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16 土の匂いのする人
話はその後も、驚くほど滞りなく進んだ。
東側街道の監視をどう補うか。
河川輸送の経路に不自然な変化がないか。
備蓄を急に動かすと周辺領にどう見えるか。
小競り合いが起きた場合、どこまでを共同対応の線とするか。
ユリウスは軍略の専門家ではないと最初に言っていた通り、兵の運用そのものについては父ほど鋭くない。
だが補給、農地、輸送、倉、現場の疲弊の出方――そういう“続けるための土台”の話になると、実に話が早かった。
「兵は食べなければ立ちませんから」
彼は当たり前のようにそう言った。
「畑が荒れれば徴発も続かない。備蓄を積んでも、運ぶ道が痛めば意味がない。逆に言えば、そのあたりを押さえれば、表立って兵を増やさずとも下支えはできます」
王都の若い貴族なら、こういう言い方は地味だと笑うかもしれない。
でも私は、その地味さの中にある確かさを知っている。
話しているうちに、気づけば私は身構えることを少し忘れていた。
そのことに気づいた瞬間、逆に自分で少し驚く。
こんなに早く、とは思わなかった。
ただ、ユリウスの前では、女としてどう見られるかより先に、こちらが何を考えているかを話せる。
そのことが楽だったのだ。
やがて一区切りつき、侍女が茶を運んできた。
雨はその頃ようやく降り出したらしく、窓の外で細かな粒が石を打つ音がしている。
乾いていた空気が一変し、湿った土と若葉の匂いが室内の隙間にまで入り込んできた。
固くなっていた肩が、その雨音だけで少し緩む。
茶器に手を伸ばしかけたとき、ユリウスがふとこちらを見た。
「……失礼ですが」
その前置きに、胸の奥が一瞬だけきゅっと縮む。
――また、何か来るのか。
昨日の傷が、薄皮の下でひりついた。
「エーディア様は、かなりお疲れですね」
私は目を瞬いた。
「え」
「目の下に少し影が出ておられる。昨夜、あまりお休みになれなかったのでは」
言い方は落ち着いていたし、妙な含みもなかった。
ただ本当に、観察したことをそのまま口にしただけらしい。
けれど私はほんの一瞬、返答に詰まった。
値踏みでも、容姿への言及でもない。
そうわかっているのに、身体が先に構えてしまったのだ。
その沈黙に気づいたのか、ユリウスはすぐにわずかに眉を下げた。
「申し訳ない。差し出がましかった」
「……いえ」
私はカップを持ち上げた。
磁器の薄い熱が指先に伝わる。
そこへ意識を落とすと、乱れかけた呼吸が戻った。
「少し、立て込んでおりましたので」
「それはそうでしょう」
ユリウスはごく自然に言った。
「急な出来事のあとに、すぐ次の手を打つのは心身ともに消耗します。今日はあまり長く引き留めぬ方がよいですね」
その言葉に、私はようやく彼の顔をまともに見た。
同情ではない。
だが軽視でもない。
痛ましいものとして扱わず、かといって何もなかったふりもしない。
その距離が、今の私にはありがたかった。
「お気遣い、ありがとうございます」
私がそう言うと、彼は少しだけ頷いた。
「いえ。こちらとしても、疲れておられる方に無理をさせてよい話ではありませんので」
あくまで実務の延長で言う。
そこが妙に、この人らしいと思った。
◇
会談が終わるころには、外はすっかり雨になっていた。
帰りの馬車は明朝に回し、今夜は客間へ泊まってもらうことに決まる。
小会議室を出る前、ユリウスは改めて礼をした。
「本日はありがとうございました。急ぎ足ではございましたが、有意義でした」
「こちらこそ」
私も礼を返す。
扉が閉まり、足音が遠ざかってから、お父様がふっと息を吐いた。
「……どう思った」
私はすぐには答えなかった。
まだ雨音が耳に残っている。
硝子を細かく打つ音。湿った風の匂い。カップを持ったときの薄い熱。
それらが、妙にはっきり身体に残っていた。
「思っていたより、ずっと話がしやすい方でした」
それがまず一つ。
「それと」
「うむ」
「私の顔を見ていないわけではないのに、顔ばかり見てくる方ではないのだな、と」
言ってから少しだけ頬が熱くなった。
自分で口にすると、昨夜までの傷がまだそこにあるのが見えてしまう気がする。
けれどお父様は笑わなかった。
「そうだな」
「はい」
「まあ、土と倉の方を見て生きてきた男だからな」
「……お父様、それは褒めておいでですの?」
「たぶん褒めている」
私は思わず笑った。
小さいけれど、自然な笑いだった。
雨はまだ降っている。
昨日までなら、その音は胸の奥の重さを増したかもしれない。けれど今は違う。
ひりつきはまだある。
完全に癒えたわけでもない。
それでも、思っていたより息がしやすい。
そのことが、雨上がり前の湿った空気の中で、じわじわと胸にしみていった。
