてその考えのどこがいけないのか、彼にはまだ半分もわかっていなかった。
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