東側街道の監視をどう補うか。
河川輸送の経路に不自然な変化がないか。
備蓄を急に動かすと周辺領にどう見えるか。
小競り合いが起きた場合、どこまでを共同対応の線とするか。
ユリウスは軍略の専門家ではないと最初に言っていた通り、兵の運用そのものについては父ほど鋭くない。
だが補給、農地、輸送、倉、現場の疲弊の出方――そういう“続けるための土台”の話になると、実に話が早かった。
「兵は食べなければ立ちませんから」
彼は当たり前のようにそう言った。
「畑が荒れれば徴発も続かない。備蓄を積んでも、運ぶ道が痛めば意味がない。逆に言えば、そのあたりを押さえれば、表立って兵を増やさずとも下支えはできます」
王都の若い貴族なら、こういう言い方は地味だと笑うかもしれない。
でも私は、その地味さの中にある確かさを知っている。
話しているうちに、気づけば私は身構えることを少し忘れていた。
そのことに気づいた瞬間、逆に自分で少し驚く。
こんなに早く、とは思わなかった。
ただ、ユリウスの前では、女としてどう見られるかより先に、こちらが何を考えているかを話せる。
そのことが楽だったのだ。
やがて一区切りつき、侍女が茶を運んできた。
雨はその頃ようやく降り出したらしく、窓の外で細かな粒が石を打つ音がしている。
乾いていた空気が一変し、湿った土と若葉の匂いが室内の隙間にまで入り込んできた。
固くなっていた肩が、その雨音だけで少し緩む。
茶器に手を伸ばしかけたとき、ユリウスがふとこちらを見た。
「……失礼ですが」
その前置きに、胸の奥が一瞬だけきゅっと縮む。
――また、何か来るのか。
昨日の傷が、薄皮の下でひりついた。
「エーディア様は、かなりお疲れですね」
私は目を瞬いた。
「え」
「目の下に少し影が出ておられる。昨夜、あまりお休みになれなかったのでは」
言い方は落ち着いていたし、妙な含みもなかった。
ただ本当に、観察したことをそのまま口にしただけらしい。
けれど私はほんの一瞬、返答に詰まった。
値踏みでも、容姿への言及でもない。
そうわかっているのに、身体が先に構えてしまったのだ。
その沈黙に気づいたのか、ユリウスはすぐにわずかに眉を下げた。
「申し訳ない。差し出がましかった」
「……いえ」
私はカップを持ち上げた。
磁器の薄い熱が指先に伝わる。
そこへ意識を落とすと、乱れかけた呼吸が戻った。
「少し、立て込んでおりましたので」
「それはそうでしょう」
ユリウスはごく自然に言った。
「急な出来事のあとに、すぐ次の手を打つのは心身ともに消耗します。今日はあまり長く引き留めぬ方がよいですね」
その言葉に、私はようやく彼の顔をまともに見た。
同情ではない。
だが軽視でもない。
痛ましいものとして扱わず、かといって何もなかったふりもしない。
その距離が、今の私にはありがたかった。
「お気遣い、ありがとうございます」
私がそう言うと、彼は少しだけ頷いた。
「いえ。こちらとしても、疲れておられる方に無理をさせてよい話ではありませんので」
あくまで実務の延長で言う。
そこが妙に、この人らしいと思った。
◇
会談が終わるころには、外はすっかり雨になっていた。
帰りの馬車は明朝に回し、今夜は客間へ泊まってもらうことに決まる。
小会議室を出る前、ユリウスは改めて礼をした。
「本日はありがとうございました。急ぎ足ではございましたが、有意義でした」
「こちらこそ」
私も礼を返す。
扉が閉まり、足音が遠ざかってから、お父様がふっと息を吐いた。
「……どう思った」
私はすぐには答えなかった。
まだ雨音が耳に残っている。
硝子を細かく打つ音。湿った風の匂い。カップを持ったときの薄い熱。
それらが、妙にはっきり身体に残っていた。
「思っていたより、ずっと話がしやすい方でした」
それがまず一つ。
「それと」
「うむ」
「私の顔を見ていないわけではないのに、顔ばかり見てくる方ではないのだな、と」
言ってから少しだけ頬が熱くなった。
自分で口にすると、昨夜までの傷がまだそこにあるのが見えてしまう気がする。
けれどお父様は笑わなかった。
「そうだな」
「はい」
「まあ、土と倉の方を見て生きてきた男だからな」
「……お父様、それは褒めておいでですの?」
「たぶん褒めている」
私は思わず笑った。
小さいけれど、自然な笑いだった。
雨はまだ降っている。
昨日までなら、その音は胸の奥の重さを増したかもしれない。けれど今は違う。
ひりつきはまだある。
完全に癒えたわけでもない。
それでも、思っていたより息がしやすい。
そのことが、雨上がり前の湿った空気の中で、じわじわと胸にしみていった。
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